「アルネの遺品」とアルフレッド・ウォリス
2007年09月30日(日)
東京は金曜日の夜11時頃にぽつぽつと小雨が振り出して土曜日は肌寒くなりました。今朝は白い雨が降っています。夏から家の中を片付けていて、荷物をトランクルームに預けることにしたのですが、雨のために荷物運びは中止。来週あたり、お天気の良い日を探し出して運び込むことにします。この雨が上がったら秋になっていることでしょう。
横須賀美術館でアルフレッド・ウォリスの展覧会を見てからずっとコーンウォールに行きたくなっていました。港町とか漁師町を見て歩くのもいいなと、そんな気がしたのですけど、自分でちょっと首をひねっていたのは、日本の港町を描いた絵を見てもそんな気持ちになったことがないので、そこが不思議でした。
秋になると写生会という行事が私の卒業した中学校ではありました。港の景色を写生するというのが、通例で、巨人軍の長島選手が選手を引退した日も、その写生会でした。スケッチをしながら、後楽園からのラジオ中継を聞いていました。で、港なのですが、これが中学生にはなかなか描きにくい風景で、写生の対象としておもしろいと感じたことはなかったのです。
いや写生の対象だけではなく、ちょっと旅行してみたいなあと思ったこともあまりありません。が、アルフレッド・ウォリスの絵を見ていると港町、とくに漁港に行ってみたくなったのです。アルフレッド・ウォリスは70歳過ぎから独学で絵を描き始めた人で、もともとは船乗りであり魚具商だったそうです。その描いた絵を見ていると、ありありと、長島の引退試合のライブが流れていた港の光景とか、風や光を思い出すのです。絵にイメージを喚起する力があるのです。
私が生まれた横浜も、育った千葉の館山も、港町として日本が画家が風景をたくさん書いています。横須賀美術館の収蔵品の中にも私の知っている土地を描いた風景画がいくつかあります。それらが喚起する思い出と、アルフレッド・ウォリスが喚起するイメージはまったく違うものなのです。前者はちょっと暗い感じで、後者は明るいというよりは、光の明暗はさておいて、幸福な感じがするのです。
ドイツの作家のジークフリート・レンツの「アルネの遺品」を読んだ時も同じような感じがしました。造船所があるハンブルクの町が舞台になっている小説ですが、この小説を読んだときも、ああ、港町を旅行してみたいなあと思いました。中学校の写生会ではあれほど嫌だった港のごたごたととぐろを巻いているロープとか赤錆の浮き出た碇とか、藤壺のついた岸壁が、情緒的で魅力的な物として目に浮かんでくる感じがしました。この感じはなんなのだろう?こうした目に浮かぶ感じを「想起」と言いますが、なんだか「想起」の仕方が違うのです。どう違うかをうまく説明できなくてもどかしいのですけど、日本の近代文学や近代絵画が「想起させる」感じとジークリフト・レンツやアルフレッド・ウォリスが「想起させる」感じがまったく違うのに、興味を感じています。
伊藤さん 気をつけて
2007年09月29日(土)
あわただしいご出立のご様子。どうぞ道中、気をつけてお出かけ下さい。
東京は昨日の夜、小雨が振り出して、今朝はめっきり涼しくなりました。突然の秋の訪れです。熊本では連日、猛暑が続いていたようですが、伊藤さんが御到着になる頃にはそれもひとだんらくしていることでしょう。
風邪などひかないようにして、お出かけ下さい。道中の無事をお祈りしています。
野葡萄
2007年09月28日(金)
野葡萄の鉢植えを買いました。
ああん、豆ちゃん、この写真は天地が逆さまになています。
ヘコンデル。
2007年09月26日(水)
失敗続きでヘコンデマス。デモ、ゲンコウヲカカナクチャ。
またか、なのか、いよいよ、なのか
2007年09月25日(火)
ソウルの三清洞は景福宮の東側に沿った通りで、ギャラリーやおしゃれなレストラン。本棚のある喫茶店のブックカフェなどが並んでいる通りです。9月に入って買物魔になっている私は三清洞で、白いリネンのエプロンを買いました。リネンというよりも「すずし」といったほうがいいかも知れません。源氏物語絵図に出てくる女君が夏の暑い夜にきているようなシースルーの生地です。絵図だと乳房や乳首に生地の下から透けて見えています。ま、購入したのはボックスプリーツのついたエプロンで、宮廷の女官でもないかぎり、そんなエプロンはしないだろうな、という品物。
で、ソウルに出かける前から、アメリカのサブプライムローンの焦げ付き問題のニュースがちらりほらりと出ていました。そのためイギリスでは中堅銀行の取り付け騒ぎまで出て、その銀行の処理が大きな問題になろうとしています。サブプライムローンの焦げ付きは23兆円だそうです。
「またか」と思うのは、97年のアジア通貨危機の時も最初のニュースは、こんどのサブプライムローンのように日経の一面の小さな記事として伝わってきたのを思い出したのです。タイのバーツの暴落。それから韓国がIMFの管理下に入り、日本では山一證券が廃業しました。新聞の小さな記事を見て「これはおおごとなんじゃないかな?」と首をひねっているとだんだん日を追うごとに、大きな騒ぎになって行くという感じは「またか」です。
アメリカでは退任したグリーンスパン議長を責める声が大きいと新聞にでていました。サブプライムローンはグリースパン時代の金融政策から生まれたローンであるからです。そこで思い出すのが、97年、つまり、夏の会話。その頃、ともだちとアメリカの経済がいつパンクするかが、かなり影響を出すだろうという話をしたのをよく覚えています。いや、タイのバーツの暴落だけで、そこまで話を持って行くのは強引すぎると言われました。で、その後は皆さんがご存知のグリーンスパンマジックで、アメリカ経済は予想されたような打撃は受けたかったわけですが、この夏頃から聞こえてきたグリーンスパン非難を重ね合わせると、どうも「いよいよ」みたいな気もします。
97年当時は橋本内閣でした。消費税の税率が3パーセントから5パーセントに引き上げられた年です。
権力と特定の個人の存在と結びつけずに、交代可能な役職と結びつける民主主義というやり方は、そのやり方自体に、こうした任期切れのあとに問題が噴出するという欠陥を宿命的に持っているのかもしれません。
で来年は北京オリンピック。オリンピックが終わると中国の建築ブームもひと段落して、日本も韓国もオリンピック開催後に経験したような一時的不況を中国も経験することになるでしょう。そこに、アメリカのサブプライムローンに単を発した金融問題が重なるとはてさてどうなるのか?アジア通貨危機の時よりは、日本の貿易相手国はアメリカよりも中国に比重が移っています。
金融危機で混乱する欧米をしりめにアジアは堅実は経済発展で反映するなんていうバラ色の未来があるのか?それとも、アメリカ、イギリスの金融危機にまたもやも着込まれて、ここのところ、少しばかり快復してきた日本の景気が冷え込んでしまうのか?はてさてどっちなのでしょうか?バラ色のほうもちょっとだけイメージしてみることができるのが、97年の世紀末的な金融危機の不安とは違うところで、ちょっとだけ21世紀的になっている気がします。
頭の中はばらばら
2007年09月25日(火)
携帯電話の機種変更をした。すごい混雑で、銀行みたいに番号札を持たされた。で、ようやく、順番が来て、機種変更。つまり新しい携帯を手に入れた。もちろんカメラ付き。ただ、料金体系を説明されたけれども、あまりにも複雑で頭の中はばらばら。
バターケースを見つけた。即、買う。以前からたぶん10年以上前から欲しかった形態。思わす「あった、あった」と言ってしまった。でも、このごろ、買い物魔とかしている。だってバターケースを持って家に帰ったら、ソウルの梨泰院で注文した革のコートが届いていたのだもの。ああ、どうやって払うのだろう。ちょっと考えてみるけど、頭の中はばらばら。
城戸朱理さんのブログを覗いたら、猛暑の名残でなかなか仕事がすすまないのを嘆いていた。当方も同じ。かなり仕事が遅れている。どうしようかなと考えながら、やっぱり頭の中はばらばらのまま。
学校が始まった。でも、まだ暑い。まだ夏休みが必要なくらい暑い。で、その学校はただいま工事中。工事の区域をさけて移動するには、どうしたらいいのかを考えなくちゃならない。でも、考えても、頭の中はばらばら。もともと、法政大学ってのは斜めの敷地にあるので、同じ敷地の中で、校舎によって一階のある場所が異なっている、地上から校舎の中に入ったからと言って、そこが一階とは限らない。地下一階だったり、ときには地下二階だったりする。地上から入ったはずなのに廊下を歩いて行くと、いつのまにか2階の廊下を歩いているなんていう摩訶不思議な校舎もある。だから頭の中はばらばら、ますます、ばらばら。
極め付きは、後期の月曜日の授業の最終日は12月24日であることに気づいたこと。なんと12月24日のディナー・タイムに試験をやらなくちゃならない。なんと言うことだ。
ソウル郊外の骨董団地
2007年09月23日(日)
城戸朱理さんの案内で、東大門から少し離れたところにある骨董団地に行った。地下鉄で行ける場所だから、郊外というのは言いすぎかもしれない。ソウル市内の東側くらいか。 名前をどうしても思い出せない。人に案内してもらうとこういうことがよく起きる。
ソウルと骨董って言えば、すぐに思い出すのは仁寺洞で、この通りには紙屋さんもあれば文房具屋さんもあって、日本人の観光客も多い。以前、焼肉ガーデン(なぜかソウルでは焼肉屋は○○ガーデンという名前のお店が多い)のあったとことが、今はアートとファッションビルになっていたし、凸凹した舗装の曲がりくねった露地に韓定食屋が並んでいたところにワインバーがあったり、民俗趣味のレストランになっていて、仁寺洞も変わったものだと思った。なにより、韓国といえば焼酎とまっこりだったのが、ワインを飲む人が増えていた。以前は漢河の南側の江南でしかワインバーを見かけなかったけれども、このごろは旧市街でもワインバーが増えているようだ。で、仁寺洞の話に戻るが、この街で売っている骨董は、旅行者でも持ち帰れるような大きさの品物が多い。「日本で言えば日本橋中通りだね」と城戸さんが言っていたけれども、そんな感じだ。
で、今回連れていってもらった骨董暖地はひと目、見て、思わず「石屋だ!」と驚いてしまった。
ほら、日本でも石屋さんが、墓石とか、なんだか趣味でつくったようなドラえもんとか、そういう石の彫刻というか、細工物を置いているでしょう。あれに似てました。土を盛り上げて作るお墓の入り口におく石馬とか石羊、アーチ型の石の橋、蹲(つくばい)のような気がするけれども丸くなくて長方形の溝が掘られた石。それから斎州島でみかける魔よけのおじさん(これまた名前をいきなり度忘れしていまいました。ごめんなさい)などなど、大小あるけれども、驚くほど巨大(キロではなくてトンの単位が必要なほど)のさまざまの石の製品がある。買い物をするにはクレーン車が必要。
で、二棟ほどある骨董品屋さんの並んだ建物に入ってみると、そこには昔、農家で使っていたらしい民具や農具、貴族趣味的な箪笥(がっちりした金物がつかってある。桐箪笥の金具をより頑丈にした感じ。もっとも日本でも昔の桐箪笥にはずいぶん分厚い金具が取り付けられていたけれども)こういう古い箪笥を買って金具だけとり箪笥本体は新しく別注で作って、金具を取り付けることがあると聞いたことがある。長持や唐櫃もあった。骨董というよりも古道具である。で、思い出したのがソウルの集合住宅の大きさと広さである。天上が高くて、しかも広い。団地、マンション、いずれの名称を使うとしても、全体に大きく広く作ってあるのだ。あと、もともとの住宅も床暖房のオンドルなので、石の家からコンクリートの家に移り住むのは、木と紙の家からコンクリートの家に移り住む日本よりも感覚的な差が少ないのかもしれない。きっとそうしたことから、古道具の需要があるのだろう。
家の広さというのは、人間の美意識にずいぶん影響するに違いない。美意識に影響するということは、結局のところ、人間の希望や欲望に響くだろう。ちょっとそんなことを考えた。
大原の家の件が、着工寸前にまで来ているので、どうしたも大きな物に目が行く。キロ単位ではなくてトンの単位。そんなものを買ってどうするんだ!と内心で自分を取り押さえながら、あっちこっち見て回って買ったのが中国製の真鍮の香炉と植民地時代の花瓶。どっちもスーツケースに入る大きさです。
月は輝く
2007年09月22日(土)
鈴木隆之氏のところに、大原の家の打ち合わせに行きました。で細かい文字を見るとき 「へへへ、昨日、眼鏡を作ったの」 と言うと、鈴木さん、うれしそうに 「やっぱりそうなったか!」 そうおっしゃっていました。こういううれしい感じって、好きです。なんだかねえ。どういったらいいんだろう? よくわかりませんが「へへへ」です。 確かにやっぱりそうなったのですが、でも老眼(遠視)ではなくて近眼だったことは以前にここに書きました。で、眼鏡は二つつくりました。遠くを見る用と、近くを見る用です。で、パソコンはどっちで見たらいいんだろう? と思っていたら眼鏡屋さんが言うには、今のところ、パソコンは眼鏡を使わなくてもいいそうです。まあ、パソコンの場合は、文字を大きくすることもできますし。でも、ちょっと複雑な気分。パソコンの画面との距離だけ、焦点があっているなんて、いったいぜんたい、まったく、もう、です。
さらに疑問は大学の教室ではどっちを使ったらいいのでしょうか?ゼミ室の隣に座っている学生は、遠く用ではなんだか歪んでみえるし、後ろの席に座っている学生の顔は近く用ではぼやけてしまうし。 「なんで遠近両用で作らなかったんですか?」 さっそく、ゼミ生に言われました。だって眼鏡は生まれて初めてで、遠近両用を使いこなせるかどうか不安だったからとかなんとかぶつぶつ言うと 「先生、眼鏡かけてませんでしたっけ? 僕、先生の眼鏡みた記憶があります。眼鏡をさげてじろりとにらまれました」 と言うのです。 「かけていたとしたら、サングラスだけど?」 「ええ、先生がサングラスかけるのですか?」 って、いったい何を見ていたんだという珍問答もありました。眼鏡をかけたりはずしたりしながら、教室に座っていると先生になった気がしました。 「前から先生でしょう」 それはそうなんだけど。結局、教室ではどうしていいのか結論はでませんでした。
ともあれ、何年かぶりでお月様がひとつになりました。月は輝くです。遠く用で月をみると実に涼しく輝いていました。
網膜に問題があると、今回、眼科で診察してもらってわかったのですが、これは眼鏡では調整できないそうです。思い出してみると10年以上前に、夕暮れ時に車を運転していると、猛烈な眠気に襲われることがありました。しかたなく、路傍のラーメン屋さんやうどん屋さんの駐車場に車を入れて仮眠したことも一度や二度ではありません。とくに埼玉にチェーン店の多い山田うどんさんにはしばしばお世話になりました。山田うどんさん、どうもありがとう。で、たぶんその頃、網膜で何かが起きていたらしいのです。お月様のその頃から、輪郭がぼやけていました。でも、視力に問題を感じてなかったのは、網膜がしっかりしている右の目で、文字を眺めていたからです。が、その右目もとうとう近視に、漢和辞典の画数の多い字が見えなくなったのは、3、4年前、今年に入って広辞苑が見えないというので、あせりだしたのでした。
10数年前に網膜で何が起きたのかは謎です。
大原の家の打ち合わせで、施工をしていただく森社長から梨をいただきました。で、梨を持って深川図書館の前の「ババグーリ」ヘ。ヨーガン・レール本社の一階です。秋冬物のスカートや上着を見ているうちに、梨が重くなり、お店の隅に置かしてもらいました。そうこうするうちに店員さんが 「去年も梨を持ってお見えになりませんでしたか」 と質問するのです。私も質問される少し前にそのことを思い出していました。 「なんかデジャ・ビューがあるなと」 そうなんです。去年も大原の家の打ち合わせで森社長から梨をいただいたあと、「ババグーリ」によってスカートを買ったのでした。タイシルクの撒きスカートです。とすると一年も前のことになります。店員さんもよく覚えていたものだとびっくりしました。
スカートを一枚買いました。スカートを選ぶときに眼鏡を出したかというと、眼鏡のことはすっかり忘れてました。
眼鏡に関しての息子の感想 「こわいなあ」それだけ。 眼鏡に関しての娘の感想 「眼鏡の時はアイメイクはやめたほうがいいよ。目の周りだけ飛び出す絵本になっちゃうから」ああ、そうですかって、飛び出す絵本ねえ……
お月様は笑っています。
カンジャンケジャン
2007年09月21日(金)
ソウルへは骨董を買いに行こうという城戸朱理さんのお誘いでした。城戸さんほか、何人かと「無弦琴の会」というのをやっていて、骨董を買うのを楽しみにしています。そのうちに無弦琴の会のブログを作ろうという話も出ていますが、いまのところ、この会のもっとも詳しい報告は、城戸朱理さんのブログにあります。興味のある方は除いて見て下さい。城戸さんのブログのアドレスはリンク集にあります。
で、骨董の報告は私がデジカメのいじり方を修得してからに譲って、今日はカンジャンケジャンの話。ケジャンというとまっかなニョクマム(薬味)ケジャンがすぐ浮かびますが、今回、食べたのは渡蟹をお醤油に似たカンジャンにつけたカンジャンケジャン。蟹みそがたっぷり入った5月の渡蟹を急速冷凍したものだそうです。これがうまいの、なんのって、朝ごはんを食べていると、突然、舌がそのうまさを思い出すおいしさでした。あまりのうまさに骨董なんてもういいや!と口走る始末。ああ、また食べたいカンジャンケジャンです。日本人にはニョクマムケジャンよりもカンジャンケジャンのほうが合っているのではないでしょうか?もっとも日本の市場ではニョクマムケジャンは見かけてもカンジャンケジャンはあまり見かけませんから保存が難しいのかもしれません。蟹をばりばり食べる醍醐味と、お刺身的はおいしさが合体していました。
以前、東大門の近くに泊まったときも、ユン・デニョン氏が「これはあんまりだ」と呆れて、もう少しましなホテルを紹介しようかと言ってくれましたが、今回もまたまたユン・デニョン氏を心配させてしまったみたいです。東大門市場の近くにホテルをとったのは、ひたすら鶏の丸ごと鍋であるタッカマリを食べたかったからなのです。タッカマリで有名な店が近くにあるという理由です。しかし、次にソウルに行くときは、カンジャンケジャンのお店の近くに良いホテルを捜したくなりました。そうそう、城戸さんのブログにはカンジャンケジャンの写真もあります。私は写真をとるなんて余裕もなくひたすら「おいしい!おいしい!」と食べるだけでした(笑)
お誕生日おめでとうございます。
2007年09月13日(木)
伊藤比呂美さん お誕生日おめでとうございます。
伊藤さんはおとめ座なのね。
ただいま!
2007年09月11日(火)
昨晩、ソウルから帰ってきました。羽田から金浦、金浦から羽田というコースの飛行機を使いました。羽田からの国際線は初めて乗りました。30年ほどまえに弟がイギリス旅行の行くときはまだ成田空港が開港していなかったので、羽田まで見送りに行きましたが、自分で羽田から海外に出るのは初めてです。
金浦のほうは久しぶり。羽田にしろ金浦にして、都心に近いので成田や仁川をつかうよりも便利です。近距離の飛行機はみんな羽田から飛ぶようになってくれないかしらって思いました。ヨーロッパやアメリカまで行くときは成田でも納得できるのですが、飛行時間が2時間とか3時間程度の時は、成田まで行くほうがたいへんで、それでくたびれてしまいます。
ソウルでは「カンジャンケジャン」と「タッカマリ」と「サンゲタン」と「ピョンヤンレイミョン」を食べました。イシモチの焼いたのもおいしそうでしたが、今回はパス。詩人の城戸朱里さん夫妻と一緒の旅でした。 7月に日本滞在を終えたカン・ヨンスさんそれに、作家のユン・デニョンさんにもお会いしてきました。お二人に韓国料理のニューベル・キュイジーヌとも言うべきモダン宮廷料理をご馳走になりました。ユン・デニョンさん、カン・ヨンスさん、ご馳走さまでした。
これからソウルに行ってきます!
2007年09月07日(金)
台風9号が小田原に上陸しました。昨日から羽田は大混乱みたいです。でも、これから羽田発の便でソウルに行ってきます。では。では。
留守の間に荒川が氾濫するなんてことがないように。息子が通っている自動車教習所が水浸しなんてことがないように。その他いろいろ、心配ありありですが、まあ、出かけることにします。昨日(6日)も横須賀美術館で、大荒れの浦賀水道を見ていました。
萩原朔太郎賞受賞おめでとうございます。
2007年09月04日(火)
伊藤比呂美様
朔太郎賞受賞おめでとうございます。
お祝いに車を一台って、それはむりか。ミニカーくらいならカルフォルニアに送れるですけど(笑)さて、お祝いは何にしようかしら?考えてみます。
昨日、大庭みな子さんの会に行って、大庭さんとももっとお話しておけばよかったなあと少し後悔しました。なんかねえ、お話するには距離がありすぎるような気がしていたんですけど。大庭さんに限らず、詩を書いたり、小説を書いたりする人とは、どういったら好いのかな、話たいことをうまく話していないような気がすることがあります。どうしてかな?自分でも不思議です。
言いたかったのは「おめでとう おめでとう おめでとう」と今日はそれだけです。天草に行ったときに伊藤さんが興味を持った隠れキリシタンのオラショをどんなふうに伊藤さんが作品にするのか、すごく楽しみにしています。ではでは。
冬休みは風邪、夏休みも風邪
2007年09月04日(火)
夏休みと冬休みと、年間に二回は風邪を引いています。どうしたことだ。
今年の夏風邪は熊谷で40度を超えたという酷暑の日にやってきました。冷房を切って家の中の空気を入れ替えたのです。で、あまりの暑さに、そうそうに窓を閉め切って再び冷房を入れました。すると、喉に痛みが。あれ、これはちょっとちょっとおかしい。と思う間もなく、ひどい咳が出始めました。久しぶりに液体の咳留め薬のお世話になりました。それでも気管がぜいぜい言ってました。
そういうわけで、やっと風邪がなおってきたところです。咳もなんとかおさまりがついてきました。
伊藤さん、おひさしぶりです!
2007年09月02日(日)
伊藤さん、おひさしぶりです。お元気そうで!そういえば、私も乗馬クラブに通っているときは、音楽の仕入先はひたすらFMラジオでした。このごろは車にもまり乗らないから音楽の仕入れ先はありません。いや、息子か。で、その息子が今年の暮に「展覧会の絵」をオーケストラでやるみたいです。この間はチャイコフスキーの交響曲5番にホルンで乗ってました。
やっぱりアメリカはマーチングバンドなんですね。日本のマーチングバンドのコンクールでも強いチームにはアメリカ人のコーチがついてたりします。そうそう、うちの娘もマーチングバンドをやっていました。そのときのお師匠様は毎年、夏休みになるとアメリカにマーチングバンドの見学に行ってました。
そのうちに「楽隊のうさぎ」マーチングバンド編も書きたいなあって思っていますけど、今は頭の中は15世紀なの。というわけで夏休みに入るや否や連載がはじまるぞ、はじまるぞと緊張して、でも夏の暑さにはすっかり負けて、思ったほど原稿をかけていません(ごめん)今年は暑かったんです。ここ数日やっと涼しくなったら、今度は身体がだるい。で、ジョーバが来るのが待ち遠いしいのです。でもジョーバが来る日の翌日にはゼミ合宿に行かなくちゃならないし、その翌日にはソウルに行きます(原稿はどうなるんじゃい!)
わあい!伊藤さんがまた書き込みをしてくれるようになってうれしいな。伊藤さん、ちょくちょく書いて下さい。よろしく御願いします。
|