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中沢けいコラム「豆の葉」
   
 

神田神保町

2011年12月31日(土)

 ようやく大晦日にたどりついたという気もするし、もう大晦日かという気もする今年の大晦日です。2011年は3月11日より前がなくなっちゃったという感じ。それから3月11日から2、3ヶ月はしょっちゅう地震で揺れていましたから、なんだか、思い返すといろんなことがぼんやりしてます。

 仙台へ行った時に佐伯一麦さんと「人の顔がけわしいねえ」という話をしました。東にいるときはあまり感じないのですが、大阪など西へ行くと、ああ、東の人の顔はけわしいなあと感じます。ただ、不満げな顔をした人はあまり見なくなりました。不満げだったり、かったるそうだったり、そういう顔の人をあまり見かけなくなったかわりに、えらくすっきりとしたお洒落をしている若い男の人が目を引くようになりました。「渇」が入ったっていうところでしょうか。

 地震の日以来、東京を歩き回りたくって仕方がないのは私のセンチメンタル。

 で、神田神保町です。すずらん通りにも白山通りにも靖国通りにもアーケードがかかっていたのは何時ごろまででしたでしょうか? アーケードがあり、舗道に商店の品物や看板がたくさん出ていました。全体にわんわんするような人の密度があったのを覚えています。

 ネットが出来たので、神保町の古本屋には「荷」があまり入って来なくなったと聞きました。以前は日本じゅうの古本屋さんが「荷」を神保町に送って、本を売ってもらっていたとのことです。そこへまた本を探す人が集まって来たのが神保町でした。

 本はマニュファクチャーの産物なんだと、この頃、しきりにそれを思います。あと、高級ブランドもマニュファクチャーの産物だと。「それがどうした」と聞かれるとなんともまだ言えないのですけど。考えはそこでぐるぐると回っているばかりです。例えば、いろいろな食物がどうしたって工業化に馴染まないところがあるように、本という品物も、工業化(たぶんITと言ったほうがいいのかもしれませんが)に馴染まないところがあるのではないかと、そういうことを考えているわけですが。

 まあ、とぼとぼとした考えです。公方さまがいた江戸の町、東京を名乗りだした明治の東京、世界の1等国に踊りだした大正から昭和初期の東京、そういう東京はけっこう惜しまれたり愛されたりしているのに、とぼとぼ歩きながらぼんやり思い出している私の東京は、昭和中期の忘れられるだけの東京のような気がしてます。そんなことを考えていたら映画「3丁目の夕日」のポスターが張ってありました。

 なにはともあれ大晦日にたどりつきました。

神田駿河台下

2011年12月29日(木)

 考えてみると、学生の頃、うろうろしていたエリアってそう広いものではありませんでした。

 西側はお茶の水の駅から線路沿いに坂を下って(雁木坂って言ったと思います)水道橋の駅あたりまで。線路を挟んで向こう側は、神田明神や湯島聖堂まで行くことも珍しいくらいでした。東側は聖橋まで。中央大学が八王子に引っ越して、ニッパンのビルが出来てからは、ニコライ堂のあたりに行くことも少なくなりました。今は明大通りと言われている坂を下って神田駿河台下の交差点は、左へ行くことは滅多にありませんでした。

 だいたいうろうろしていたのは、すずらん通りと白山通り、それに明大通りの内側です。それでも、大勢の人が行き交って目が回るような広い世界に放り出されている気がしたものでした。駿河台下の交差点は大きい交差点ですが、明治大学の裏側あたりには、路地がたくさんあって、それを猫のように路地から路地へ歩き回っていました。製本屋さんがけっこうあって紙の匂いがしてました。あと、揚げ物の匂い。それからコーヒーの匂いとカレーの匂い。

 靖国通りにガラス張りのタキイのビルが出来たときは、あれができてからちょっと雰囲気が変わったねと言ったともだちがいました。が、そのタキイのビルがすっかり取り壊されていました。あとにはきっと大きな建物が建つのでしょう。震災のあと、4月の半ばにこのあたりを歩いたときには、なんだかがらんとした感じがしたものでした。

 この頃、家内制工業(マニュファクチャー)と本というようなことをぽつぽつ考えるのですが、考えていると明治大学の裏の路地をフォークリフトが走り回っているのが目に浮かんできたり、大きな封筒を持ったメッセンジャーボーイさんが急いで走り回っていたりするのが浮かんできて、なんだかあんまりまとまった考えになりません。御用納めのあとの神田あたりはきっとひっそりと人気もなくなっていることでしょう。

神田須田町

2011年12月28日(水)

 今年ももうすぐお終いです。夕方、御茶ノ水から神田須田町を歩いてきました。ニコライ堂の前から靖国通りにかけては、しばらく歩いたことがなかったのですが、通りがきれいになっていました。というか、あっちこっちに昭和30年代の建物が取り残されている感じでした。この感じは御茶ノ水、神田界隈だけでなく、飯田橋あたりにもあります。昭和30年代から40年代、つまり日本の高度成長期の建物が取り残されているのは、なんだか寂しそうな感じがします。

 今年はどうも夕方、何を食べようかなと考えているとセンチメントになるようで、昔行ったことあるお店へでかけてみたくなります。で、神田須田町の鳥鍋「ぼたん」へ行ってみました。飯田橋の牛込見付の石垣の上に一番星が出る頃に出かけてました。冬至を過ぎたばかりの日は暮れかけていましたが、時刻は5時を過ぎたばかり。ところが「ぼたん」は大賑わいでした。1時間ほど待たなくってはならないとのことでしたので、諦めて「藪そば」へ。こちらも大賑わいでした
 今年は忘年会もほどほど、そこそこということが多い東京ですが、こんな古いお店は流行るようです。須田町の「ぼたん」「いせ源」「竹むら」「藪そば」などがある一画は、空襲で焼け残ったのでしょう。この一画だけ古いつくりのお店が並んでいます。

 今年ももうすぐお終い。

神田小川町

2011年12月28日(水)

 テレビをぼうっと見てました。今年のニュースを振り返るNHKと、テレビ朝日の原発事故検証番組。ああ、なんだか3月11日よりも前の2011年はなかったことになっているみたいな感じがしました。実感としても今年は長かったような、短かったような、2ヶ月くらい足りないような、時間感覚が自他ともにゆらいでいるみたいな感じがします。

 池袋に買物へ行くつもりが、笹巻きのけぬきすしが食べたくなって丸の内線で淡路町まで出ました。須田町、淡路町、小川町と駿河台下からはそう遠くない街ですが、明治大学へ行っていたころは、明大通りを挟んで東側はなんとなく馴染みがありませんでした。ちょうど中央大学が八王子に引っ越した頃、明治に通っていましたが、まだ引っ越したばかりだったので、明大通りの東側は中央大学の勢力圏みたいな感じというか、思い込みみたいなものがありました。あとから考えてみると神保町というのは神田のはずれで、ちょっと神田とは雰囲気の違う街だったのだなあと、歩いていて納得。

 28日をさかいに神田界隈は、ひっそりとします。笹巻きのけぬきすしを12個買って、それから「ささま」で最中を16個、さらに東京堂で、本をあれこれと買い込んで、これは重いので、発送してもらいました。で、ラーメンを食べて「さぼうる」でコーヒーを飲み、煙草を吸って、なんだか若い男の子たちがおしゃれになったなあと、となりのカップルを眺めていました。ちょっと深刻な話をしていたみたい。グレーがかった薄茶色の革ジャケットをセーターの上に着ていた青年。任地が遠い会社の内定をとっちゃったみたいで、彼女のほうはたいへん不満げな様子。なんだかぎくしゃくしたカップルのぽそぽそした会話を聞いてました。これがちょっとコーヒーの苦さにあっていて微笑。なんて、ヒトゴトだから微苦笑もしてられるわけですが。

 タイトルの小川町から、馴染みの神保町へ移動しちゃいましたけれども、今日はまだせわしげな人も多い神田小川町でした。

 馬に乗っとる伊藤さんがうらやましい。伊藤さ〜ん。いいなあ。馬。ぽこぽことまた乗りたいなあ。

   
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