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中沢けいコラム「豆の葉」
   
 

犬印の腹帯

2010年10月10日(日)

 伊藤さんの「良いおっぱい、悪いおっぱい」の中公文庫版を読んでいたら、腹帯のことに加筆があった。微妙なこだわり方? っていうか、ああ、やっぱり腹帯には、簡単に割り切れない感情があるんだなあと同感。

 私も不器用で、さらしの帯をきっちり巻くなんてのは苦手だったんだけど、腹帯には良い思い出がある。さらしの長い帯の巻き方を教えてくれたのは母で、伊藤さんが書いているとおり、母には「帯祝い」の喜びがあった。私が裁縫嫌いというか、裁縫が苦手なのは、母がひどいスパルタ式に裁縫を教えたことが原因のひとつになっている。だって、できないと物差しでぴしぴしひっぱたくし、「不器用だ」とか「雑な仕事だ」とか、その他もろもろ、よく罵られたので、今でも、なんだか血が逆流しそうな感覚がどこかに残っている。が、腹帯のときは違った。なんと言っても「おばあちゃん」になる喜びの日なのだから、あんなに丁寧に優しく巻き方を教えてもらったことはない。態度がぜんぜん違った。

 で、伊藤さんがスカートの下から腹帯がだらりと下がっていてあせった話を書いていたけれども、それも同じ経験がある。大学の4年生だったから、帯祝いが済んでからも、大学に通っていた。帯祝いって言っても、そんなに大げさなことじゃなくって、母と二人で、暖かい日の当たる座敷で腹帯の巻き方を教えてもらっただけなんだけど、それからも学校へ通っていたわけです。
 大学の400人くらい入る階段教室のスロープを歩いていたら、なんだか他の学生が合図をしているんだけど、その意味が理解できなかった。後ろを指指すから、後方の出入口を見たのだけど、別段、変わったことはない。なんだろうと不信そうにしていたら、いきなり、後ろへぐっと引っ張られて驚いた。スカートの裾から、垂れ下がっていた腹帯を、A君がぐっと握りしめていた。あまりの唐突な展開に大笑いをするしかなかった。

 あの時はそれからどうしたのだろう? 覚えてないけれども、階段教室で腹帯を締めなおすわけには行かないから、きっと、洗面所かどこかに行って腹帯を締めなおしたに違いない。みんなも私も大笑いしたところまでしか覚えていない。で、帯の裾をぐっと握ったA君はと言えば、その頃、もうすぐ、子どもが生まれることになっていた。もう結婚していたのだ。だから、かなり大胆な行動にでることもできたのだろう。
 二部(夜間部)の学生だったA君は、手の指が3本ばかり欠けているところがあった。指を詰めたんだと言って他の学生を怖がらせたりしていたが、実際は、事故で指を切断したそうだ。アメリカ製の特殊なカッターを輸入してビルの壁に穴を穿つ仕事を引き受ける会社を自分で設立していた。「設計図と違う場所に電気の配線があったり、ガス管が走っているのが怖い」と言っていた。「電気の線に触れて感電したり、カッターでガス管に触れてしまうこと」を考えれば、指の1本や2本はなんでもないとも言っていた。
 大学の1年生のとき、語学クラスの飲み会の世話役を5人決めて、その一人が私であり、A君だった。
 それで私に赤ん坊が生まれたときには、黄色い毛糸をたくさんにお祝いとしてくれた。
 所帯持ちのA君が大胆だったおかげで、スカートから尻尾みたいに腹帯を引きずっていたのが、恥ずかしいことは恥ずかしいけど、笑い話みたいになったのだった。

 腹帯には特別に保健上の合理的理由がないって言われるし、もしお腹を保護したいなら、ガードルなどもあるから、それが便利で、尻尾を引きずるような無様な騒ぎもおきなくって良い。でも「お祝い」の気持ちとか、お婆さんになる喜びとか、それはきっと、真っ白な木綿のさらしの帯のほうにあるに違いない。たぶん。

 そんなに高価なものじゃないし、下着の一種だから洗濯のための洗い代えも必要なんだから「帯祝い」を楽しんでもいいんじゃないでしょうかねえ? 伊藤さんが中公文庫のあとがきにニューアカ(ニュー・アカデミズム)のことを書いていたけど、ニューアカも含めて、学問ってやつは感情を無視するのが仕事の一部になっているけど、赤ん坊は観察されるために生まれてくるんじゃないし、年寄りも、ゆっくりこの世にいるのを楽しみたいんだから「お祝い」や「喜び」があったほうがいいんじゃないでしょうかねえ。もめんのさらしの長い帯は、お腹の赤ちゃんを保護するために巻くもんじゃなくって、お母さんの健康のためでもなくって、お祖母さんの喜びのために巻くんじゃないでしょうか? 学者は(医者も含めて、とくに男の学者は)そんなこと考えたこともないし、考えても、とるに足らないことのように思いますかもしれないけれど、こんな小さな喜びが人間には大事なものってこともある。私の母が亡くなったのは、それから三年ほどしてからでした。

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