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中沢けいコラム「豆の葉」
   
 

潮見坂の上で話したこと

2012年07月30日(月)

 3月から首相官邸前で反原発を訴える金曜日の抗議活動が続いています。金曜日は大阪に行かなければならないことが多く、ユーストリームの中継でこの集会の様子を見ていました。27日に有楽町へ出る用事があったので日比谷公園から潮見坂を登り、首相官邸前まで歩いてみることにしました。

 7月27日(金曜日)この日はいつもの反原発首都圏連合主催の首相官邸前抗議はおやすみで、そのほかの主催団体による抗議が行われてました。日比谷公園から潮見坂を登ると、警官が警備線を引いていました。交差点を渡ったところで、知人にばったり。7週間前から毎週金曜日に来ているという知人と、扇を使いながらよもやま話をしていると、とおりかかった女性が「暑いので、塩飴をどうぞ」と飴をくれました。知人の話では、この日は5月末と同じくらいの人出だったようです。首相官邸前はさすがに混み合っていましたし、官邸の向かい側には警察の装甲車と公安警察の人がずらりと並んだ姿が見えました。
 
 この抗議活動に参加者が増えたのは6月22日のことでした。6月29日にはさらにふくれあがりました。今日はこれから大阪へ出掛けるので、少し急いでいて、詳細を書けないので、潮見坂の上で知人と話したことだけを大急ぎで書いておきます。

 参加者の数が毎週数万人、時には、20万人という数(7月29日の国会包囲抗議行動の時)になってきたから、これまでのゆるやかな紐帯の個人の集まりという主催者のやり方を、数万人の人の安全を確保して行くための仕組みに整えなおす必要がありそうだという方向の話をしました。たぶん、そうした工夫ももう始められているだろうし、労力(道案内や参加者の誘導)や専門知識を提供する人(弁護士さんの会が結成されたそうです)も現れるだろうと、ちょっと心配になりながら話しました。いや、もう昔からの知り合いだから「組織を作りなれたセクトに乗っ取られちゃわないといいねえ」ってな調子の話だったのですが。

 大阪から帰ってきたらまた改めて書きます。大阪はいしいしんじさんにお誘いいただいて、文楽の「曽根崎心中」を見物してきます。こちらはこちらで、橋下大阪市長の過激な発言があったとか、それが毎日新聞の誤報だとかいろいろで、大騒ぎみたいです。
 村上春樹風に「やれやれ」じゃすまなくって「結果をださないとまずいぞ」って時代になったようです。

 追記 もたもたしていて大阪に行きそびれ、7時の新幹線に乗ることにしました。で、オリンピックの馬術見たさに布団からはい出してみると、脱原発首都圏連合のツイッターアカウントに「初の国会議員対話テーブル開催」の告知がありました。7月31日(火曜日)17時30分から19時で、一般の聴講はないようですが、中継はあるそうです。司会は歴史家の小熊英二。
 政治的プレッシャーをかける街頭行動から、政治家との対話集会という流れのことについて、昨日、書きたいと思っていたところです。それが予想よりも早い流れになっているので、追記しました。
 海外でのデモの様子はテレビや新聞でよく伝えられます。それが暴動、騒乱に発展した場合も「事件」として報道されるのですが、政治的プレッシャーから政治的対話へと展開される場合は、ほとんど報道されません。「事件」でもなければ「事故」でもないので、ニュースにならないのです。ただ、そういう方法があることは、以前から漏れ聞こえていたので、それを昨日は書きたかったのです。サッカーで言えば、プレッシャーからドリブルに持ち込むとか、パスをフォワードに出すという展開部分です。(7月31日AM6時 追記)

政治的プレッシャーについて

2012年07月28日(土)

 プレッシャーグループについて教わったのは、中学校か高校の時でした。政治的なプレッシャーをかけるグループをそう呼ぶと。日本だと農協や漁協、それに労働組合や市民団体などが政治的なプレッシャー・グループとしての役割を果たすのだと。その頃はまだプロ野球全盛の時代で、毎年、巨人が優勝を続けていました。まだサッカーはプロリーグはなく、都市部にはリトルリーグが出来始めていた頃だったでしょうか。私も小学生の時、体育でサッカーをやりましたが、サッカーのゲームでは相手へプレッシャーをかけることが重要だなどとは知りませんでした。みんなでボールを追いかけて右往左往するへたくそサッカーの見本みたいなものです。考えてみると指導して下さった先生は、野球の経験はあってもサッカーの経験はなかった時代なのかもしれません。

 政治的なプレッシャー・グループについて教えられた時も、サッカーのプレッシャーのイメージは浮かびませんでした。今ではすばらしいプレッシャー技術を持ったなでしこジャパンのおかげで、小学生でもサッカーのプレッシャーの意義を知っています。

 では、街頭での抗議行動やデモンストレーションが政治的なプレッシャーであると教えられたのかどうか、思い返してみてもよくは思い出せません。書店には60年代の安保闘争で亡くなった樺美智子さんの手記が置いてありました。国会前のデモで樺美智子さんが亡くなったのは私が生まれて一年後(正確には8か月後ですが)の出来事です。その手記に興味を持って読んでみたのは高校1年生の時ですから、樺さんの死から15年後くらいのことで、今で言えば、高校生がオウム事件の記録を読むようなものです。70年安保、東大安田講堂占拠事件の時は小学校4年生でした。それで小学校5年生の担任の先生は、大学を出たばかりで、大学では学生運動にも加わったという先生でした。などなど思い出しても、街頭の政治的集団活動は、政治的プレッシャーだと教えられた記憶はありません。

 街頭での抗議活動やデモは、サッカーで言えば、シュートではなく、プレッシャーだと説明すると、その意見に賛成か反対かは別にして、意味するところは、サッカーの観戦になれた今の人にはすぐ理解してもらえるでしょう。私がその比喩を思いついたのは、ついこの間です。毎週金曜日に首相官邸前で行われている反原発の抗議集会に参加する人が増えだしたのは、6月中旬からです。私は家でユーストリームの中継を見ていました。国会では消費税率の引き上げを巡って、民主党が割れるか否かで、小沢輿石会談の最中。25年近くも議論している消費税ではなく、震災と現在進行中の原発事故についてもっと真剣に緊張感を持った議論をしてほしいという民意が、政治家にプレッシャーをかけ始めたのだと、そう感じた瞬間でした。

 街頭での抗議活動やデモは政治的プレッシャーであって、決して何かを決定するためのシュートではない。プレッシャーはひじょうに重要な手段であり、シュートではないから意味がないということにはならないと。そんなことを考えるうちに、中学校か高校で教えられたプレッシャー・グループという名称を思い出したのでした。私は現在、日本の政治家には強いプレッシャーをかける必要を感じています。そんな話を知人にすると「プレッシャーをかけたあとはどうなるんだ?」と尋ねられました。

 
 考えてみると中田英寿の時代には良いパスを出しても球を受ける選手がいなかったのが日本のサッカーのナショナルチームです。それが今や、なでしこジャパンはオリンピックでの金メダルを期待されながら、白星発進、男子のナショナルチームはスペインを破って欧州を驚かせるまでに至っています。政治だって、大勢の人が集まって良いプレッシャーをかければ、きわめて有能なカリスマ性のある政治家の登場を呼び出すことができないとは限らないでしょう(←まだ弱気だけど)。

琉球大学へ行く

2012年07月24日(火)



 今年は琉球大学の国際沖縄文化研究所の客員研究員という身分をいただいています。琉球大学での研究テーマは「島尾敏雄の『南島研究』の研究」というものです。
 島尾敏雄は「死の棘」の作者として有名です。「死の棘」は妻と夫の諍いを描いた小説で、小栗康平によって映画化もされています。この作品のテーマは一口で言えば、時間が過ぎて行かずに反復を繰り返すというものだと言えるでしょう。反復する時間というテーマは1945年以降の日本文学では様々な描き方をされています。また1990年代以降は「うつ状態」の心理と言うスタイルとなって現代文学のテーマとされている場合もあります。

 私が大学へ入った1978年という年は戦後33年。年忌供養で言えば1945年から34回忌ということになります。一般には34回忌というのはあまりやりませんから、翌年の1979年の35回忌というのがちょうど一区切りの年忌として法事が行われることが多いようです。35回忌の次は何回忌になるのか、たまに耳にするのは50回忌とか100回忌ですが、供養される人と供養する人が共に生きた時間を持っているのは、35回忌くらいまででしょう。子どもの頃、私の家に来ていた呉服屋さんは「親の35回忌をさせるなんて、親不幸ならぬ子不幸だ」と笑ってました。
 私の場合はあと6年もすると父の50回忌の年と母の35回忌の年が同時に巡ってきます。さすがに50回忌になるとかなり遠い昔です。
 話が脱線しましたが、私が大学へ入った翌年には太平洋戦争終結から35回忌の年忌の年が巡ってきたのです。国民国家の戦争という体験が、国民共通の「死」の体験であったとすれば、私が大学生の頃には、その体験はそろそろ清算をされる時期に入っていたのだと言えるでしょう。

 現代文学のテーマに「時間の反復」というものがあることを知ったのも大学生になった頃のことでした。その「時間の反復」を切実にかつリアルに描いた小説が島尾敏雄の「死の棘」でしょう。「死の棘」に対して「南島研究」は前に開ける時間を、文学のリアルな言葉で捉えようとした作品群だと言えるでしょう。その多くはエッセイという形をとっています。また「南島研究」で島尾敏雄は「ヤポネシア」という概念を見つけ出しています。日本列島から琉球弧、台湾、フィリピン、あるいは北海道からアリューシャン列島へと連なる島々として日本を見るという視点の発見に喜び、また、その視点が発展することをせつに願っています。

 島尾敏雄が海軍の魚雷艇特攻隊長として終戦を迎えたのは奄美大島諸島の加計呂麻島でした。また、終戦後移り住んだのは奄美大島の名瀬市でした。ですから「南島研究」をするなら奄美大島に滞在するのが、直接的には正解なのかもしれません。琉球大学を選んだのは、沖縄タイムス社の新沖縄文学賞の選考委員としているご縁から琉球大学の山里勝巳先生を知っていたこともあります。ただ、そういう便宜的な側面ばかりではなく、1945年以降の時間が刻銘な刻印を残している場所としての沖縄ということも意識していました。

 琉球大学はアメリカ民政府によって1950年に設立された大学です。朝鮮戦争はこの年の6月に始まっています。1952年には奄美大島に琉球大学大島分校が設置され1953年12月に奄美大島の本土復帰のために分校が廃止されました。1966年に琉球政府の府立大学となり、1972年沖縄の本土復帰により国立大学となりました。校舎は首里城跡にありましたが、1977年から84年にかけて現在の千原キャンパス、上原キャンパスに移転したそうです。
 私は1981年の初秋に初めて沖縄へ出掛けていて、ちらりと首里に残っていた琉球大学の校舎を見ています。現在のキャンパスは西原町、中城村、宜野湾市にまわがる広大なもので、西に東シナ海、東に太平洋を眺めることができます。今年は沖縄本土復帰40年の年に当たります。

 島尾敏雄の「南島研究」は「死の棘」からの脱出の文学的記録でもあるのですが、もうそんなことに興味を持つ人はそんなにいないだろうと、歎息しつつ、このテーマを選んだのは、1945年から35年目あたりから、時間が前へ進まないという現象と付き合わざるえなかったという感慨を持ったからでした。現代文学にかかわることは、すなわち時の反復につかまることだったという感慨が私にはあります。1945年からの30年は、鋭敏な感受性を持った人によって「死の棘」は意識されていましたが、1980年からの30年は、もっと一般的に広く薄く、時間が反復されるという現象に包まれていたようです。経済状況は90年以降を「失われた10年」あるいは「失われた20年」と呼ばれますが、その前の85年から90年へのバブル期も含めて「時間の反復」はすでに多くの人の感情生活を浸食していたのだと、感じています。だから多くの人に興味を持ってもらえなくっても、島尾敏雄が「南島研究」で前進する時間をどう捉えていたかは、私にはひどく興味深いテーマです。

 丘の上の琉球大学で、西に東シナ海、東に太平洋を眺めていると、それだけで島尾さんのエッセイを読む心地がいきいきとしてきます。

「ネットと愛国」

2012年07月21日(土)

 大阪で日の丸の旗を掲げたデモを初めてみたのは09年3月でした。外国人参政権に反対という趣旨でしたが、なぜかデモ隊のところどころで、掴み合いや殴り合いがあり、警備の警官が間に割って入ってました。

 私が見ていたのは、日航ホテルのロビー喫茶室から。デモ隊に背を向ける形で携帯のカメラで写真を撮影している人が大勢いたので、不思議に思って、喫茶室の中を見回してみると、すぐ近くの席にピンクのスーツを着たアントニオ猪木氏が誰かと談笑していました。

 この日の丸のデモ隊が「在日特権をゆるさない市民の会」だと知ったのは昨年のことでした。通称「在特会」。
2012年6月15日(金曜日)首相官邸前の「反原発抗議集会」の様子をユーストリームで見ていたら、在特会が「原発賛成」を「反原発抗議集会」を開いているすぐそばで叫んでいました。至近距離です。こんな至近距離で、まったく意見が異なる集団が対峙したら、どうなるのだろうと息を飲んでしまいました。が、この時は「反原発抗議集会」に主催者発表で4万5千人の人が訪れ、日が暮れる頃には「原発賛成」の主張をする人の姿はなくなっていました。

 ネット右翼と呼ばれる人々はいったい幾つぐらいの年齢なのだろうと思っていたのですが、日の丸を持ったデモ隊の人の姿を見ると30代とおぼしき人が多いなという印象です。けっこう女性もいます、時には子どもを連れた女性の姿も見かけます。

 安田浩一「ネットと愛国」は副題が「在特会の闇を追いかけて」で、在特会を中心にネット右翼と呼ばれる人々の姿をたんねんに描いています。これを丹念に取材するのはさぞ骨の折れる仕事だっただろうと想像するにあまりありました。いや、正直、ネット右翼と呼ばれる人たちの言動に、半分切れかけて「このやろう、日の丸を汚すな」と怒り心頭になることもしばしばあり、それはこの本の著者も同じような心境になってことを本文中で明かしています。また、従来の右翼、新右翼と見られていた人々も在特会に「怒り」を現していることもレポートされていました。

 自分と同じ意見の人の声には耳を傾け安いのですが、意見が違うというだけではなく、なんと言ったらいいのか「呆れてしまう」とか「論外だ」と感じる相手に対して辛抱強く取材をするのは、いかばかりの力がいるものかと「ネットと愛国」を読んでいて、しばしば歎息しました。そして、著者は特在会登場の背景に「怨嗟の声」を聴くまでに至っています。さて、この「怨嗟の声」はいったい誰に向けられたものなのでしょう。特在会の攻撃対象は在日韓国人、朝鮮人ですが、どうも「ネットと愛国」を読んでいると、在日韓国人という存在は仮想の敵にしか思えないのです。仮想の敵の向こうに怨嗟の対象は存在していると、そう考えられました。それは著者の次の仕事のテーマになるのかもしれません。

 ソウルで久しぶりに星野智幸さんとお昼ごはんを食べて日本へ帰国したら「ネットと愛国」が講談社ノンフィクション賞を受賞していました。納得できる選考です。

 星野さんとはスターのおっかけが、語学習得のモチベーションになったり、多様な文化理解を生んだりするという話題を愉快に喋りました。いや、星野さんの「俺俺」が亀梨和也主演で映画化されるので、ソウルの亀梨和也ファンにとっては、大画面が全部亀梨和也で埋まるという快挙な映画になるという話で、亀梨和也ファンが翻訳された「俺俺」を買ってくれ、さらには星野さんにサインを求めるという話が発展したのでした。「僕は亀梨和也じゃないんだけどね。でも俺俺だからいいか」と星野さんは苦笑。そこで星野智幸さんの名言が飛び出しました。
「ネトウヨやっているよりもアイドルのおっかけやっているほうが人生豊かになるよ」
 ほんとに、そのとおり、げにも、と手を打ちたくなる一言でした。ちょっと爽快。でもそのあとで「人生を豊かにする術を失った人々」というテーマが頭に浮かびました。短絡的に言ってしまうと「ネットと愛国」の著者が聞き取った怨嗟の声は「精神の貧しさを生んだ人々」に向けられているような気がしたのでした。

ブラックアンアン

2012年07月03日(火)

 北原みのり「毒婦 木嶋佳苗100日裁判傍聴記」を読みました。この事件が発覚したばかりの頃、複数の男性を殺害したという被告の写真が公開され、美人というよりも、まるぽちゃ顔で、かわいいという類いの女性だったのが意外でした。ブスとはっきり言う人もいました。うちの娘が「すごい美人じゃなかったから、みんな、信用したのね」と言った時には、ああ、なるほどと納得したものです。
 それ以上の興味を持つこともなく数か月が過ぎました。

 ある日、明治大学時代のゼミの後輩と言う方からご連絡をいただきました。ゼミの後輩と言っても、社会人入学をされた方で、年次こそ後輩になりますが、年齢的には私と同世代です。で、木嶋佳苗事件が発覚するきっかけになった埼玉事件の被害者が、これまたゼミの後輩であることをその方からお知らせいただきました。私が卒業してからずっとあとの卒業生ですから、面識はありません。ただ、テレビや新聞の中の事件が、身近に迫ってきた感じはありました。「埼玉事件」の被害者が大学のゼミの後輩で、神田の人。車の中で遺体となって見つかったのは埼玉県富士見市。加害者として逮捕された女性は、板橋のマンションに住み、のちに池袋のマンションに転居していると概況を知れば、ほとんど私の生活圏の中で起きた事件でした。

 それで北原みのり「毒婦」を読んでみたのです。この事件は本の表題にもあるとおり100日間の裁判員裁判であり、裁判員制度としてこれは一般の人から選ばれた裁判員の負担に耐えるかということが問題提起された裁判でもありました。状況証拠はあるのに、決定的証拠はないために、複数の事件を一括審理する形になったことが裁判員裁判であるにもかかわらず100日の長い審理になった理由のひとつです。被告は起訴された3件の殺人事件については無罪を主張。状況証拠だけで「死刑」判決が出たことについて、これもまた司法記者にとっては特筆する必要がある事件になりました。

 捜査段階では複数の結婚詐欺を働き、詐欺の被害者を練炭自殺に見せかけて殺した女が「ブス」だったという点が強調され、マスコミを賑わせました。この点については、すごい美人だったら、それはそれで大騒ぎになっていただろうと思います。「ブス」という単語が飛び交うマスコミ報道でしたが、娘が言ったとおり「平凡な顔立ち」というところが、被害者にとっては安心を呼ぶところであったのだろうと私は考えてました。裁判の傍聴をした著者によると声に上品な魅力があり、仕草が美しいとありましたから、あるいは、お付き合いの相手としては「親しみやすく」同時に「憧れを誘う」「夢見心地にさせてくれる」女(ひと)であっただろうことは想像できます。
 裁判の過程では、司法上の問題提起的な内容が含まれていたために、被害者の人物そのものよりも裁判制度、司法運用がクローズアップされました。

 私のゼミの後輩だという方がお話になっていたのは「彼はなぜ殺されなければならなかったのだろう」ということです。裁判傍聴記を読めばある程度の推察はできるだろうと、読み始めたのですが、読めば読むほどわからなくなることが多くなるという経験をしました。北原みのりの観察眼はいきいきとしたもので「わからなさ」を正確に表現して行きます。わからなくなるのは著者の書き方がまずいという意味ではなく、対象の木嶋佳苗そものもが「不可解」な存在なのです。

 予想したとおり女性誌に描かれているような生活を夢見るタイプ。しかも売春には後ろめたさを感じていないどころか独特の価値観を持っている。いや、売春という言葉さえ適当ではないくらいセックスに自信を持ち、特別な技能として捉えていること。そのあたりを読んでいると雑誌「アンアン」のパロディとして「ブラックアンアン」というのがあったら、こんな感じなんだろうなあと感嘆してしまいました。で、そのあたりから「なんで殺しちゃったんだろう?」と、殺人の動機がわからなくなったのです。男性を殺さなかくっても「恋の夢を見させる特別な存在」の女性として成功できたような気がしてきました。ただの夢見る夢子さんが、夢を見ることができなくなって追いつめられたということだろうという私の予想が裏切られました。

 動機が解らないというのは著者の北原みのりも同様の指摘をしています。

 とくに事件発覚の発端になった埼玉事件の被害者は知りあってからほんの数日で死体となって車の中から発見されています。私のゼミの後輩である人物です。検察側主張のように「借金の返済を迫れて」という動機が発生する暇もない早さです。立件された三件の事件の中でももっとも動機については不可解な事件です。

 衝動的な殺人とか、理由なき殺人というものとも違うように感じられます。一件ごとに、なにかひどく納得の行く動機がありそうに思えるのです。少なくとも女性には「ああ、そうか」と思い当たるふしがありそうな何かがあるような気がしてなりません。ただ、被告は「無罪」を主張しているわけで、「殺人はなかった」のですから、被告の口から動機が語られるということはありえないことになります。

 大きくて暗い洞(うろ)のようなものを木嶋佳苗に著者の北原みのりは感じています。たしかに心に「本物の空洞」を持った人間が今の世には存在しているのかもsれません。私のところのお話に来て下さったゼミの後輩にあたる方も、親しかったお友達が事件に巻き込まれたショックとともに、この「本物の空洞」に触れてしまった驚きをお話しになりたかったのかなと想像しました。

   
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