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中沢けいコラム「豆の葉」
   
 

今年は冷夏なのかしら?

2006年07月31日(月)

 ようやく関東も梅雨があけました。梅雨前線が消滅してしまったそうです。西のほうは関東よりも早く梅雨があけたそうですから、お野菜がなんとなく安くなってきました。熊本の伊藤比呂美さんも雨から開放されたのでしょうか?伊藤さん?元気?

 梅雨があけたと言ってもなんとなく涼しい風が吹いています。天気予報によると、来週から猛烈に暑くなるということですが「ほんまかいな?」っていう気分です。こんなで頭はぼうっとしていて、今日は約束を完全にひとつ忘れてました。ごめんなさい。

 

とうとうまる坊主に

2006年07月29日(土)

 25日に書いた向こうの丘の雑木林と赤松の木ですが、途中まで刈り込むようだというのは私の希望的観測に過ぎませんでした。その日のうちにとうとう丸坊主になってしまいました。その写真をアップしたかったのですが、デジカメの調子が悪くて、アップできません。何が起きたのか解らないのですが、電源が入りっぱなしになってしまいます。それで、バッテリーの電気がどんどん、なくなってしまうという状態です。

 まあ、ともだちみたいな松の木がなくなって赤土が丸出しになっている崖なんて見たくもないでしょうから、写真をアップできなくってちょうどいいのかもしれません。そばを通りかかったら、大きな松の木の切り株がちらりと見えました。思っていたよりもずっと大きな切り株でした。ここに住んで25年くらいになります。50年くらいの年輪なのでしょうか?もっとありそうな気もします。でも、そばに行って確かめる気もしません。こんなふうに、消えてなくなるのを見たくなくて、目をつぶるようにして、見えなくなってしまった景色が東京近郊にはたくさんあるのでしょう。

 それにしても松の木はそれからどうなるのでしょうか?だたのごみになってしまうのかしら?前に陶芸をやっている人の話を聞いたところ、登り窯を炊くには赤松の薪がいいのだそうです。薪なんて勿体ないくらいの立派な松でちゃんと製材したら、良い板や柱が採れるでしょう。たぶん、そういうことはしないのだろうなあと思います。探す人は探しているのに、いらない人には処分するのにお金がかかるゴミになるという感じなのかなあと赤向けの崖をちらりちらりと眺めています。
 
 ことしの冬は寂しいだろうなあ…………。

丘の上の松の木

2006年07月25日(火)

 曇り空、霧雨、曇り空、雨、雨、雨、大雨。毎日、重ったるい曇り空が続いています。この雨降り続きのお天気の中で、家の向かいの丘の上で、なにやら工事が始まりました。昔は畑だった丘です。今の家に住み始めた頃、丘の上の畑に二宮金次郎が、あの薪を背負って本を読んでいる金次郎さんがぽつんとたっているのを見つけました。きくところによると、その畑はもともと小学校の校地だったそうです。

 畑はしばらくすると駐車場になりました。が、畑を取り囲む傾斜地は雑木林のままでした。雑木林の中に一本の赤松が幹を少しだけくねらせて立っていました。夏は緑に覆われて目立ちませんが、雑木林の木々が葉を落とす冬になると、暖かそうな幹の色と、常盤木と呼ばれるに相応しい緑の濃い色が目立ちました。
 私はこの松の木が好きでした。嫌なことがあった時にはただばんやりとこの松の木を眺めていると、気が落着いてきました。その大好きな松の木も霧雨の中で働く黄色い重機に切り倒されてしまいました。雑木林の樹木を伐採して、林の大きさを斜面の半分ほどにしている様子です。切り倒されなかった木の向こうに、赤松らしい幹が横たわっているのがちらりと見えました。
 見に行ってみようかとも思いましたが、なんだかそれも切なくなりそうで、遠く響いてくる工事の音だけ黙って聞いています。

 ここからは聞いた話になりますが、私のすむ集合住宅は谷底にたっています。いや、谷底というよりは河原にたっているといったほうがいい場所です。真ん中には川岸をコンクリートで固められた川が流れています。この川は昔は武蔵野を流れる野川のひとつだったそうです。野川というのは、ふだんは小さな流れなのですが、ひとたび雨が降ると河原いっぱいに流れ出す川のことをそういうのだそうです。ですから、広い河原があります。私の家はその河原に建てられています。緑の生い茂った河原に水があふれて流れる光景はさぞ見事だったろうと、聞いただけの話を想像してみることがあります。清らかな水には川魚もたくさん住んでいたそうです。

 松の木がなくなって、というよりも、松の木がいなくなって、さびしくなりました。もう、そろそろ、この昔は野川の流れる河原だった土地を離れて、どこかほかのところに行くほうがいい時期が来ているのかな、と小雨にもかかわらず働き続ける黄色い重機を見ながら考えこんでしまいました。

奥歯のカチカチ

2006年07月23日(日)

 右の奥歯を抜いたのは東京新聞に「楽隊のうさぎ」を連載していたときでした。あんまり痛くて、思い切って抜いてしまいました。それから、左の奥歯の下の歯がなぜかはれ上がったのは、いつだったか?評論家の秋山駿さんと恒例の温泉に行く会で、鬼怒川温泉に行った時ですから、かれこれ3年も前です。このときの痛みは強烈でした。が、あとから歯医者さんに聞くと、「死んでしまう人もいる」ような恐い状態だったそうで、ほんとにたまげました。

 この左奥歯下の歯の痛みに懲りて、こつこつと歯医者さんに通ったのですが「うさぎとトランペット」の連載が始まって、いつしか歯医者さんを忘れました。それより前に抜いた右の奥歯上の歯は歯抜けのまま。そうこうするうちに今度は左の奥歯の上の歯が痛み始めました。さあ、たいへん、こんどこそは、最初に抜いた右の奥歯上の歯もなんとかしなくては!と歯医者さんに通い始めたのが昨年の暮れ。ようやく、ようやく、7年ぶりに歯が全部、治りました。でも、ずっと抜けたままにした歯があったために上の前歯が、まるで「うさぎ」みたいにちょっと隙間が出来てしまいました。

 その隙間ができた前歯を歯が白くなるという歯磨き粉を買ってきて磨いています。ぴかぴかになるかしら?なぜかその歯磨き粉で歯を磨くたびに、東京會舘で遠藤周作さんと安岡章太郎さんが歯ブラシの話をしていた場面を思い出します。何の会合の時だったか?安岡さんも沿道さんもゆったりとソファに座って、その頃はまだ珍しかった電動歯ブラシの使い心地について、熱心に話していました。

 入れたばかりのブリッジはまだ口の中に納まらなくて、居心地が悪そうにしています。カチカチと文句を言っています。

志賀信夫さんからメール

2006年07月20日(木)

 ダンスが見たい 批評家推薦シリーズの志賀信夫さんから以下のようなメールを頂きました。このメールによると三日目の夜のステージもなかなかおもしろかった様子です。行けなくて残念。

「先日は本当にありがとうございます
 二日目、トーク本当にみんな面白かったとあとからも感想が来ました。

 あれでよくわかったという人、あれが印象に残り舞台を忘れた人までさまざまですが、初めて見た人以外にも好評でした。なおかつ二日目の打ち上げ、会場探しに走らせてしまってすみません。やはり打ち上げ会場確保は必要でした。

 三日目の森さんのソロもとっても面白かった。紋付きにゲタ、竹の筒を二つ竹馬のように操ったり、さらし首っぽいイメージを作ったりと多様。音楽がバルカンっぽい早い曲とバロック。
 三人のコラボは基本的に二日目の形だけど、阿部さん、福士さんが結構大胆にソロを主張して面白かった」

ダンスが見たい8 批評家推シリーズ

2006年07月19日(水)

 福士正一さん、森繁哉さん、阿部利勝さんの舞踏を二晩続けて見ました。最初の晩は阿部さんのソロと福士さん、阿部さんのデュエット。予定はでは森さんも加わるはずでしたが、都合がつかず、急遽、福士さん、阿部さんのデュエットになりました。

 阿部さんのソロでは「田植え機のダンス」がすごく魅力的でした。「一年の数日、働いてもらうために、借金をした」田植え機。田植えの様子を踊るのですが、たんに田植え機の動きを真似ているというのではなく、田植え機の動きが身体に乗り移っている感じです。お神楽に田植えの所作がありますが、阿部さんの舞踏は、現代版のお神楽みたいに、動きが明るくて軽やかです。
 身体付きも中心線がまっすぐに通るところに筋肉がしっかりと付いた感じで、現代的な身体性を感じさせます。ふつかめのアフタートークで話題になったのですが現代の農業では腰をかがめる作業というのはだんだん少なくなっているのだそうです。福士さんとのデェットの時にあったしこを踏む動作なども田植え機に通じる明るさと感じました。「明るい」というよりも「めでたい」といったほうが適切でしょう。「めでたい」身体の動きにはおかしみに通じながら神々しさもありました。土方巽の孫弟子にこんなにめでたい身体と動きと表情を持った人で出てくるというのは、私にとって大発見でした。
 
 福士さんとのデュエットでは、同じ舞踏でもこんなに異なる身体が出来上がるのかと見つめてしまいました。福士さんの舞踏はひとことで言えば「不気味」になります。でもこの「不気味」は単純な不気味さではありません。背中を思いっきりそらせた姿勢での動きは、足を消し忘れたために不自由な動きを強いられる幽霊を思わせます。もちろん、背中をそらせれば誰でもそういう感じが出るというわけではありません。荒川静香選手のイアンバウアーを見て幽霊を思う人はいないでしょう。福士さんの舞踏は身体をそらせることで雪国に住む霊(スピリット)を招きよせているかのようです。ですから、阿部さん、福士さんのデェットは「いる人」と「いない人」が組んで踊っているかのようでした。「いない人」という言い方をしたのは、不気味な幽霊みたいに見えるだけでなく踊っていると様々は霊(スピリット)が招きよせられてくるように感じられるからです。

 翌日は福士さんのソロ。前半は身体をそらせた不気味の舞踏から、中盤、何か無邪気なもの、生まれる前の赤ちゃんみたいの動きへ、進んで行き、舞台にあったオブジェ(春巻きの皮で作ったものだそうです)を観客席にばらまくところは、道路劇場で、思いがけない通行人を巻き込んでしまう場面を彷彿とさせました。福士さんの今にも手足がばらばらになってしまいそうな柔らかい身体の動きをいつ見ていても、不気味だけど触ってみたいくなります。いったいどうなっているんだろう?と子どもみたいな気持ちにさせられるのです。

 後半は森繁哉さんが加わり、3人での舞踏。森さんは腰の曲がったお婆さん。安倍さんは白いシャツのお父さん。福士さんは学生帽に半ズボンの子ども。森さんの腰の曲がったお婆さんの舞踏は、身体の底から動きたい、動きたいと突き上げてくるような衝動を感じさせるもので、独特の動きでありながら、お婆さんをリアルに観察している眼も感じさせるものでした。三人がひしひしとご飯を食べる場面では福士さんの帽子が飛ぶというハプニングもあって、開場から笑いが漏れていました。森さんが加わることで人間がひしめきあって生きている感じが、ものすごく濃密に伝ってくる舞台になっていました。3日目の森さんのソロも見たいかったのですが、残念ながら3日目はすでに予定が入っていて出かけられませんでした。

西五軒町

2006年07月18日(火)

 西五軒町と言ってもピンと来る人は少ないかもしれません。書籍の取次ぎ会社であるトーハンの本社のあたりです。神田川の上を高速道路が走っているさびしい場所で、トーハンや凸版印刷があります。

 その西五軒町の「神楽坂Die pratze」ヘ舞踏を見に行ってきました。神楽坂というのはちょっとなあという場所ですが、赤城神社から江戸川橋の方向へ坂を下った場所にある小さな劇場です。「ダンスがみたい!批評家推薦シリーズ 8」に青森の福士正一さん、山形の森繁哉さん、阿部利勝さんがご出演になるというので、出かけたのです。

 話は6年前に遡るのですが、青森で日韓の文学者会議を開催する時に舞踏家の福士正一さんを紹介してもらいました。福士さんは長年、道路を劇場として踊ってきた舞踏家で(しかし、青森市の職員でもあって、公務する舞踏家とおしゃっています)韓国でも踊ったことがあるというご縁で紹介していただきました。
 4年前にインドの作家とのシンポジウムを山形で開催する時にコンテンポラリーの芸術家として森繁哉さんをやはりご紹介いただいたのですが、お話を聞いてみると福士さんのお師匠さん!でした。山形大学時代に森さんのダンスを見て福士さんも舞踏を始めたのだそうです。

 森繁哉さんは舞踏家土方巽に師事したと伺っています。もともとは町役場の職員だったのですが、今は山形芸術工科大学教授。阿部利勝さんも森さんのお弟子さん。やはりインドとのシンポジウムの時に舞踏を見ています。で、舞踏の話を書かなくちゃいけないのだけれども、その前に驚くことが次々に起きたので、その話を。

 西五軒町というのも、私には西荻と並んで思い出の街で、高校を出てすぐに出版物を輸送する運送会社に務めていた私は毎朝、トーハンに電話をするのが業務のひとつでした。荷物の数の突合せです。で、時には伝票を届けることもあって、その頃から寂しい谷底の街だなと思っていました。で、その寂しい谷底の街の劇場での驚きのひとつは、評価推薦の批評家が志賀信夫さんだったことです。毎年、夏に鎌倉で飲み会をやっていた頃があるのですが、その飲み会に文芸評論家富岡幸一郎さんの大学時代の同級生ということで御一緒していた志賀さんとは思っていたかったので、劇場の前でお顔を見たときはびっくり。福士さんの舞踏を見たのがきっかけで今回の企画になったそうです。

 志賀さんと劇場前で立ち話をしていると、そこに中沢新一さんが現れて、「えっ」とびっくり。これはアフタートークショーの予定があったとのことで、プログラムをちゃんと見ていない私が悪かったのですが、中沢さん(私じゃないほう)はゼミの学生を連れて毎年、阿部さんのところで農作業をしているのだそうです。(トークで中沢ゼミ、中沢ゼミと言われるたびに私がびくんとしていましたが)
 阿部さんは農家で、中沢ゼミ(だからうちではありません)の面倒を見ているうちにだんだん舞踏に目覚めたのだそうです。

 最後のびっくりの極めつけは、一日目のステージが終わったあとの打ち上げで、鶴岡中央高校で大学の模擬授業をした話をすると阿部さんが「僕はその学校のPTA会長です」といわれたことでした。どうしてこんなに寂しい西五軒町でばらばらの玉が糸で繋がるように、いろんなことが繋がって行くのでしょう?ここのホームページに伊藤比呂美さんがコラムを書いてくださるようになったのも、もとは森さんにつないでいただいたようなものですが、その話はまた今度。それから肝心のダンスの話もしなくちゃ。それはまた明日。

西荻のダンテ

2006年07月17日(月)

 前からお会いしたいと思っていた平松洋子さんのご自宅に伺ってお話を聞いてきました。「表現者」の連載「眼と仕事と道具」のためのインタビューです。平松さんのご自宅は西荻窪。

 私も25年前に西荻窪に住んでいました。東京に出てきて、何の土地勘もなく住むところを決めたのですが、西荻は東京二十三区のはずれ、となりは吉祥寺で武蔵野市になります。だからちょっと家賃が安いかなくらいの感じで、そこに住むことにしました。

 久しぶりの西荻です。「このあたりの空気は変わらない」と平松さんがおしゃるとおり、新宿の騒がしさからちょっと離れてほっとした感じは昔のままです。

 インタビューが終わってから駅前の「こけし屋」でランチを食べました。郊外のフランス料理店の草分けみたいなお店で、大学生の時は編集者との待ち合わせによくこのこけし屋をつかいました。それから「ダンテ」へ。

 正直に言うとまだ「ダンテ」はあるかしら?とちょっと心配でした。JRの駅を南へでて、右手の細い路地の奥です。自転車くらいしか通れない道で、途中にある「初音ラーメン」も健在でした。「初音」でラーメンを食べて「ダンテ」でコーヒーを飲むというのが、いつもの帰り道の手順。「こけし屋」が応接間なら「ダンテ」はもっと親しい感じで、リビングというのか、自分のうちの延長みたいな、そんな感じでした。「ダンテ」では黒いカーディガンが似合う老婦人がいて、いつも本を読んでいました。その人をモデルにした人物を「女ともだち」の中に書いています。

 数年前におよそ20年ぶりくらいに「ダンテ」にコーヒーを飲みに言ったらマスターが私を記憶していたのにはたいへんに驚きました。今度も「こんにちは」です。
昔、伊豆の下田にある「中川」というお刺身を食べさせる店のことを話したことがあるのですが、今でもマスターはバイクに乗っていて、「中川」が新しく出した店にも行っているという話をしました。

 平松さんはずっと西荻にお住まいだそうです。私もあのまま西荻に住んでいたら、今頃、どうなっていたのかしら?と考えずにはいられませんでした。なんだか複雑な気持ち。こういう複雑な気持ちを表現するならエッセイよりも小説のほうがいいんだよなあと、中央線の中で考えていました。「私」や「僕」などの一人称に縛られてしまっては、表現できない複雑な気持ちです。

 西荻窪は昭和のはじめの建売住宅として開けてきた街ですが、街もだんだん歳をとるのですね。歳をとり始めて街の魅力を今の西荻窪には感じます。

 MIXIに夫馬基彦さんから以下のような書き込みをいただきました。

「いや、たいしたことじゃないんですが、西荻には昔佐々木基一さんと杉並シネクラブをやっていた頃、仲間が多くいてよく行きました。その定番コースが、ダンテ、初音ラーメン、こけしや、そして出てこないけど飲み屋「たみ」「キングクラブ」等でした。

更に、伊豆下田の中川も伊豆時代(ぼくは伊豆の山中に住んでいたことがあります)、常連でした。喫茶店なら「邪宗門」。

いやあ、懐かしい。 」

 そうそう西荻の駅のプラットホームではいろんな人の姿をおみかけしました。

隠れ家と暖かい雨

2006年07月14日(金)

 飯田橋に隠れ家みたいな場所を見つけました。銀嶺ホールが見えるところです。でも、外堀通りからこちらは見えません。喫茶店のテラスと言っても植え込みで往来からは隠れています。ずっと内緒にしておきたかったんだけど、ちょっとだけ人に教えてしまいました。

 学校の研究室の鍵を受付に返して外に出てみると、図書館の前のアスファルトが黒く濡れていました。おや?雨が降ったのかしら?と空を見上げたら、雨が降ったのではなくて、大粒の暖かい雨がぽつんぽつんと降っている最中でした。モームの短編小説に出てくるような雨。
昨日も夕方、同じくらいの時間にやはり暖かい雨が降っていました。夕立というには、少々思い切りの悪い雨です。寄り道をしようか、それともまっすぐに家に帰ろうか、考え考え暖かい雨の中を歩いていました。

 地下鉄じゃなかったら、まっすぐに家に帰るところなのですが、地下鉄だと陽が沈んで行く夕暮れの空を眺めることができないので、それが詰まらないんです。日暮れの空と街を見ているのが好きです。思い切りが悪い暖かい雨がぽつんぽつんと降っている街の夕闇の中に溶け込んでしまいそうになりながら、街を見ていると、理由なく楽しい気がします。

 それで例の隠れ家から外堀どおりの日暮れを眺めていよういう気になりました。

ジダンは何を言われたのか

2006年07月11日(火)

 四年前のワールドカップの時、四年後は息子や娘たちも大学を卒業するだろうからワールドカップをドイツまで見に行きたいなと思っていました。4年たったら、それどころではないほど、忙しくなってました。(やれやれ)とは言え、私はそれほどのサッカーファンではありません。にわかファンと軽蔑される程度の観戦者です。
 ワールドカップの時に売り出される応援用タオルはコレクションしていますが……。

 そこで、いつも試合が終わると星野智幸さんのHPを見て、その感想を楽しみにしています。今回の決勝戦では前半をライブで見てから、翌日の予定があったので、後半は寝てしまいました。というか、前半も試合の開始時間を一時間ほど間違えていました。ネットで試合開始を知って、あわてて、テレビをつけるとフランスのアンリがピッチにのびていました。これはそうとうな激しい試合だなと、その場面で思っていました。
 そうそう、アンリが気付けに茶色い小さな小瓶から何かの匂いを嗅がせてもらっている場面では、19世紀の小説に出てくるような場面を見ているような気がしました。いったいどんな匂いをかいでいたんでしょう?

 それで目が覚めてみるとジダンのレッドカード退場です。今日のニュースでもジダンが何を言われたのか?がかなり詮索されていました。星野さんはホームページでジダンの「狂気」と書いてました。そう「狂気」なのかもいしれません。サッカーがわからない私がそう書くと笑われるかもしれませんが、あのシーンを見ると神がかり的な精神の集中の中に訪れる「あらぶる神」みたいなものを感じます。

 ジダンはキリスト教徒かもしれませんが、日本の神様は柔らかいニギミタマと荒々しいアラミタマがあると考えられているのだそうです。で、ジダンとは関係なしに考えてみるとああいう場面ではアラミタマが人間の目にも見えるような形で現れる気がしました。極度の集中が生み出す「アラミタマ」が星野さんのいう「狂気」なのではないでしょうか?

 そういう私は4月からいささか登校拒否ぎみで、同時に「アラミタマ」不足を感じています。エネルギーの不足ではなくて、仕事に集中するための核のようなものがちょっと不足気味です。そのせいか、ジダン選手の「アラミタマ」が羨ましく見えます。サッカーの神様に愛されている男と言われているジダン選手ですが、神様の愛し方が少々荒っぽすぎたのでしょう。暴力による退場でもそういう神々しいものをなんとなくあの場面から感じてしまいました。

これがぎゃっぼと鳴くマングース人形

2006年07月10日(月)

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 写真を撮らなくちゃっと思いながら、なかなか撮影の機会がなかったマングース人形です。「のだめカンタービレ」で主人公の野田恵が学園祭で着たマングースの着ぐるみがそのままぬいぐるみになっています。

「のだめカンタービレ」はこのマングース人形が出てきた音大在学中が好きです。もちろん、漫画は今も進行していて、楽しみに読んでいますが、音大大学中のわきやくたちがなんと言ってもリアルでした。それから先生たち。コンクール入賞のコーチがうまいハリセン先生とか楽譜も読めない劣等生専門の老先生とか。芸術系の大学の奇妙奇天烈さが出ていた頃がもっとも楽しかったです。その頃は、我が家には音大生もいたし、私も芸術系の大学で講師をしていましたから。

 芸術家って一般にはへんな人と思われがちですが、まあ、ふつうです。ふつうにヘンです。ふつうの学校や会社でも、少し注意深く観察していれば、そうとうへんな人がたくさんいます。が、ふつうは、そこまで観察しないし、また観察したあとでデフォルメを加えたりしません。だから「観察+デフォルメ」の入る芸術系はお話にするとおもしろいんだと思います。でも、どこの職場にも「観察+デフォルメ」のうまい人って必ずいるような気がするのですが、どうでしょうか?

 うちではこのマングース人形は「ぎゃっぼ」と呼んでいます。お腹を押すとほんとうに「ぎゃっぼ、ぎゃっぼ」と鳴きます。御天気の良い日に撮影したかったのですが、なかなかどうして毎日梅雨のために、良いお天気になりませんでした。

ノ・ムヒョンの沈黙

2006年07月08日(土)

 5日早朝に鶴岡のホテルで、サッカーを見ようとテレビをつけたら、北朝鮮がミサイルを発射したというニュースが流れていました。それからあまり新聞を丁寧に読む時間がないので、ネット検索でニュースをあさっていたのですが、ネット上の記事を多いのは、イラクの開戦が迫っていた頃の2003年の記事です。その当時、北朝鮮はシルクワームという小型ミサイルを発射しています。そのイラクでは自衛隊の撤退が始まりました。砂嵐のためにいくらか撤退作業が遅れているようですが、7月中にはサマーワからの撤退を終了するようです。

 もともと北朝鮮の核開発ミサイル問題はイラク戦争開戦の時期とシンクロしてクローズアップされていたことを改めて思い出しました。こうした動きには、どの程度の「意図」が介在しているのからは、散発的なニュースをあさるだけでは理解できないところがありますが、まったく「意図」が働いていないとも考えられません。誰の「意図」なのか、どのような「意図」なのか。そこまで推察はできませんし、あるいは神の「意図」、つまり無神論者なら「偶然」とか「歴史の悪戯」と呼ぶようなものなのかもしれません。

 朝鮮日報は韓国のノ・ムヒョン大統領が沈黙しているわけを探る記事を書いています。ちょっと目を引いたのは今年の3月に北朝鮮国内でクーデターや内乱などが起きた場合を想定した米韓の演習を行われている記事があったことです。これは「内乱」や「クーデター」というキーワードで検索したところ、引っかかってきた過去の記事です。米韓それに日本はおおよそ、そうした「不測の事態」が起きた場合の対処を考えているようです。昨日の夕刊フジは中国が中朝の国境を閉鎖し、石油のパイプライン6本のうち5本を閉じたことを報じています。これも2003年のシルクワーム発射の時に中国がパイプラインの事故を理由に石油の供給を止めたのと同じなり方なのですが、その時以上に緊張したものを感じます。ですから国連での議論の方向には強い関心を抱いています。

 日本のテレビコメンテーターは過去の事例をもとにパターナイズされたコメントを出す傾向があります。北朝鮮について言えば、パターナイズされたコメントに多少の嘲笑の色が加えられることが多いのですが、おきている事象は過去の例とよく似ていても時間の経過とともに事象の意味が変わるという点に留意したコメントは、ほとんどありません。北朝鮮については無用なあなどりや不愉快なほどのあざけりが加わるので、聞くに堪えない場合すらあります。そのような軽佻浮薄なムードの水面下で何か重大なことが進行しているようです。ノ・ムヒョンの沈黙がそれを雄弁に物語っていると考えるのは、あまりにも小説家的想像力だと言われてしまいそうですね。

雲、雲、また雲。

2006年07月06日(木)

 4日、飛行機で庄内空港まで飛ぶときに「視界不良のため,新潟空港に着陸するか、もしくは羽田に引き返す可能性があります」という事前アナウスがありました。西日本から東北にかけて停滞している梅雨前線の動きが活発になっているとのことでした。飛行機が上空にあがってみると、機体のしたは、雲、雲、雲また雲で、もくもくと硬そうな雲が群れを作っていました。純白の雲です。もちろん雲の上はまぶしいばかりの夏の光。さらに高いところには、秋の雲のような薄雲さえ広がっていました。

 鶴岡に行くのは20年ぶりくらい。お隣の酒田には何度か行っているのですが、考えてみると鶴岡は1988年以来です。天候がよければ庄内平野の向こうに月山や湯殿山それに鳥海山が見えるはずですが、残念ながら曇っていました。

 帰りの空港でも、今度は「空路が混雑しているので離陸が40分遅れます」のアナウスがありました。あるいは北朝鮮がミサイルを発射した影響で、通常の飛行機だけではなく、自衛隊機なども飛んでいるのかしら?と言う想像をめぐらしてしまいました。そして今度も雲、雲、雲。東京まで雲の中を飛び続けました。で、いざ、羽田に着陸しようとした寸前で、空港が混雑しているという理由で、茨城県上空で待機することになりました。通常は50分のフライト時間の空路を1時間30分も飛んでいることになりました。

暑くなりました。

2006年07月04日(火)

 九州は大雨だそうです。伊藤さん、どうしているかしら?東京も暑くなりました。今年は5月から雨が降り続けているので、もういい加減に梅雨明け宣言を聞きたいものです。法政大学の前の外堀の水はものすごい緑色をしています。きっとこの暑さで、藻が大量発生したのでしょう。外堀土手の泰山木の花の季節も終わってしまいました。

 毎年、6月とか7月というのは学校絡み、少年絡みの事件がおおいように思えます。6月は祭日のない月で、なんだか永遠にいやなことが続きそうな気がしてくるのでしょうか?今年もまた、なにやら、大事件続発という感じでした。それを報じる週刊誌の中吊り広告を見ながら「ああ、今年も半分終わっちゃったな」と思ったものです。気のせいか「今年も半分終わり」という文句がやたらに耳につきます。それにしても暑くなりました。

   
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