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ソウルの駐韓日本大使館前の従軍慰安婦少女像
2012年08月23日(木)
ソウルの駐韓日本大使館の前に従軍慰安婦の「少女像」が建てられたのは2011年12月でした。この少女像の撤去を野田総理が李明博大統領に求めたのも昨年12月のことです。これに対して李明博大統領は従軍慰安婦問題の解決を求めました。これが今回の李明博大統領の竹島上陸、天皇への謝罪を求める発言、そして15日の従軍慰安婦問題解決を促ながす演説という行動と発言の発端になっていると思います。
この一連の流れについてはネットではなく、活字によるパブリックな発言をするつもりでいました。が、ここ数日、ツイッターを見ていますと、茂木健一郎氏や吉村作治氏など、人気のある人物が新聞が報じる「李明博大統領の豹変」的な内容をそのまま信じたとみえる発言が繰り返し流れていました。そうした内容がそのまま広がって行くことに危惧を覚えました。
ネットでは、それがHPであれ、ブログであれ、NSNであれ、どのようは内容でもすぐに発言できますし、また、簡単に訂正できます。簡単に内容を取り消したり、訂正したりできます。そうした機動性は、記録としての不安定性と表裏一体です。ですから、2011年の12月から2012年8月に至る日韓の交渉の過程についての私の考えは、記録としての安定性が高い雑誌もしくは新聞などの紙メディアに発表することが好ましいと考えていたのでした。しかし、このまま、乱暴な言論が影響力の大きい人々のNSNで伝播するのは不安なので、これまでに経緯について、私の見方を簡略に書いておきます。
昨年12月にソウルの駐韓日本大使館前に少女像が建てられたことは前述のとおりです。従軍慰安婦問題は1993年に当時の官房長官であった河野洋平氏の談話が発表され、これが日本政府の見解となっています。この河野談話を日本政府が否定したという話は寡聞にして聞いていません。もともと日本政府の受け取りと、韓国側の主張にはすれ違いがあり、河野談話の評価については、韓国側にも日本側にも不満がありました。1993年8月から2011年12月に至る経緯は複雑なので、今回は省略。
ソウルの駐韓日本大使館は復元作業が進む景福宮前の安国にあります。安国は王宮前の両班(貴族)の屋敷があった街です。現在は景福宮を訪れる外国人観光客の姿もよく見られる場所にあります。ここの従軍慰安婦の「少女像」が建てられたのです。右翼的な考えの人はこれを「従軍慰安婦像」と言いますが、大人の女性ではなく少女の姿をしているのは、おそらく従軍慰安婦の名誉回復が主題だという運動をする側の考えが反映されているものだと推察されます。野田首相がこの少女像の撤去を李明博大統領に申し入れたのも昨年12月でした。 日本ではこの野田首相の申し入れはほとんど報道されませんでした。そもそもソウルの駐韓日本大使館前に「少女像」が建てられていることそのものが、あまり報道されていないので、野田首相の申し入れも報道されないという状況になっています。 これに対して李明博大統領が従軍慰安婦問題の解決を求めたことは「唐突に過去のことを言いだした」というニュアンスの報道がされました。前提の駐韓日本大使館前の「少女像」が報じられていなければ、李大統領の発言は「唐突」に感じられるはずです。
12月に発端があり、3月、5月と李明博大統領は従軍慰安婦問題の解決を求める演説をしています。これに対して日本政府がなにか応答をしたという報道は、私は見ていません。おそらく何の反応もしなかったのではないでしょうか。6月に入って日本の右翼と思われる人物がソウルの駐韓日本大使館前の「少女像」に「竹島は日本の領土だ」と書いた杭を縛り付けるという事件が起きました。これは私は韓国の中央日報の日本語版で知りましたが、日本国内ではほとんど報道されていません。12月の野田総理の「少女像」撤去要請から6月の少女像に杭が縛り付けられるという事件が李明博大統領の行動と発言の伏線になっていると私は思います。極端な解釈をすると李大統領は2011年12月から2012年6月に少女像を巡って起きた事柄を、逆回転させて見せたという解釈も可能です。
まず竹島に上陸して、「竹島は日本の領土だ」と書いた杭を少女像に縛りつけた日本の右翼の行動に対応した行動をする(これが8月10日だったかな)そして、大学の講演で天皇は独立の志士に対して謝罪すべきだと発言(これが8月14日だったか)これは日本政府が従軍慰安婦問題に無為無策な態度をとっていることに対して国民的不満が出るとはどういう状態なのかを作り出すという効果をねらったと考えることもできます。実際これ以降、「韓国は日本へ謝罪しろ」の大合唱になりました。そして15日に従軍慰安婦問題の解決を求める演説をして、問題を昨年12月の時点にまで戻すという流れだったのではないでしょうか。
これが政策的に見て良い政策であったのか、まずい政策であったのかは私には解りません。ただ、解っていることは李博明大統領は2012年12月には任期切れで退任が決まっているので、かなり思い切った態度に出て、日本に従軍慰安婦問題の解決を迫ったことだけは確かです。そしてそれは駐韓日本大使館前の「少女像」撤去をも視野にいれているものと思われます。私が危惧するのはもともと発端の「少女像」についての報道が日本でなされていないために、日本側の言論がどんどんと歪んだものになって行くことです。
昨日(8月22日)も日本の右翼がソウルの従軍慰安婦博物館と歴史問題研究財団に「竹島は日本の領土だ」という杭を打ち込むという事件が起きています。これについては韓国の警察が捜査中です。また橋下大阪市長は「韓国大統領が突然、歴史問題を蒸し返して豹変」という新聞報道を信じ切ったのか、ネトウヨなみの不用意な発言をしています。茂木健一郎氏、吉村作治氏のツイッターでの発言も、新聞報道を信じ切っているために出た発言と思われます。
「従軍慰安婦」の名誉回復
2012年08月15日(水)
従軍慰安婦問題がクローズアップされたのは1991年頃でしたので、かれこれ20年前になります。従軍慰安婦であった女性の「名誉回復」がポイントだと私に話してくれたのは、元従軍慰安婦の共同生活の様子を撮影したドキュメンタリー映画「ナムヌの家」の監督ピョン・ヨンジュさんでした。その頃はまだ20代の女性だったピョン・ヨンジュさんも、考えてみるともう40代になろうとしているはずです。しばらくお会いしていませんが、お元気でしょうか。宝塚の女優さんみたいな風貌の人です。
私が興味を持ったのは、女性の社会的政治的地位が向上したあとに、成人したピョン・ヨンジュさんのような若い世代が、歴史の波の中で翻弄された老女の「名誉回復」を計ろうとしていることでした。過去を置き去りにして、自分の世代の自由を謳歌するという態度ではないことに興味を持ったのでした。従軍慰安婦については、沖縄の従軍慰安婦を取材した「赤瓦の家」を書いた川田文子さんにもお会いしてお話を伺ったことがあります。川田さんが過去を丁寧に辿っているのに対して、ピョン・ヨンジュさんは「現在」をテーマにしていました。
もしピョン・ヨンジュさんから従軍慰安婦の問題は「国による名誉回復」がポイントだと聞いていなければ、いろいろな場面でたいへん困惑を味わったはずです。と言うのも、この問題には「女性の社会的名誉」「ナショナリズム」「性」「歴史観」など感情を刺激しやすいテーマが複雑に、絡み合い、錯綜した経緯をたどっているからです。李明博大統領の「竹島訪問」から「天皇謝罪」発言までの経緯も、従軍慰安婦問題のポイントが「国による名誉回復」だと知らなければ、面喰ったはずです。
この20年間に従軍慰安婦問題は、さまざまな要素が付け加わってしまい、混乱した状態を生み出しています。が、最初の「国による名誉回復」というポイントは今回の李明博大統領の行動や発言を見る限り、まだ生きている問題だと感じました。この問題は1995年の村山内閣の時に「アジア女性基金」が設立される計画が出て、その後、幾多の変遷をへて実際に基金が設立されました。この時、この基金が「国」ではなく「民間」の団体とされたことが、反発を呼びました。設立から2007年の解散まで、それこそもみくちゃの議論や批判が日韓双方から出て、その議論にはとてもついては行けないものを感じました。「国」によるか、「国」によらないかというところが重要なポイントになっています。
「国による名誉回復」は私はピョン・ヨンジュ監督から直接聞いた言葉で、新聞報道では「謝罪と賠償」をいう表現が使われています。「謝罪と賠償」も間違いではなく、そういう要求がされていることも事実でしょう。そして日本側では「謝罪」のほうは軽く扱われる傾向があり「賠償」問題として捉えられることが多いのです。「名誉回復」は「謝罪」の要求のほうに含まれるのですが、これが「賠償」のほうに傾くことで、すれ違ってしまうのです。また日本の政治家も官僚もあまり「名誉」について語る言葉を持っていないために余計に事態が面倒なことになる場面も何度も見ました。
自分自身の権利を放棄するという意味で「名誉なんかどうでもいい」と言うことはできます。また同じ仲間の中で「名誉なんかどうでもいい」と言えば、それは仲間同士で権利を譲り合うことを意味する場面を生み出すでしょう。しかし、外に向かって、仲間以外の相手に向かって「名誉なんかどうでもいい」と言えば、これはもう喧嘩を吹きかけている状態であると言えるでしょう。「内向き」の言葉しか持っていないという状態が、従軍慰安婦問題では時折、火を噴くように現れます。
言葉にこだわるついでに、「従軍慰安婦」という言葉にもこだわっておきます。韓国では「従軍慰安婦」という言葉を使わず「挺身隊」という言葉を使っていました。この「挺身隊」は日本では女学生などが、軍需工場などに動員された時の名称です。この言葉のすれ違いを巡って滑稽な場面が展開されるのを私は何度か目撃しています。それがいつのまにか「性奴隷」という言葉が使われるようになりました。この「性奴隷」という言葉は、従軍慰安婦問題が国際化する過程の中で、英訳する時に使われ始めたのかもしれないと、私は推測しています。そして、この言葉の変遷は、この問題が歴史に翻弄された女性の「名誉回復」から、しだいに国際的な「道義問題」へと展開したことを物語っているように見えます。問題が異様なほど肥大化してしまった結果として「性奴隷」というような刺激的で、しかも空疎で、かつ、当事者双方にとって不愉快な表現が使われるようになっていましました。
「従軍慰安婦問題」が出るたびに、日本の右サイドからの発言も、左サイドからの発言も、私にはどちらも不愉快で憂鬱を生み出します。右はひどく口汚い罵りを投げつけてきます。左は「過去の名誉」については無頓着な表情を見せています。ひどい時には「かわいそうなおばあさん」という表現を使われます。「助けてあげたい」という場合もあります。右は「自己の名誉感情に拘泥し過ぎ」で左は「名誉感情は無視していい子のふりをする」と括っては括り過ぎでしょうか。
高麗の器に伏見人形の鼠を置く
2012年08月14日(火)
ソウルでご一緒した城戸朱理さんのHPを覗いたら、ソウル滞在中の無駄使いがすっかりばれてしまっていました。我ながらちょっと買物のし過ぎだなあという今回のソウル旅行でした。買物をし過ぎたわりには、最初の目的だった朝鮮白磁の壺は買いませんでした。仁寺洞の骨とう品屋さんには手頃な物があったのですが、なんだか気が進みませんでした。仁寺洞の骨とう品屋さんは、日本からの観光客が多いので、好みは「日本人好み」に傾いている様子です。とりわけ朝鮮白磁は、日本人好みにかなり傾斜しているように見えました。
で、なんとなく「欲しいな」と手が出たのは高麗の青磁陽紋の鉢でした。青磁の発色がもっと良いものもあったのですが、あんまりきれいな発色が出ている物よりも、これでも青磁の仲間ですとちょっと遠慮しているような鉢を一つ求めました。城戸朱理さんによると、13世紀の物だそうですが、さて、ほんとに700年以上も人から人の手に渡ってきたものなのでしょうか。もし、そうだとしても、この器も私のスーツケースに詰め込まれて海を渡ることなど、器自身想像していなかったにちがいないとか、この器と同じ窯で生まれた青磁の器がもしかすると玄界灘の底に沈んでいるかもしれないとか、物を手にするといろんなことを考えるものです。
李明博が竹島を訪問しました。竹島は、日韓の間に領有権を巡って決着のつかない紛争が続いている国境の島であり、現在は韓国が実効支配をしています。おやと思ったのは、この李明博大統領の竹島訪問に文学者の金周栄さんと李文烈さんが同行していたことです。新聞はお二人を小説家と紹介しています。韓国を代表する小説家であることは間違いないのですが、私はあえて文学者という言葉を使いたいと思います。 金周栄さん、李文烈さんのどちらとも、私は面識があります。たぶん「お目にかかってお話をしたい」とお願いすれば、予定をとっていただくことはできるくらいの知り合いでもあります。だから、このお二人は日本にもいろいろと話ができる人との縁を持っているに違いないのです。
外交官でもなく、武官でもなく、なぜ金周栄さんと李文烈さんだったのだろうと、不思議に思っていたところ、今朝の東亜日報日本語版が、今度の李明博大統領の竹島訪問は「従軍慰安婦問題への回答がない」日本政府への一種のプレッシャーだったと報じています。昨年12月に野田首相と会談した李明博大統領は「従軍慰安婦問題の解決を求めたにもかかわらず日本政府から何の回答もない」ことに圧力をかける意味で竹島に上陸を果たしたとのことでした。政府が何も言わなかったことが、今回の大統領の行動に繋がっているということになります。これで、長く日本との対話の努力をしてきた金周栄さんと李文烈さんが同行した意味が解ってきました。大統領が求めているのは「日本側の言葉」です。
従軍慰安婦問題についての日本政府の謝罪と賠償を韓国が求めていると新聞は書きます。求めているのは「国による謝罪と賠償」で、これは慰安婦であった女性たちの「公(国)による名誉回復」を求めているのだということは、日本の新聞はあまり伝えていません。公(パブリック)とは何かという議論は1970年代以降、複雑な議論を重ねてきました。必ずしも、国が公で民間が公ではないということにはならないのですが、従軍慰安婦問題に関して言えば、韓国側は「国」がパブリックを代表すべきだという考えです。それから「名誉」。これが簡単なようで、かなり難しいのです。「名誉」について日本政府はどのくらい考えを持っているのか。たぶんあまり持ってはいないのではないかなと言うのが私の予想です。「名誉なんかどうでもいい」と風潮が70年代以降の日本の風潮で、国内的にはそれで、カジュアルで気楽な社会を築くことに成功しましたが、対外的には「名誉なんかどうでもいい」と言うことにはならないのです。名誉を回復させるのは何をどう語るかという言葉の問題にかかっています。ここに、1970年代からの女性の政治的地位の向上という状況が重なります。 日本政府は日韓の賠償問題は1965年の日韓条約で解決済みという姿勢をとっています。女性の政治的地位が向上したのはそれ以降のことで、日本政府、日本の政治家は1970年代以降の政治意識の変化をどのような言葉で語るべきなのかと問われていると言っていいでしょう。
韓国政府は日本政府を「健忘症」だとせめているようですが、70年代以降の意識の変化は、日本国内でもあまり意識的に整理されてはいないのです。「健忘症」以前に時代を意識する感覚がまだ生まれてないと言えないこともありません。そこが一番のネックなのではないでしょうか。
700年も人から人の手に渡って来たらしい高麗の青磁をいじりながら、こんなことを考えることになるとは思いませんでした。水盤として花活けにすることを考えていたのですが、伏見人形の唐辛子鼠を載せてみると似合っていました。伏見人形は豊臣秀吉の文禄慶長の役の頃に流行りだした土人形だそうです。ソウルから帰ってきたら、韓国の文学者の金源祐さんからご連絡をいただきました。今、管理人の豆蔵君に金源祐さんのエッセイを「豆畑の友」にアップするコーナーを作ってもらう作業をしてもらっています。
東の空の夕焼け
2012年08月12日(日)
東の空がピンク色に染まる夕焼けを見つけました。8月7日の夕焼けです。ここ数日、考えがいろいろ変ってきました。今日はちょっとメモ的な感じで書いてみます。
もうすぐオリンピックが終わり。オリンピックが終わったら、第二のリーマンショックが来ると言われています。ニュースを見ているとユーロ危機に関連して金融危機が起こりそうな懸念がありますから、その兆しは感じ取ることができます。6月に突然、民主、自民、公明の3党合意が成立して、消費税率アップの法案が出てきたのも、この金融危機の予兆と関連しているのでしょう。日本は財政赤字から抜け出す政策をすでに打っているという形式を作り出す必要があったのだろうと想像しています。
ちょっと飛躍した話になりますが、新聞を読むための元手になるような経済の概念を説明した本を幾冊か読んでみました。それで、唐突に「アメリカは世界に米軍基地を維持する費用を持っているのだろうか?」という疑問に突き当たりました。幾つかの経済の本を読んでいるうちに、ニクソンショック以来、世界が「金融資本主義」に振り回されてきたのは、アメリカが世界に米軍基地を維持するための費用の捻出だったのかあという感慨にとらわれたのです。で、その「金融資本主義」のマジックもそろそろ効果が限界まで来ていると。そんなことを考えたのです。ここにきて、日本の近隣諸国との領土問題が噴出しているのはアメリカの覇権の力が弱まっているためだという指摘は専門家から出ています。北方領土をロシア大統領が訪れ、尖閣諸島周辺では中国漁船の領海侵犯事件から始まる一連のごたごた続き、韓国が実効支配する竹島に李明博大統領が訪れる。これに沖縄の米軍基地問題とオスプレイ配備を加えれば、日本は近隣諸国のほとんどと、もめる種を抱えています。
で、東の空の夕焼けです。太陽は西に沈むのですから、東の空の夕焼けは西に沈む太陽の照り返しを受けているわけで、と。ちょっとこじつけかなと思いつつ、東の空が美しくピンク色に染まるのを撮影しました。20世紀が残した問題を21世紀の空が反映させているような、そんな感じでした。
ここ数日で考えが変ったと言うのは、まず、脱原発の目標はだいたい15%くらいがいいんじゃないかと私は考えていたのですが、目標なら0%でよいと考えるようになりました。達成目標としては15%などという曖昧な数字よりも明瞭に0%を目指したほうが解りやすいですし、政府の態度も決めやすいでしょう。国際社会に向かってのアナウンス効果も高いでしょう。それから、選挙をするべきだという考えに傾いてきました。原発依存0%の目標を掲げても、現在の日本なら議論はそう空想的にならないという確信が生まれてきました。なにしろ、電気に関する議論なのだから、誰もが使うもので、そうそう空疎な議論はできないはずです。ここ数日の国会内外の動きを見ると、ことさらに選挙をするべきだと言わなくっても、今年のうちに選挙がありそうですが、あえて選挙をするべきだと言うに至ったのは、消費税率アップの法案成立に至るまでの国会の動きを見ていると、民主党政権と言うのは「アンチ自民党」が政治的テーマの時代の選択として選ばれた政権だということが、はっきりしてきたのが実感されたからです。「アンチ自民」の時代は終わったのだと3党合意の様子を見ながら、それを実感したのでした。 「アンチ〜〜」という発想では、震災や原発事故や国境紛争は対応できないと。そういう考えに至ったのです。選挙をやれば、めでたし、めでたしと言うわけにはゆかないでしょうけれども、切実なものを抱えた有権者は震災、原発事故、国際情勢の変化、金融危機を踏まえることができる政治家とそうでない政治家を選び分けることができるのではないかと。どうなるのか、わかりませんが、やってみるよりが結局は回り道のようでいて早道だと考えるに至った数日間でした。
サッカーがソフトボールに化ける。
2012年08月08日(水)
自民党が不信任案を出すとか、出さないとか、かなり出す方向で8日午前中が回答期限だというニュースが並んでいます。自民、公明、民主の3党合意で消費税率引き上げの法案の採決を諦めても、内閣不信任案を出すというニュースが出てきたのは8月6日(月曜日)のことでした。この日の夜のNHKの「NC9」テレビ朝日の「報道ステーション」でもこのニュースは取り上げられ、なぜこんな方向へ急展開したのかと、どちらのキャスターもきょとんとしたコメントを出していました。
8月7日夕刻にみんなの党などの中小の政党が内閣不信任案を提出しました。8月8日午前の時点では、自民党が不信任案を提出するか否かは民主の回答待ちと言うことになっています。消費税・社会保障一体法案の成立を見送っても、自民党は不信任案を提出することになりそうな見通しです。この急転直下の変化にさまざまな解釈が報じられています。
さてと、私はこの流れの変化については、今回はかなり明瞭に自分の見てきた流れを信用しています。それを示すと以下のようになります。
7月29日(日) 反原連による国会包囲抗議活動 7月31日(火) 反原連と政治家の「対話テーブル」 管直人前首相が出席し、野田首相と半原連代表との会見を提案する。 8月1日(水) 小泉進次郎自民党青年部長ほか11名が内閣不信任案を提出する緊急声明を谷垣総裁に提出。 この日、野田首相が反原発の代表との会見の検討を始めています。 8月3日(金)反原連による恒例の首相官邸前の金曜日集会。この日、野田首相が反原連の代表と会見すると言う情報もあり。いろいろな情報を総合すると反原連との会見をネット中継するか否かで揉めていた様子。 8月6日(月)自民党の内閣不信任案提出が現実味を帯びてくる。 反原連と首相の会見は8日に設定され、ネット中継される予定との発表がある。 小泉元首相が「野党が解散権を握れるなんていうのは滅多にない機会だ」と叱咤している様子の目撃談が報じられる。 8月7日(火)反原連と首相の会見が、8日に消費税関連法案の採決があるという理由で延期される。 枝野経済産業相が首相と反原連の会見に反対の意見を述べる。 8月8日(水 午前)自民党が内閣不信任案提出の構え。
8月1日に小泉進次郎議員の内閣不信任の提案があった時は「確率はひくいけれども、選挙になるかもしれないなあ」と感じました。 8月3日には、恒例の金曜日の首相官邸前抗議活動に首相が突然現れるというイギリス映画のような展開があれば、「どじょう」首相が「龍」に変身という可能性もありだなあと思ってました。たとえそれが竜頭蛇尾に終わるかもしれなくっても、そういう局面であったでしょう。 8月6日に小泉元首相の目撃談が報道された時は「ははん、これは自民党幹部の決心がつきかねているのをおとうちゃんが息子の援護射撃にでたんだなあ」と解釈。
抗議集会が大きくなりすぎて、不安を感じていたところ、「対話テーブル」の設定が早くのに驚いたのは前に書いたとおりです。その「対話テーブル」に管直人前首相が現れ、「対話テーブル」から「首相会見」へと話の焦点が変ったのを、私はサッカーのプレッシャーをかけ、パスを出したら、管直人前首相が手で受け取ってソフトボールを始めちゃったみたいだという印象を書きました。その比喩の延長でゆけば、管直人前首相の投げた球を「どじょうを龍にばけさせてはならじ」と小泉進次郎議員がカットに出たと、そんな感じです。カットされかけた球はゆるゆると、野田首相の手に。野田首相がぼんやりと球を投げると、今度は外野席から小泉元首相の叱責が飛び、ようやくソフトボールが始まったことに気付いた自民党議員が、球を奪いにでると。そんな感じの比喩を頭に思い描いています。
代々木公園での反原発集会、首相官邸前の金曜日の抗議集会、国会包囲抗議集会など一連の抗議活動の参加者数についての警察筋の発表の数があまりにも少ないことに私はこだわってきました。おそらく記者クラブ筋から出ている情報だろうと考えられる数字ですが、この数字について「抗議集会を小さく見せたいから」という説明を自分でもしました。そう説明すれば、多くの人が納得してくれますし、その可能性もまるでないわけではありません。ただ、私はこの小さな数字に記者クラブに警察筋の情報を流している人物(誰だかわかりません、誰かです)のある種の「あなどり」を感じていました。現実を見ようとせずに、「あなどった」印象でつくった適当な数字を口にしているのではないかという疑念が払いきれませんでした。そして警察筋の人物の「あなどり」は記者クラブの記者とも共有されていたのではないかと推察されていました。
もしそういう「あなどり」があったとすれば8月1日からの激変には、驚いたはずです。もっとも、サッカーがソフトボールに化けた瞬間に、政治の事情に精通していると考えている人々(記者に限らない)の従来とおりの解釈も有効性を帯びてきますから、サッカー的な要素は無視されるかもしれません。これを書いている間に事態は時々刻々と動いていることでしょう。
余談ですが、女子のソフトボールは前回の北京オリンピックを最後にオリンピック種目からはずれたはずですし、野球のオリンピック種目ではなくなったような。曖昧な記憶ですが、今度、ちょっと調べておきます。今回のロンドンオリンピックでは、ソフトボールの報道も野球の報道も見かけていませんが。
首相官邸抗議集会の参加者数について
2012年08月06日(月)
物書きの仕事を30年もしていると、自然にジャーナリストや新聞記者の話を耳にするようになります。私はフィクションの作家ですから、自分自身では事件や出来事の取材をしたことがありません。ですから、東京新聞の「新聞を読む」のコラムでも自分自身が知りえたことの範囲に限って、過不足ないように、文章を書いてきました。1回目、2回目ともに、首相官邸の金曜日抗議活動についてについて書きました。ただ、それだけでは、今回の抗議活動の参加者数の発表がいかにひどいものであるかを、充分にお伝えできていないことが、ツイッターのやりとりで解りましたので、詳細をここに書くことにいたしました。
まずデモの参加者についてですが、これは以前、新聞がひどい批判を受けたことがあるのです。主催者側の発表する参加者数だけを報じて、民心を煽っているという批判でした。実際、主催者側がかなり水増しをした参加者数を発表するということも、まま、行われていました。それ以来、警察発表と主催者側発表を並列で表記するというスタイルが定着しています。この数字を見ていますと、おおよそ、主催者側発表の4分の1が警察発表というのが相場です。6月22日まではこの相場の数字が金曜日の首相官邸抗議集会にも出ていました。この時の警察発表の数字が1万1千。6月29日の警察発表の数字は、私の記憶ですと1万7千。TBSは20万人と報じ朝日新聞は10万人から15万人で、主催者発表は10万人でした。ユーストリームの中継映像を見る限り、7,000人程度の増加ということはありえません。もっとたくさんの人がいました。
今回の金曜日首相官邸前抗議や、国会包囲行動、それから代々木公園で行われた抗議集会の警察発表に疑問をもたれたフリーのジャーナリストや、一般の参加者がいるようで、所轄の麹町署に問い合わせたり、警視庁に問い合わせたりして「警察は集会参加者数を発表していない」ということが、この時点でツイッターの情報から解ってきました。また新聞も「警備筋」や「警察筋」という言い回しを使って、それが警察の正式発表ではないことを匂わせるようになってきました。こういう書き方を新聞がする時は、たいてい記者クラブ周辺から出てきた数字だろうと、検討がつくのです。それが警視庁記者クラブなのか、それとも、国会記者クラブなのか、新聞記者の経験のない私には解りかねるところがあります。
記者クラブについてはあしざまな批判を耳にすることも多々あるのですが、その言い方をそのまま鵜呑みにするわけにもいかず「記者クラブ筋から流れてくるいいかげんな数字」という書き方を遠慮していたのです。 そのたぶん警視庁記者クラブの方面から流れてくる、警察筋の金曜抗議集会参加者数の数字だけを並べると、7月に入って抗議集会は縮小の傾向ということができます。この数字は記憶していないので、新聞の日付順に見てください。産経新聞は実際に「金曜集会は縮小の傾向」と報じていました。きっと警視庁記者クラブ筋の数字を信じて記事を書いたのでしょう。
さて、警察の警備ですが、抗議集会については花火などのイベントの雑踏警備の方式を用いていると、これは朝日新聞が報じていました。実際、金曜日抗議集会や国会包囲集会を歩いてみると、雑踏警備と、政治的集会警備の両方の方式を混ぜて使っている様子です。単なる雑踏警備では、公安警察がずらりと並ぶということはありませんが、金曜日の首相官邸前には公安警察がずらりと並んでいました。雑踏警備には人出の予想と人の流れの予想が必須の事項になっています。「警備上の理由から参加者数を発表できない」という警察の言い分は、正直なものでしょう。また、人の数と人の流れはかなり精緻に把握しているはずです。交通量調査の手法を使えば、それは可能です。私が歩いた国会包囲抗議集会の印象で言えば、人の流れを把握して、あっちこっちで横断歩道を遮断したり、歩道を一方通行にしたりして、人が大勢集まらないような工夫をこらしていました。東京ディズニーランドでは、アトラクションに並ぶ人の行列が長くなると迷路方式の柵の位置を変えて人の流れを作るというやり方をしていますが、あれに似たことを警察は首相官邸と国会周辺でしていると想像して下さい。
一方、主催者側ですが、これは組織動員をかけたデモのような水増し発表はしていないと、私は感じています。10万人の規模になると中継映像だけでは判断しにくいところもありますから、単なる印象の判断に過ぎないので、正確なところはわかりません。ただ、主催者発表よりもテレビ、新聞のカウントのほうが上回るということが、前代未聞です。 大阪では主催者発表に対して警察発表が50人上回るというようなこともおきたと、これはツイッターで流れてきた話です。全体で300人から400人の規模ですが。
いずれにしても、どうやら記者クラブ方向から流れてくる東京の警備筋とか警察筋の出す最近の数字は主催者発表の10倍から20倍の差のあるもので、集会参加者だけでなく、これはもう警備をしている現場の警察官にも無礼千万な数字になっています。こんな数字を示されて積算根拠も尋ねなければ、質問の方向を変えて、動員された警察官の人数や警察車両の数を質問しない記者もどうかしています。 さらに言えば、こうした警察筋と言われる情報をもとにコメントをする政治家のコメントも現実からかなりずれたコメントになる様子が見受けられます。きっと政治家は忙しいから、私のように、玉石混合のネット情報を漁ったりする暇はなく、新聞だけ読んでいるのかもしれません。(すいません、おおあわてで書きました。原稿の督促の電話がきちゃった)
去年の空 今年の空
2012年08月05日(日)
先週金曜日の8月3日に汐留シティセンタービルの最上階で知人と食事をしました。首相官邸前の恒例の抗議行動のある時間帯で、ヘリコプターが2基ほど官邸上空を飛んでいるのが見えました。その時 「去年はカレッタ汐留から東京湾を眺めたのでしたね」と 言われて、ちょっと首を傾げました。「去年だったかしら?」と考え込んでしまいました。よく思い出せなかったのですが「あ、それは」とある私的なことで「カレッタ汐留」でごはんを食べたのは、一昨年であることを思い出したのです。この頃、2010年と2011年の記憶が混同されているということがよくあります。やはり震災と原発事故は、人の時の感覚、それを「記憶」と呼ぶことも多いのですが、時の感覚をかなり混乱させている様子です。
東京駅で新幹線のチケットを買っていたら、隣の窓口にいた人が「すごいなあ、ここから半径5キロで日本の全てが決まっちゃうだから」と言い合っているのを見かけたのは、はて、今年の春だったか、それとも去年の秋だったか。身なりはお役人風のスーツ姿。5人ほどで連れだっていました。買ったチケットは東北新幹線のもの。どこか被災地の県庁から、東京の官庁もしくは国会か議員会館へ用事を足しに来た県庁の職員さんではないかとお見受けしました。「半径5キロ」の言葉に実感がこもっていました。
いしいしんじさんと大阪千日前のおすし屋さんでお話した時、私は自分が使った比喩と小沢健二氏の比喩の違いにこだわっていたので、いしいさんが興味を持たれたところを聞き逃してしまいましたが、あとから「ああ、そうか、そうだな」という納得が湧いてきました。いしいさんが首相官邸前の抗議行動の話を聞いて指摘したのは「68年から70年の時は年齢幅が狭かったでしょう」ということでした。街頭の政治活動の中心が大学生ですから18歳から22〜3歳というところです。それに高校生が加わるとしても15〜6歳から22〜3の幅で4〜5年から7〜8年の年齢差しかないのです。人生の中でも最も先鋭化しやすい年齢でもあります。いしいさんが興味をしめしたのは、首相官邸の抗議活動や国会包囲集会では親に連れられてきた赤ちゃんから高齢者まで幅広い年代の人が集まっている点でした。
いしいさんは京都で赤ちゃんを連れたお母さんたちが集まっているところで、そのお母さんたちと話す機会があったことを教えてくれました。いしいさんも赤ちゃんを連れていたとのこと。赤ちゃんや小さい子どもがいると、大人も会話をしやすくなるのは、幼い人の持つ功徳を感じます。で、そのお母さんたちの集まりは、東京から避難してきているお母さんの集まりだったのが、お話をしてみて解ったとのことでした。そう言えば、昨年7月に法政大学のボアソナードタワーで復興書店のイベントを開いた時にも、いしいさんは原発事故からの避難者の話をしてくださったのを思い出しました。避難という手段があることをなんとなく話しづらい雰囲気があるので、いしいさんの穏やかでユーモアのある話しぶりに救いを感じたものでした。
私の考えはもともと脱原発派で、非現実的な反原発ではありません。それは「豆の葉」にも事故直後に書きました。首相官邸前の抗議活動に積極的な興味を持ったのは6月中旬で、国会では3党合意による消費税率引き上げが論議されていました。これに続いて、民主党の小沢一郎氏が民主党離党を唱え始めたことに、あまりにも政治家としての緊張感がなく、震災も進行中の原発事故も「踏まえて」考えたり感じたりしていないという腹立ち紛れで、官邸前の抗議行動に興味を持ちました。首相よりは、むしろ、国会審議をストップさせた小沢一郎氏とそれに同調した政治家に腹を立てたのです。この頃から、首相官邸前の抗議活動の参加者数が増えたところをみると、私と同じような感覚を持った人も多かっただろうと思います。政治家が政治家の顔色を見て駆け引きをするのは2010年までの政治だと言いたい気がしました。
参加者が増えてみると、首相官邸前の抗議行動には、単に政治的主張を示すだけではなく、そこで人が出会って意見を交わして、考えを作る場になるという効果があることがわかってきました。また、あの東京駅で出会ったお役人さん風の人たちの感慨「東京駅から半径5キロ」を実際に歩いたという経験を持つ人がふえれば、政治に対する見方や考え方も、現実的で落ち着いたものになるでしょう。「国会」や「首相官邸」がただ新聞に書いてある文字ではなく「ここへ行ったことがある」場所として受け止められるだけでも、人間のものの感じ方あ変ってくるのです。
いしいさんとお話をして大阪から帰ってきたら「対話テーブル」のはずが、野田首相が抗議活動のメンバーを会見するかどうかという話になっていたというのは昨日書いたとおりです。なんだかうまくプレッシャーをかけてパスを出したら、管直人前首相が受けて、サッカーじゃなくってハンドボールを始めちゃったみたいな感じを受けました。へたをすると、また、政治家が政治家の顔しか見ていないとような状態に逆戻りするかもしれないなあと言うのが現実的な判断です。でも一方で、「どじょう」が「龍」に変身するかしらとも。さて、どうなるのでしょう。
首相官邸前の金曜日の抗議活動を主催しているのは「反原発首都圏連合」というグループです。このグループのポリシーを批判する意見を目にしたり耳にしたりするたびにちょっと黙っていられない気持ちになってきました。私も小さな政治的イシューについて、みなさんの意見表明のお世話係をしたことがあります。多くの人に参加してもらい積極的に御自分の考えを表明してもらうためには、工夫が必要でした。「反原発首都圏連語」のポリシーを見ると、大勢の人が集まって意思表示をするための工夫に満ちています。「場」を作り「場」の維持のためのお世話をするという点では、頭の下がる努力で、その努力には拍手を送りたくなります。このグループのメンバーが「匿名」の存在であったり、ハンドルネームであったりするのも、それが「お世話係」である限りは、そのポリシーにふさわしいでしょう。気がもめるのは、そのやり方が参加者が増えると政治的悪意にさらさえたり、責任追及をされるような場面に出っくわしたりすることです。
新しいカメラを買いました。前のカメラが壊れちゃったので。今、使い方を覚えているところです。写真は今年の青空を我が家のベランダから撮影したものです。
比喩に悩む
2012年08月04日(土)
大阪でいしいしんじさんたちと文楽を見てきました。30年ぶりの「曽根崎心中」。いろいろと感想、感慨があります。でも、それはあとで。
「潮見坂の上で話したこと」の続きです。7月29日の国会包囲集会はかなり大規模で、最後は国会正門前の道路に参加者が広がるという展開になりました。街頭での抗議集会が大きくなるにつれ、抗議集会を開いていた首都圏反原発連合では、全体をマネージメントできなくなるのではないかという心配と不安を「潮見坂の上で話したこと」に少し書きました。それが、30日には初めての「対話テーブル」が開かれるとのことで、展開の速さに驚いたのは追記に記したとおりです。こうした詳細な情報はツイッターを時間で追ってないとなかなか理解しがたいところがあります。
大阪では朝日新聞と日経新聞の関連記事を読みました。日経新聞の記事のほうが全体像を簡略に伝えていましたが、どちらも管直人前首相の発言だけがクローズアップされていて「対話テーブル」そのものはほとんど無視されていました。東京へ戻ると野田首相が金曜集会の代表者に面会する方向というニュースが駆け巡るだけで「対話テーブル」はどこかに消えていました。サッカーの比喩を用いれば、プレッシャーからパスが出たのは私の予想よりも早かったけれども、パスを受ける選手がいなかったというところでしょうか。
「デモって意味あるのかしら」と某先生から質問を受けました。それで、たまたま大学は前期の成績の採点の時期だったので、採点の比喩を使ってしまいました。以下のような具合。
街頭行動で政治的プレッシャーをかける。→C評価
C評価は低いようですが、単位は取得できます。こういう街頭行動はあまり目立ちませんが、保守派も革新派も東京ではいろいろな活動をしてます。
街頭行動から政治的意見聴取や意見交換の場を作り出す。「対話テーブル」の設置などはこの段階です。 → B評価
この段階が公に公開するかたちで開くことが、これまでの日本ではなかなかできませんでした。政治家にも公開で「対話テーブル」を開く習慣を持っていません。支持者団体とのクローズな会合が開かれるとか、支持団体との会合が開かれるという場合はよくあります。ただ、日本の政治家は不特定多数の納税者、有権者と対話するのは苦手なようです。「人見知り」が激しいのかもしれません。蛇足ですが、「人見知り」をすると「偉そうに、威圧的に振る舞って防御に出る」という癖がある人もわりによくみかけます。だから「物知りの老人」風の受け答えや「先生然」とした受け答えを始めたら、これは「人見知りで怯えている」と考えても、そんなに間違うことはないでしょう。
意見聴取、意見交換を通じて、意見集約を図り代表者を決定して、具体的な政策を作り出す。
ここまでくれば → 評価A
日常的にも支持者団体の中から政治家を出して、すったもんだのすえになんとか法案が成立したり、政策が決定されたりすることがあります。でも、そのプロセスに興味関心がない人には、ただ政治家が官僚のいいなり作った法律としか感じられない場合がままあります。
作り出された政策が衆知を集めた立派なものであればもちろんそれは → 評価A+
「それはとてもわかりやすい比喩だわ、ちょうど採点の季節だし」とお褒めをいただきましたが、どうもこの比喩を私自身は好きになれませんでした。内心で我ながら「そんなに先生やってどうするんだ」と忸怩たるものが。まあ、でも政治的な意思決定の段階を「先生」風に眺めることも、たまにはおもしろいかもしれません。
歌手の小沢健二、愛称オザケンさんは街頭での抗議活動について「病人と患者」の比喩を使っていました。小澤昔ばなし研究所発行「子どもと昔話」に連載された「うさぎ」というエッセイの一部のようです。私はツイッターで流れてきたものを読みました。政治的抗議を街頭でするのは例えてみれば「患者が医者に痛みや苦痛を訴えるとうなものだ」と言うのです。それで治療法や対処法は医者が提案すればいいと言うのです。現代では医者も患者に「説明責任」を負っていますので、医者から提案される治療法や対処法は患者が説明を受けて受け入れるかどうかを決めることになります。先ほどの成績評価の例えで言えばこれが評価B段階。治療法や対処法が決定され、実行されれば評価A。その結果がとても良いものであれば評価A+。なかなかわかりやすいすばらしいたとえ話です。デモでも集会でもやって、まずは病状を訴えなけれなというところが大事。感心しました。ネットで探せばこの文章を読むことができます。
私はサッカーのゲーム展開のイメージを使って首相官邸の金曜日の抗議活動を始めとして、政治的な抗議のありかたをここに書いてきましたし、自分でもそのイメージでものを考えてきました。「病気の比喩」と「サッカーの比喩」どっちがいいのだろうと、内心で悩んでいます。病気の比喩はすばらしいのですが、サッカーのゲーム展開のイメージも捨てがたいのです。そんなことを大阪でいしいしんじさんにお話ししました。いしいさんの御意見は「病気の比喩だと、ひとりひとりの気持にはぴったりとあてはまるという利点があるけど、サッカーの比喩だと出来事の全体が見渡せるんだなあ」ということでした。そう言われてみれば「そうかあ」と思ったしだい。おすしを食べながらそんな話をしました。
首相官邸前の抗議集会について、あるいは国会包囲抗議活動について、「ガス抜き」だとか「自己満足」だという意見を聞くたびに悲しい気持になります。過激化して解体した70年安保以来の固定観念化した言説(早い話が固まった頭)のまま、時間が少しも経過せずに、ただ精神的な怠惰が呟かせている言葉として、私の耳には響くのでした。熾火のような怒りを含んだ悲しみです。
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