このごろ食べた物。
2010年11月30日(火)
大阪で伊藤比呂美さんと話していて「生ワインを飲んだ」と言ったら「それなんで書かないの」と言われてしまいました。
食べる物の話を書くとき、いつも、頭をよぎることがひとつあります。それは、有名な輸入食品を扱うお店のPR誌に原稿を書いたときのことです。まだ原稿は原稿用紙に手書きの時代で、出来上がった原稿を家まで取りに来てもらっていたころです。PR誌の原稿をとりきてくれたのは年配の女性の編集者でした。あれこれと話込むうちに 「私、ほんとうは食べ物の話が嫌いなんです」 と打ち明けられました。オリジナルな缶詰や瓶詰め、それからジャムなどで有名なお店ですから、これにはちょっとびっくり。でも、食べる物の話はやたらにするものではないという戒め、今の言葉で言えば教育があったのを、その人とお話しているうちに思い出しました。 食べ物の話は下品だという教育がある時代までは、それほど古い昔ではなく、存在していました。今でも、そういうお家はあるようです。 「食べ物の話は一番安全な話題なんだよ」と、これはもう、まったく逆の話になりますが、こういう知恵を授けてくれたのは吉行淳之介さんでした。私の家もどちらかといえば食べ物に「あれこれ言ってはいけない」「好き嫌いと言ってはいけない」「あれが食べたいこれが食べたいなどと言ってはいけない」という家でしたから、吉行さんの話を「へえ、そういうものか」と聞いたのでした。吉行さんの言う安全な話題というのは「政治」や「経済」や「宗教」などの意見が対立しやすい話題にくらべれば「食物」の話題は安全で、その場にいる人がみんな楽しめると、そういうことだったのでしょう。 吉行さんの授けてくれた知恵は、いろいろな立場の人と社交的におつきあいしなければいけない男の人の感覚。それにたいして「食物のことをあれこれ言うな」はお台所を預かる女の人の感覚。そんな感じなのでしょうか。
で、生ワイン。葡萄の実が入ったままのワインをその場で絞ってもらって飲みます。最初は白濁しているけれども、みるみるうちに透明になって行きます。母とドイツを旅行した時、ロマンチック街道にあったワイン・カーブで飲んでいらいの生ワインでした。最初は葡萄ジュースのようなさわやかな味。それからだんだんお酒らしさが舌の上を転がりだすのです。
伊藤さんたちとてっちりと串カツ。これは伊藤さんのコラムにあるとおり。フグはやっぱり大阪がおいしい。ワニの串揚げもちょっぴり食べさせてもらいました。弾力のある豚肉のような感じ。このごろ食べた物です。
このごろ、会った人、このごろした雑談
2010年11月29日(月)
11月21日にフォーラム神保町の世話人会で、元外交官の佐藤優さんと雑談しました。ロシア大統領の北方領土訪問を巡って、外務官僚の対応がたかを括ったものであったことなど、聞いているとなんとなく清朝末期の宦官みたいな感じだなあと私の感想。それから、「龍馬伝」と「坂の上の雲」が人気なのはその間の日清戦争の頃と状況がよく似ていることなどが話題に出ました。佐藤さんは日露戦争と言っていましたが、幕末と日露戦争の間なら日清戦争かなと、勝手に解釈。もっとも「坂の上の雲」は日清戦争も描いていますから、正確に言えば幕末と日清戦争の間に状況が似ているということになります。 とは言え、清朝末期の宦官のような役人がいるのが日本で、国を挙げて「坂の上の雲」を仰いでいるのが、中国では、100年前と攻守が逆転しています。この雑談、ちょっと気になっていました。それで、あとから思い出したのですが、今年の2月頃、ちょっと怪しい人物に会った時、この人はなにかのブローカーのような仕事をしているらしい日本人なのですが、しきりに「大清帝国の再来」ということを言っていたのです。自分の考えたというよりも、誰かの受け売りをしているようで、いったい何を言っているんだろうと、受け流してしまいましたが、佐藤さんと雑談しているうちに、誰かが「大清帝国の再来」なんていうことをイメージしていること自体が、何事かであるという気がしてきました。
最初にフォーラム神保町の世話人会の日付を入れたのは、11月23日に韓国の延坪島が北朝鮮から砲撃される以前の雑談だったことを示しておきたかったからです。私の身の回りでは、この件に関してはたいていの人の口は重くなっています。雑談の種にするには、深刻過ぎる事態が進行していますから。ソウルの姜英淑さんからは「ぜんぜん問題ない。。。話したい。。。よくわからない」というツイッターでのお返事を11月25日にもらいました。ソウルはいつもどおりに、日々の仕事に忙しく過ごしているのでしょう。私も姜英淑さんとはぜひお会いして、お話がしたいと思っています。こんな「わからない」要素がある時は、会って話すのが一番良いのですから。現在、行われている米韓の海上演習が終わる12月1日になれば、もう少し何か感触が判ってくるかもしれないと、考えています。でも、私の耳には首を傾げて「わからない」と小さく呟く姜英淑さんの声が聞こえています。
11月27日。大阪の新世界で久しぶりに大阪女性文学者協会の尾川さん、それから伊藤比呂美さん、それに伊藤さんのお友達と「てっちり」を楽しみました。伊藤さんはなぜか「新世界」を「新天地」と間違えるのです。まあ、アメリカに行ったり来たりしている伊藤さんにすれば「新世界」はすなわち「新天地」でしょうから。山形で食べた洋ナシのラ・フランスを「おふらんす」と間違って伊藤さんが覚えたときも、確かになんとなく「おふらんす」って感じがするなあと思ったものですが。伊藤さんから「豆の葉」をぜんぜん書かないじゃんって叱られました。確かに律儀に書いているのは伊藤さんばかり。それから私がツイッターのハッシュ・タグの「#kobuta3」を「#kobura3」とやっちゃった時、「コ、コ、コブラになっています」と至急報で教えてくれたGo-toさんは伊藤さんのお友達で、今度、新世界で初めてお会いしました。初対面でしたが、「コブラのGo-toです」って、すぐに解りました。(笑)みんなで屈託なく雑談したり、笑い話したりできる世の中ってしあわせです。
私(中沢)、平田俊子、伊藤比呂美の3人のリスト「三匹の子豚」は「豆の葉」の左のリンクから見ることができます。また「三匹の子豚」のハッシュ・タグは #kobuta3 です。今朝ほど豆蔵君にハッシュ・タグの登録をしてもらいました。もっとも伊藤さんはまだハッシュ・タグの演習中であります。
電子書籍
2010年11月21日(日)
電子書籍に興味はありませんか?とよく聞かれます。電子書籍に興味はあります。でも、紙の本と同じものを電子書籍でやろうという気にはなれません。もし電子書籍で、何かをするなら、電子書籍の特性を生かした何かをしたいものです。
電子辞書は単独のデバイス、携帯からのアクセス、PCからのアクセスといろいろな形態で、すでに多くの利用者を得ています。それは検索機能が、まさに辞書にぴったりのものだったからでしょう。道具がその道具の持っている特性を発揮すれば、道具は単なる道具以上の働きをします。では、もし電子書籍をやるとすればどんなことができるか?どんなことがしたいか?を考えてみました。
さしあたりやりたいのは、インタビューです。今、一番、インタビューをしてみたいのはデザイナーのヨーガン・レールさんです。自分で自分の服を買うようになったのは中学生の頃からですけれども、それからずっと気紛れに、ときには衝動的に、いろんな服を買ってきました。それで解ったことは、私が着るものを買うときは、洋服のデザインも見ていますが、同時に生地に興味を持っているのです。天然素材にこだわるわけではありません。科学繊維も、長足の進歩を遂げていて、こんな生地ができるのかと驚くほどです。で、生地に注意を払っているデザイナーのものには自然に手が伸びます。あとデザイナーでインタビューをしてみたいのは、ヨージ・ヤマモトさんです。やはり生地の使い方が好きです。
インタビューはおもしろい言い回しがあったり、なんでもないことでも、それを言う時の表情がすばらしかったりしても、文字の原稿におこすときに、ずいぶん削らなければならないことが多いのです。電子書籍ならば、書籍といいながら、テレビのようにインタビューそのものを見せることが可能でしょう。それから話題になっている服や生地を画像で見せることも可能でしょう。テレビのように時間の制約にしばられることもなく、編集することもできるようです。生地を見せたい場合に、手で触った感触を伝えることはできないでしょうが、撮影を工夫することで、感触を想像してもらえるような画像は作れるかもしれません。五感のうちで、「観る」と「聞く」は紙の本よりもずっと、多様な表現ができそうです。
クラフトのマーケットなども、取材して電子書籍にしてみたら、おもしろいだろうと想像しています。クラフトのマーケットは以前から、出かけて行きたいと望んでいました。例によって、写真をとるのが苦手、ましては動画撮影なんて、絶対にできっこない私ですが、もし電子書籍のコンテンツを作るなら、写真や動画は誰かと協力してやれば良いなあと思っています。映画を撮るよりも、テレビ番組を作るよりも、ずっと軽やかに、映像撮影者との協力関係が築けるのではないでしょうか?
紙の本にも、映画にも、テレビにも、やれなかった新しいことができるなら電子書籍のコンテンツを作るのも楽しいでしょう。あ、そうだ。詩人の朗読会も電子書籍で制作するコンテンツのひとつとして興味深いものが作り出せるのではないでしょうか。
かんぴょう巻き
2010年11月18日(木)
ツイッターで皆さんにかんぴょう巻きを食べますか? とお尋ねしてみた。
大阪へ行くようになって、東京と違うなあと感じたことは幾つもあるけれども、お寿司屋さんもそのひとつ。もっとも、東京の寿司屋は特別な感じがして、そっちのほうが珍しいのかもしれなと思わないでもない。岡本かの子が「鮨」で描いているすし屋は東京のすし屋だ。御常連さんが、大将から秘密の旨いものを御常連さんたちに出すようなすし屋だ。あまりたくさんの量を食べられなくなった大人が、贅沢と気ままとわがままをいう店。それが東京のすし屋。慣れない客にはちょっと気難しいところもあるのが東京のすし屋。それを岡本かの子は「鮨」でうまく描いている。
大阪はすし屋さんはもっとざっくばらんで、飲み屋に近い。飲み屋に、〆のお茶漬けや焼きおにぎりがあるような感じで、おすしも握っていますというところ。鯖の押し寿司や太巻きがあるのも、大阪のすし屋さんの特徴。太巻きの中には干瓢の煮たのも入っているところもある。なのになぜか、かんぴょうを細く巻いた巻き寿司がない。そこで、ツイッターで皆さんに「かんぴょうの巻き寿司を食べますか」とお尋ねしてみたのです。
東京、神奈川、茨城と首都圏、関東一帯では、かんぴょうの巻き寿司はあくありふれた当たり前の食べ物。もちろん栃木でも。栃木はかんぴょうの大産地。それから北海道と新潟からも「食べます」というお返事をいただきました。運動会と遠足にはかんぴょうのお寿司が決まりというのは、私が子どもの頃と同じでした。子どもには、かんぴょうの海苔巻きと玉子を持たせておけば良いという雰囲気もあって、それで、私は思春期の頃、かんぴょうの海苔巻きが嫌いになった。ご飯に甘い煮物が入っているなんて嫌だなと、あまり、かんぴょうの海苔巻きに手を出さなくなったのだけど、あれはひょっとしたら反抗期の現れだったのか? 海苔巻きと言えば、かんぴょうと胡瓜の入ったかっぱ巻きが定番。かっぱ巻きのほうは決して嫌いになることはなかった。
信州、尾張、三河、岐阜、富山と、かんぴょうの海苔巻きは良く食べますよとお返事をもらった。あまり食べませんねというのは長崎、それから愛媛。食べたということは思い出に繋がっているけれども、食べないということは「思い出しもしないし」「考えてもみない」ということになるので「食べません」というお返事は貴重でした。はやり西のほうではそれほどかんぴょうの海苔巻きは食べない様子。それでも鹿児島では食べましたというお返事もありました。
かんぴょう巻きにわさびを入れてもらって、ちょいちょいとつまむというオツな食べ方を教えてくださったのは戸矢学さん。戸矢さん、御元気そうでなによりです。思春期にご飯の中に甘い煮物を入れるなんて、とかんぴょうを敬遠した私も、どうやら、またかんぴょうの巻き寿司に回帰。大阪では珍しいと知ると、なにやら貴重に思えてきて、東京のかんぴょうの巻き寿司がおいしくなりました。今度、お寿司屋さんで「わさびを入れて巻いて」と頼んでみます。
御協力いただきました皆様どうもありがとうございました。
装丁。造本。製本。
2010年11月16日(火)
本の装丁の仕事をしている人から、紙や栞、のどぎれなどの資材の種類がしだいに少なくなっているという話を聞きます。また、印刷の歴史は良く調べられていて、その関係の本もたくさんあるのですが、造本の歴史となると、あまり本がありません。そうこうしているうちに、造本でなくって、製本で調べたところ、東京製本組合の組合史の本があることがわかりました。「造本」じゃなくって「製本」。実際に製本をしている人の立場から見れば「製本」です。
詩人の平出隆さんから、最近のお仕事の案内をいただきました。本を作っている。つまり造本です。詩人が本を作ると言えば、詩集を出すことをまず考えますが、「最近の仕事」「造本」という言葉で平出さんはご自分の仕事を説明しています。装丁家と詩人で「本」を「造る」ということをすごく意識しているのでしょう。
作品の出来上がりはいったい「何時なのか」ということを時々考えます。小説の場合は「最後の行を書き終えた時」とか、あるいは丁寧な人になると「完」の文字を書き終えた時ということで、一応の完成となるでしょう。でも、それはあくまで一応の完成に過ぎず、どんな場所に作品を発表するのか、どんな形の物に仕上げるのかということが、そのあとに残っています。私の場合は自分の作品はやはり「本」にしたいと思います。電子メディアではなくって、電子ブックではなくって、紙の本にしたいのです。紙の本にする時、もちろん印刷も重要な要素です。デザインも重要な要素です。が、もっとも重要なのは、それが本という形態になること、つまり製本されることなのではないでしょうか?そう思うと造本と言う言葉はおもしろい言葉です。
私がデジカメだ。
2010年11月15日(月)
以前、使っていたデジカメのバッテリーを入れたままにして、調子を狂わせてしまいました。2代目を買ったのだけど、これはあまり使わず、さらに3代目を購入。イギリスに持って行ったのは、この3代目です。ですが、それっきり、あまり写真を撮っていません。
写真が嫌いなんですか? って尋ねられることがあります。嫌いではないのですが、なんだか撮影しようという気になれない。たぶん、自分がいる場所で、撮影をすると「傍観者」的になるのが、ちょっと〜なのかもしれません。姜英淑さんが「k2旅行記」で書いていますが、撮影だけで満足してしまって、見るものも見ないという感じになることがあるからでしょうか?あと、もともと小説を書こうと思うような気質を持っていると、それそのものが傍観者的な要素を含んでいるということもあるでしょう。「私がデジカメだ」なんてね。
今日この頃は、その「私がデジカメだ」の私の頭が、あんまり記憶をしなくなっちゃたのです。5歳のときのことなら鮮明に覚えているんだけど、昨日のことはすぐ忘れてしまう。眼も、人工水晶体を入れたほうは、曇りなく見えるけど、生まれてからずっと使っている天然のほうは、セピア色に曇っているし、これがけっこう幸せなのです。ややはた迷惑だけど。なに、面倒さえ見てくれれば、なにもかも、デジカメのように記憶して、いつまでも執念深く怒っていたり、嘆いていたりするよりはずっと幸せってものです。それに、すごく昔の5歳くらいのときの光景が、今の世の中に2重写しで見えていたりするから、それはそれですこぶる楽しいのです。
それでもせっかく買ったカメラだから、今年の紅葉をちゃんと撮影しようと思っています。まず充電しなくっちゃね。
伊藤さん お土産です。
2010年11月14日(日)
大阪芸術大学キャンパスの紅葉です。なんかこの写真じゃあ、よくはっきりしません。ごめんなさい。あとで黄色くなった銀杏の写真を豆蔵ちゃんに貼ってもらいます。お天気がよくって陽がさすと、赤くなった葉っぱが輝いてみえます。
大阪芸術大学へ行くときは近鉄「阿部野橋」駅から河内長野行きに乗るか、もしくは「吉野」行きや「橿原神宮」行きに乗って「古市」で乗り換えて、「喜志」でおります。でも昨日は電車で本を読んでいたら、「古市」での乗り換えを忘れて、次の「駒ヶ谷」まで行っちゃいました。畠の中の小さな駅でした。かすかに靄がかかっていて、靄の中に稲藁を焼く煙の匂いがしました。学校へ行きたくなくなちゃった。
靖国神社の紅葉
2010年11月12日(金)
秋が深まってきました。と言いたいのですが、今年は「秋が深みにはまりました」とでも表現したくなるような具合に、いきなり、どぼんと寒くなりました。急激に気温が下がった年は紅葉が見事になります。
春はいつまでも寒く、夏はあまりにも暑いという極端な天候でしたから、今年の紅葉はどうかな? と危ぶんでいました。この急激な寒さは、木々を色づかせる力があったようです。靖国神社の森はしだいにその色を濃くしています。このまま行けば、見事な紅葉を見ることができそうです。突然、台風がやってくるなどの椿事がないとは限らない今日この頃のお天気ですが。
三島由紀夫の「仮面の告白」は、三島が書いた最初の長編です。24歳の時の作品です。「仮面の告白」のなかに誰にもめでられることがない桜の花が美しく咲いている場面があります。1945年の春、戦争末期の光景として描かれています。それで、同じ1945年の秋の紅葉を描いた作品は、何かあったかしらとちょっと考えてみました。1945年の夏は異様に暑かったという話は良く聞きます。それからあけて1946年のお正月はずいぶん雪が降ったと、これは、当時小学校4年だった母の昔話で聞かされていました。では秋はどうだったのか?
新潮に連載されていた島尾敏雄の終戦日記を読むと、1945年の11月末までは、日記をカタカナで記しています。カタカナ日記がひらがな漢字交じりの日記になるのは11月末から12月でした。手元に終戦日記がないので、正確な日付を書くことはできません。8月の終戦から3ヶ月。ようやく「生きた心地」が戻ってきたのだと、カタカナ日記がひらがな日記の変わるのを、そう思って読みました。内田百閧ヘ空襲のさなかに「あとから考えると今がいちばん暇な時期だと思い出されるかもしれない」という意味のことを書いていました。三島が誰にも見られることなく桜が満開に咲いている時期と重なります。きっと百閧フ言うとおり、1945年の秋の紅葉は、誰も気に留めることなく過ぎていってしまったのではないでしょうか? 自分の身の回りの眺める「活きた心地」が戻ってきた頃には、雪が降っていたというわけです。
1946年に入って雪の日が多かったことを私の母はよく記憶していました。降り積もった雪を教室の中へ持ち込んで雪山を作り、滑って遊んでいたら、先生にこっぴどく叱られたそうです。神奈川県の秦野に学童疎開していて、山形へ移動する直前に終戦になり、横浜市内の家に戻った小学校4年生でした。その母の話にも終戦の年の秋がどんな様子であったかは、聞いたことがありません。前後の気候の様子から類推すると、燃えるような紅葉が日本各地を覆っていたかもしれません。川端康成の随筆でも読んだら、そんな景色が描写されているかもしれません。そういう目で読んだことがないので、発見していないだけなのでしょうか。
65年前は靖国神社の森もまだ若かったことでしょう。
高くてごめんなさい。文芸文庫「女ともだち」
2010年11月09日(火)
講談社文芸文庫「女ともだち」発売です。1,400円。高くてごめなさい。短編「アジアンタム」も収録されています。角田光代さんがすごく良い解説を書いてくれました。東京女子大の近藤裕子さんによる詳細年譜も載っています。著書目録も入っています。あと、びっくりしている私の写真も(笑)若いって当たり前か。なんとなく自分でも「びっくり」(へへへ)
自作解説は苦手なので、角田光代さんに書いてもらった解説を一部引用します。( )内は私の補足。
〜〜〜以下 角田光代解説 押し流されない「今」から抜粋〜〜〜
(「女ともだち」は)まったく私たち自身の過ごすなんでもない時間に似た時間のなかにいる。それなのに、光景はときおりはっとするほどうつくしい。夜更けに忍びこんだ神社の枯れ葉や、寝転がって見る夜空。窓から見える木々、ぼそぼそと交わされる言葉、そうしたものが、小説のなかで光を放ちながら屹立しているように見える。それはたぶん、彼女たちのいる場所が、彼女たち自身が、明日には姿を消す「今」そのもであるからだろう。一年後には、いやもしかしたら明日には、もう跡形もないかもしれない場所に、跡形もないかもしれない関係のなか、彼女たちは立っている。そんな刹那の奇跡が、ピンで留められた蝶のように、小説のそこここに在る。
(「アジアンタム」について)それにしても、草をむしり、その草の山のわきに寝転がる江木の姿の、一連の描写の濃度は読むたびに圧倒される。濃い草いきれが文字のあいだから漂ってきて、酔いそうにすらなる。そこから浩一が江木を車に乗せる場面へと続くのだが、殺人も起こらないし濃厚なラブシーンもはじまらないのに、たじろぐくらいの緊迫感がある。描写の力強さに、打たれる。
先に、加齢と小説のかかわりを読む楽しみについて書いた。17歳だった私(角田さんです)はこの小説を読んで自身に失望したはずだ。そうして40歳を過ぎて今、私は素直にここに描かれた「今」のまぶしさを全身に浴びることができる。そのまぶしさは、私がこの先年齢を重ねるに従って、どんどん光を強めるような気がしてならない。
〜〜〜〜〜〜以上 抜粋終わり〜〜〜〜〜〜〜
角田光代さんどうもありがとうございました。
ざらざら、ちくちく、
2010年11月08日(月)
那覇のホテルで見たへんてこりんな夢。
東の空が白々として来ることに目が覚めました。夜が明けて行くのを窓越しに眺めて、7時ちょっと過ぎにダイニングへ。もうダイニングは旅行者でいっぱい。みんな早起きだなぁと食事。それからまた寝たのです。夢を見たのはこの二度寝の時。
最初はベッドの中で、「弟」とごろごろ遊んでいるんだと思っていました。無条件にベッドの中にいる男を「弟」だと思い込んでいるところは夢の中だから。ところがこの「弟」が少しエッチなのです。子どもがじゃれているのとは少し異なった行動に出る。で、「あら、誰だろう?」と疑問に感じると、その「?」的人物はすやすやと寝息を立てだしました。寝ちゃったのかと、「?」的人物の首筋や肩を撫でてみると、これがすべすべのお肌。男とは思えないきれいな肌をしているのです。ここはちゃんと感触があり「なんてきれいな肌なんだろう」と感心。感心しながらも、なぜ彼はここにいるのだろうと疑問が湧き、目を覚ますのです。ここが曲者で、私は夢の中で目を覚ますという夢をよく見ます。実にくたびれる夢で、なんだか損をした気になります。たぶん、目を覚ましてからっぽのベッドを眺めて、なんだ夢じゃないと納得したのも、夢の中だったに違いありません。ほんとうに目を覚ましたのは、それからしばらくしてからのことです。妙な夢を見たものですが、「?」的人物の首筋や肩の感触は目を覚ましてからもはっきり残っていました。ちゃんと目を覚ましてからのほうが、なんだか、そこに人がいたような気がしました。
那覇の国際通りに面したホテルなんですけれども、昨年、那覇を訪れたときに、国際通りの裏にはたくさんの門中墓があることを教えてもらい、お墓の間を歩きまわりました。今年、歩いてみると、牧志の市場の脇に立派な新しい道路が完成していましたし、墓地も改装になっているところが幾つもありました。二度寝の夢で、すっと「あ、弟だ」と思わせるところが、なんだか、自分の夢のような気がしません。ダイニングルームから、誰かついてきたような、そんな感じ。でも怖い夢ではないのです。へんてこりんな夢でした。
涼しい沖縄から東京に帰ってみると、なぜか、ざらざらごわごわの生地の感触が好きになっていました。夢のせいかどうかわかりませんけれども。ネパールで織ったという硬いウールの上着を一枚持っていたのですが、これまではそのざらざらとした感触にうまくなじめなかったのです。ざらざらだけではなく、ちくちくもします。で、このざらざら、ちくちくが気に入ってしまいました。なんだろう?
いつもの年より少し遅く那覇へ
2010年11月07日(日)
新沖縄文学賞の選考会で那覇へ行ってきました。いつもの年よりも2週間くらい遅い感じです。
青い海から吹き上げる風は涼しくって、東京では行方不明になった秋に沖縄で出会いました。
選考会の翌日、首里の金細工(くがにぜーく)の又吉健次郎さんお宅に案内していただきました。結指輪、房指輪、簪(かんざし ジーファー)などの工房を見せてもらいました。指輪の文化が沖縄にあったのは意外だったのですが、それで沖縄には女性が手を刺青で飾る習慣があったのを思い出しました。針突(ハジチ)と言うのだそうです。手の甲から手首にかけて入れる針突は一人一人異なる文様を持っていたということです。針突の写真をとっている人がいて、その人の写真を見たある人が、手の針突の柄から、ずいぶん昔に行方不明になった姉妹だと解ったという話を、そう、もう20数年前に聞きました。話してくださったのは写真家の比嘉靖雄だったと記憶していますが、記憶違いかもしれません。この頃、私の記憶は茫漠としています。その話を聞いた頃には、まだ針突を施しているオバアが那覇にもいました。
房指輪は葉、花、桃、扇、石榴、魚、蝶と7つの飾りが付いた指輪です。両手をこの房指輪が飾った花嫁さんの写真がありました。指輪はその衣装を用いて現代的なチョーカーなどを作ることができるのですが、又吉さんが大事に見せて下さったのは銀の簪(かんざし ジーファー)でした。「昔の女の人はこれを抱いて寝たといいます」という簪ですが、現在では使う人が少なく、琉球舞踏などで髷を結うときにも、銀細工の簪を使うことは少ないと、残念そうにお話になってました。
「これは女の人の姿になっているんですよ。ほらここが首筋で」 見せていただいた簪の背に細い筋が走っています。その筋がないものは、小さなスプーンのように見えますが、一本の筋がきりりと入るだけで、女の人の姿になるのです。
「昔ながらの職人仕事を残すことはできませんかね」 難しい質問をする又吉さんでした。オリジナルな創作を入れるクラフトではなく、同じものをずっと作り続ける職人仕事をどうして残したいと思うのか、もう少し詳しくお話を伺えばよかったなと後から少し悔やみました 。質問されたとたんに頭に「それは難しい」という考えが浮かんでしまって、質問まで気が及びませんでした。
銀細工は日本の輸出品の主力をなしていた時代がありました。幕末から明治の初期だそうです。精緻な細工が喜ばれたと言います。しかし、なぜか、伝統工芸の中で銀細工が注目されることは、少ないように思えます。なぜなのでしょう。
首里城からそう遠くない場所に、さまざまな職人さんたちが住んでいる職人町があったそうです。那覇は昔は海と小島が入り組んでいる場所だったそうですが、首里は高台にあります。首里のあたりは那覇よりも、落ち着いた感じがします。ちょうど首里城祭りで、王朝を再現したパレードを少しだけ覗いてきました。
ほ〜い。免許の更新しました。
2010年11月03日(水)
伊藤さん、ご心配をおかけしましたが11月1日に免許の更新しました。一応優良運転手なので、講習30分。今一番の注目は「高齢運転手」ですって。まだちょっと間があるんですけどね。お声をかけていただきまして、どうもありがとうございます。
それで2日は沖縄へ。新沖縄文学賞の選考会。3日、首里祭りのパレードを見てきました。それから金細工の又吉さんのお家にもおじゃましました。沖縄に指輪の文化があったなんて初耳でした。沖縄のことはまた詳しく書きます。
ともあれ、伊藤さん、運転できます。車を運転してまたどっかに行きましょう。今度、熊本へ行くときは免許を忘れずに持って行きますから。
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