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中沢けいコラム「豆の葉」
   
 

お迎え人形

2011年07月29日(金)



 天満宮のお社の一画にお迎え人形を並べてあるところがありました。やじろべえの豆蔵がいたのは、そのお迎え人形の末席? いや、末席かどうかは別にして、豆蔵はお迎え人形の中ではちょっと変わった存在でした。お迎え人形はかなりな大きさで、見た感じでは、大人一人と同じくらいか、それより大きな感じです。顔はまちがいなく、生身の人の顔よりも大きい。全部で16体あるのだそうですが、毎年、交代で展示されるそうです。やじろべえの豆蔵は、一番最後に大阪府民俗文化財に指定されたとのこと。英雄豪傑、芝居の登場人物とはちょっと違った雰囲気の豆蔵ですが、どうももともとは天満宮で子どものお土産として売られていたやじろべえを、お迎え人形のひとつに加えたということのようです。



 今年出ていたのは、まず八幡太郎義家。山形の酒田では、この八幡太郎義家のお人形が、蔵から出たがって、持ち主の家の人の夢に出たという話を聞いたことがありますが、お迎え人形の義家さんもなかなか意志の強そうなお顔をしていました。



 迫力満点なのは「胡蝶の舞」眺めているだけでぐぐっと迫ってきそうなお人形でした。



 かわいい顔というか、どこか、とぼけているのか大らかなのかわからないのがスサオノノミコト(ほんとは漢字なのですけど省略)英雄豪傑というよりも、ねえちゃんのアマテラスオオミカミを困らせた末っ子の感じが出ていました。



 で、お迎え人形が展示してあるところの頭上には、蜆貝で作った藤棚が。確かに藤に見えます。貝の内側がほんのりと紫色ですから。藤には見えるけれども、じっと見ていると、なんだか皆でひしひしと蜆のお汁で、ご飯を食べている光景が浮かんできます。「二日酔いにはやっぱり蜆汁だよ」なんて呟きながらご飯を食べていた人もいるかもしれないなんて、余計な想像までしてしまいました。

 と言うわけで、この項は、また例によって「豆畑の友」の管理人の豆蔵君が写真をアップしてくれる手筈になっています。豆蔵君、どうぞ、よろしく。

 それぞれの人形と本文があっているかドキドキです(豆)

天神祭で見つけたもの。

2011年07月28日(木)



 梅雨明けの頃から、夏を挟んで、秋まで、いったい日本中でどのくらいのお祭りがあるのでしょうか? ちょっと有名なものを思い浮かべただけでも、次から次へときりがなく浮かんできます。「内需拡大」なんて経済学の言葉を知らない昔の人は、神様と遊んで愉快に過ごして、友人知人が遠方から訪ねてきたり、贈り物をしたりして、いつのまにか暑い盛りが過ぎて行くと、そういうふうになっていたようです。

「こんな暑い時に」
 稲垣さんとの待ち合わせより少し早い時間に天満に出て、いつも覗く天満3丁目の古本屋さんの矢野書房に顔を出しました。すると「暑い時に」というご挨拶。ほんとに暑かったのですが、これは天神祭りの頃の決まり文句の挨拶でもあるようです。店主一人の古本屋さんですから、お祭りのときは役員に出てお店を閉めているかもしれないと思いつつも、覗いてみたのでした。

 天1、天2、天3と続く天満の商店街は、聞くところによると日本一長い商店街だそうです。ずっとアーケードが繋がっています。アーケードの中にはシャッターを閉じたままのお店もちらほら。なんだか賑わいからは遠い感じがする天満の商店街です。個人経営のお店はどこも苦しいようです。お祭りで大勢の人が出て、子ども神輿や笠踊りなどが繰り出していますが、やっぱり、日頃の寂しさは残っていました。シャッターを下ろしたお店の前に「亀すくい」の露天がありました。金魚すくいはいたるところで見かけましたが、「亀すくい」はここだけ。男の子が器用に緑色の小さな亀を掬っていました。



 矢野書房さんは「今年はお祭りの役員は勘弁してもらって店を開きました」とのこと。そんな四方山話をしているうちの、表では賑やかにお神輿を担ぐ声や、お囃子の音が聞こえてました。古本屋さん、喫茶店、レストランや食堂、それから八百屋さんに魚屋さんなど、個人経営のお店は、よそから来る人間には、その土地に知っている人を作るためのよいきっかけになってくれます。それでいろいろなことを教えてもらったりもします。しかし、コンビニやスーパーそれかチェーン店のコーヒーショップなどは、そういう気の合う知り合いができるということはあまりありません。どこに行っても同じサービスを受けられるけれども、いつまでたっても「どこかに知らない人」でしかないということが多いです。

「あのお神輿が走るから、危なくって」
「え、お神輿が走るのですか」
 なんて言っているうちに、わぁと声が上がってお神輿がお店の前を走り抜けました。
「ほんと。走っている」
 唖然とする私に
「だから、役員で出ているときは子どもに怪我をさせないように、気が気じゃありません」
 アーケードの中を走るお神輿のあとを、小さな子どもがこれまた全速力で走って追いかけていました。

 矢野書房で東京へ送ってもらう本を幾つか選んで、それからしばらく天満の商店街を歩きました。で、天満宮へ。天満宮の大門にはびっくりするほどの大きな茅(ちがや)の輪がありました。この大門はお神輿が出入りするために、一般の出入りは止められていたので、わきから天満宮へ入りました。お社の前には立派な鳳神輿と玉神輿、それに地車があり、それぞれの「講」の人たちが集まっていました。「講」というのは、それぞれの役割を負った氏子の集まりみたいだなあと、眺めていて、気付いたことがあります。それぞれの「講」でいろいろな品物を売っているのです。扇子とかストラップとか、グッズを売って、そのお金がお祭りの資金になると、そういう仕組みらしいのに気付きました。なんか大阪らしい方法だなあと、ミュージシャンのライブなどでは珍しくない方法ですが、お祭りだとひどく珍しい感じがしました。



 幾つもある「講」の中に生きた牛を連れてきている「講」があります。天神様のお祭りだから牛が出てくるのは納得ですが、この牛がおとなしいこと。鼻面を人が撫ぜても、大きな目を見開いてじっとしています。「3歳の女の子の牛だからおとなしいよ」とおじさんが見物の人に話していました。
 やじろべいの「豆蔵」を見つけました。「お迎え人形」という特大の人形が並んでいる中に、なぜか遠くを見ている「豆蔵」が。これは、さっそくここのHPの管理人の豆蔵君に見せなくっちゃと、お写真をぱちり。



 八軒屋浜へ出てみると、お化け屋敷が。靖国神社のみたま祭りに出ていたお化け屋敷を外から眺めましたが、同じお化け屋敷か、違うお化け屋敷かどうかはわかりませんでした。でも呼び込みは、靖国神社とはまったく違ってました。
「はい。おもしろいよ。笑えますよ。お話の種に見て行ってちょうだい。絶対に笑えます。笑えること保障します」
 大阪では「笑い」はとても価値があるのだと、大阪女性文学会の尾川さんから聞いたがありましたが、お化け屋敷まで「笑い」が売り物とは。お化けも大阪ではコメディアンのようです。そう言えば天満宮のそばに評判の寄席の「繁盛亭」がありましたっけ。
 飴細工屋さんが露天の店を出しているのは初めてみました。次から次へと注文だ殺到して、手を休める閑もない飴細工屋さんでした。



 氏子の集まりの「講」は町内会と同じと、関東者の私などはそう思い込んでいるのですが、どうも天満宮の「講」は町内の集まりのほかに、料理人の集まりとか、市場で作っている「講」とか落語家の「講」など職業的な集団の「講」もあることに、あっちこっち見て歩いているうちに気がつきました。隣近所のお付き合いのほかに同業者の結びつきも強い商人の町の大阪の面目がそれぞれの「講」にあるようでした。

チャンチャカチャンチャカ

2011年07月25日(月)

 ちょっと時計を見て、ああ、大阪ではそろそろ天神祭りのクライマックス、陸渡御、船渡御、それから花火が終わるころだなあと、見られなかったその華やかだという水陸の行列を想像してみました。25日つまり今日がその日です。天神祭の陸渡御、船渡御は太閤秀吉の頃の大阪を想像できるのではないかと思い、なんとしても見てみたいのですが、これは来年のお楽しみにして、天神祭の宵宮を見物してきました。

 伊藤さんから「案内してくれるって人がいるよ」とメールを頂いたのは先週の木曜日夜。あいにく私は朝帰り(つまり金曜日)でした。朝帰りと言うか、飯田橋で法政大学の1限の講義に出るという学生とすれ違うという話で、頭は朦朧。夕方、再び飯田橋へ這い出して法政で授業に出て、最終の新幹線で大阪に滑り込むという例によって例による日程でした。うまく案内してくれる人と連絡がとれるかな? とちょっと不安。なにしろ前の週は群集を怖れて、京都の祇園祭りのクライマックスをすごく遠くから眺めるという残念な結果だったのですから。コンコンチキ、コンチキチンからチャンチャカチャン、チャンチャカチャンヘ、2週続けてのお祭り見物でした。そして、今度はうまく大阪の稲垣さんと落ち合うことができました。待ち合わせは、いろいろな出し物で賑わう天満の商店街近くのスーパーマーケットでした。



 お祭りは地元の人に案内してもらうのが一番。大阪天満宮を見て、それから裏手の公園へ。さらに八軒屋浜へと歩きました。川を上り下りする船を見るのは、諦めていたのですが、どんどこ船を見ることができました。これは本祭りの先触れなのだそうです。これだけでもなかなか見事。大川の縁にはかがり火も焚かれていました。



 どんどこ船のほかに、なにやら世話しなく動き回っているモーターボートがあり、烏帽子や袴をつけたお祭りの関係者とおぼしき人が乗っていました。ちょっと笑ったのは、忙しく動き回るモーターボートから、何か四角い箱のような物が、川に落ちたときでした。「あ、何か落ちた」と稲垣さん。川面には、船から落ちた荷物がぷかりぷかり。「どうするのだろう」と私。すると川面を突っ走っていたモーターボートが、つつっと止まり、くるりと方向転換して、荷物のところまで戻ってきました。で、船上の袴を着けた男性は、タモ網を繰り出して浮いている荷物を拾い集めていました。ああ、こんなこともあるんだと妙に感心してしまいました。



 こちらに秀吉の頃の合戦へ出発する船団の様子を想像してみたいという下心があるせいか、どんどこ船から聞こえるチャンチャカチャンのお囃子の音が、なぜか鬨の声に聞こえます。京都の祇園祭りではあまり合戦を想像しなかったのですが、大阪の天神祭は「これは昔の軍事演習じゃないかしら」と思いたくなるくらい合戦を想像したくなります。



 天満橋から、京阪天満駅の駅ビル屋上へ。ちょうど大川の向こうに陽が沈んでゆく時刻でした。陽が沈むと、入れ替わりに、大川端で焚かれていたかがり火の色が冴えてきました。

コンコンチキ コンチキチン

2011年07月21日(木)

 「楽隊のうさぎ」で小倉の祇園祭りを取材した時、京都の祇園会の系統のお祭りですから、お囃子はみやびですよと教えてもらいました。小倉のお祭りといえば「無法松の一生」。歌謡曲で歌われた太鼓の乱れ打ちというのは作家の岩下俊作の創作なのだそうです。でも、そのイメージが定着しているので、お祭りのお囃子とは別に今は和太鼓のコンクールが開かれています。

 九州の小倉から潮待ちの赤間ヶ関と通って瀬戸内海へ、瀬戸内海を東に進んで、淀川を遡り、伏見へという海から川へのルートがあったことをお祭りのお囃子は伝えているようです。祇園祭りの鉾に、異国的な図柄が見られるのも、そうした海上と河川のルートがあったことと無関係ではないでしょう。川端康成の「古都」の冒頭にはキリシタン燈籠が出てきます。それから西洋的な図柄を帯の図にしようとするちょっと変わった問屋の主人。祇園祭りの宵宮で、離ればなれに育った双子の姉妹が出会うこの小説では、当初、古い都と西洋の出会いがモチーフになる予定があったのかもしれないと思わせる幾つかのデティールがあります。笛と鉦と太鼓で奏でられるお囃子にも、どこか、遠い昔に忍び込んだ西洋音楽の面影があるのかもしれません。



 淀屋橋から京阪電車で三条まで。三条大橋を渡り河原町通りにでると、ちょうど山鉾が御池通りを目指しているところでした。並んで進む山鉾を追いかけはしましたが、なにしろ人ごみが苦手。あとで聞いたら、河原町通りと御池通りの交差点でいしいしんじさんも山鉾の巡航を見物していたそうですから、人ごみを億劫がらずにいたら、出会えたかもしれず、ちょっと惜しいことをしました。なにしろ暑い日だったので、人ごみに突入する気力がありませんでした。



 それから八坂神社へ。四条大橋を渡っているときに見知らぬ御婦人から、小さいな保冷剤のパックを「うちから持ってきたものですから使ってください」と手渡されました。あとで、鏡をみたら鬼のような真っ赤な顔をしていました。熱中症寸前だったかもしれません。




 浅黄色の裃姿の人を八坂神社で見ました。きれいな色です。裃って、スーツに似ている感じがしますが、丸の内あたりで見かけるスーツよりもずっときれいな色をしています。お神輿は八坂神社を出発する寸前で、準備が始っていました。でも、いよいよ怪しくなっていたのです。気温と人手で、なんだか頭がくらくら、これはたまらんと、まずペットボトルのお茶を買い、それから「清浄歓喜団」を売っている亀屋清永に逃げ込ませてもらいました。このお菓子は古いお菓子で、お寺のお供物になるのだそうです。ごま油で揚げた硬い皮の中に、香料の入った餡子が詰まってます。



 それでも火照りは引かず、四条大橋のたもとから鴨川の岸におりてしばらく休みました。橋の向こうから、お神輿を担ぐ用意をした人がぽつぽつ集まってくる時刻でした。いやはや、人ごみは苦手です。

鴨川の流れ

2011年07月19日(火)



 淀屋橋のベローチェで土佐堀川の水の満ち干きを少し眺めて京阪電車の特急で、京都の三条まで出ました。40分くらい。電車が地下から地上へ出るのは、京橋のあたり。何度か大阪と京都の間を往復して、電車の窓の外の川の流れを、家々が建てこんだ景色の中から「あのあたりだろう」と追うことができるようになりました。

 淀とか伏見とか、たぶんそのあたりまでは、船で荷物が運ばれたのでしょう。で、伏見を過ぎると京阪電車は再び地下へ。今度は、祇園祭りの山鉾巡航を見物しようと思っていたので三条でおりました。




 三条大橋を渡って河原町通りの方向へ。鴨川にはびっくりするほどきれいな水が流れていました。こんなに水が澄んでいる日があるんだと、ちょっと見とれてしまいました。



 家と家が軒を接していて、その間に細い路地があり、路地の奥にもまた別の家があるという京都の町で、鴨川にかかる橋の上にでると、視界が遠く北山のほうまで開けてほっとします。京都の橋を渡るときは独特の開放感があります。水の流れと空と山と。河原が憩いの場所として生きているのが解ります。



 八坂神社に行った帰りにあんまり暑いので、四条大橋のたもとから、河原に降りてみました。すると、橋の下で若いお嬢さんたちがおしゃべりをしています。向こう岸では川の流れに足をつけて涼む人も、石を投げて水切りをする人も。こんなに大勢の人が河原で涼んでいるのに。白鷺がなんでもない様子でひらりと舞い降りてきました。

 3枚目の写真は四条大橋の下から三条大橋の方向を眺めたところです。歴史の本を読んでいると三条河原に首をさらしたとか。三条河原に引き出して処刑したとか、血なまぐさい記述が出てきます。河原というので、なんとなく町外れのような気がしてましたが、四条大橋の下からその方向を望むと、京のお公家さんや町衆でいちばん賑わう場所を選んでいたのかと、嘆息しました。

淀川の眺め

2011年07月18日(月)



 日曜日、淀屋橋から京阪電車で京都の三条まで出て祇園祭りを覗いてきました。来週は大阪の天神祭りを眺めてこようと思っています。

 写真は京阪電車が出る淀屋橋のベローチェ2階から日本銀行大阪支店方面の眺め。下を土佐堀川が流れています。淀川の流れもここまで海に近づくと、潮の満ち干きがあります。古くは堺、新しくは神戸という外国の玄関口としての港があるので、大阪はあまり港町という感じがしません。横浜港がある東京と同じです。が、潮の満ち干きを見るとここも港であったことを思い出します。

 来週の天神祭りは船渡御が見ものを聞いていますが、残念ながら25日は東京で用事があるので、24日の宵宮を見物しようと考えています。

 17日(日曜日)は京都の祇園祭りの山鉾巡航。土佐堀川の流れをしばし眺めてから、京阪電車で京都の三条まで行きました。ちょっと特急がきていたので、京都三条まではあっというまでした。

城戸朱里さんのハワイ土産

2011年07月18日(月)

 城戸朱里さんからもらったハワイ土産のことを書こうと思いながら、とうとう7月も半ばを過ぎてしまいました。今年は時間の流れが速いのだか、遅いのだか、感覚で上手くつかめません。



 で、城戸朱里さんからいただいたハワイ土産です。LILIKOI BUTTERとピンク色のお塩。リリコイバターはパッションフルーツのジャムに蜂蜜とバターを加えたものだそうです。甘くって酸っぱくって、そして濃厚な舌触りと香りを持っています。これをパンにつけて一切れか二切れ食べればもう、おなかがよくなります。そのくらい濃厚な味と香りなのに、なぜか、暑いときにも食べたくなる味。さすがハワイのお土産だけのことはあります。城戸さんはハワイの朝市で素人の人が作った手作りのジャムだと言っていました。



 それからピンク色のお塩。こっちはちょっともったいない感じがしてまだ食べていません。ゆで卵にちょこっとかけるとか、そんな感じで食べようと思っているだけ。袋ごと眺めて楽しんでいます。

 震災後、お塩が値上がりを始めているそうです。「この世でいちばんおいしい物はお塩だ」と家康の愛妾だったお梶の方が言ったという逸話を聞いたことがありますけれども、味噌でも醤油でも、調味料にはお塩が必ず入っていますから。お塩の値上がりはなんだかただならぬ気がします。

   
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