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いつもの年より少し遅く那覇へ
2010年11月07日(日)
新沖縄文学賞の選考会で那覇へ行ってきました。いつもの年よりも2週間くらい遅い感じです。
青い海から吹き上げる風は涼しくって、東京では行方不明になった秋に沖縄で出会いました。
選考会の翌日、首里の金細工(くがにぜーく)の又吉健次郎さんお宅に案内していただきました。結指輪、房指輪、簪(かんざし ジーファー)などの工房を見せてもらいました。指輪の文化が沖縄にあったのは意外だったのですが、それで沖縄には女性が手を刺青で飾る習慣があったのを思い出しました。針突(ハジチ)と言うのだそうです。手の甲から手首にかけて入れる針突は一人一人異なる文様を持っていたということです。針突の写真をとっている人がいて、その人の写真を見たある人が、手の針突の柄から、ずいぶん昔に行方不明になった姉妹だと解ったという話を、そう、もう20数年前に聞きました。話してくださったのは写真家の比嘉靖雄だったと記憶していますが、記憶違いかもしれません。この頃、私の記憶は茫漠としています。その話を聞いた頃には、まだ針突を施しているオバアが那覇にもいました。
房指輪は葉、花、桃、扇、石榴、魚、蝶と7つの飾りが付いた指輪です。両手をこの房指輪が飾った花嫁さんの写真がありました。指輪はその衣装を用いて現代的なチョーカーなどを作ることができるのですが、又吉さんが大事に見せて下さったのは銀の簪(かんざし ジーファー)でした。「昔の女の人はこれを抱いて寝たといいます」という簪ですが、現在では使う人が少なく、琉球舞踏などで髷を結うときにも、銀細工の簪を使うことは少ないと、残念そうにお話になってました。
「これは女の人の姿になっているんですよ。ほらここが首筋で」 見せていただいた簪の背に細い筋が走っています。その筋がないものは、小さなスプーンのように見えますが、一本の筋がきりりと入るだけで、女の人の姿になるのです。
「昔ながらの職人仕事を残すことはできませんかね」 難しい質問をする又吉さんでした。オリジナルな創作を入れるクラフトではなく、同じものをずっと作り続ける職人仕事をどうして残したいと思うのか、もう少し詳しくお話を伺えばよかったなと後から少し悔やみました 。質問されたとたんに頭に「それは難しい」という考えが浮かんでしまって、質問まで気が及びませんでした。
銀細工は日本の輸出品の主力をなしていた時代がありました。幕末から明治の初期だそうです。精緻な細工が喜ばれたと言います。しかし、なぜか、伝統工芸の中で銀細工が注目されることは、少ないように思えます。なぜなのでしょう。
首里城からそう遠くない場所に、さまざまな職人さんたちが住んでいる職人町があったそうです。那覇は昔は海と小島が入り組んでいる場所だったそうですが、首里は高台にあります。首里のあたりは那覇よりも、落ち着いた感じがします。ちょうど首里城祭りで、王朝を再現したパレードを少しだけ覗いてきました。
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