|
|
|
|
|
|
ブブゼラの音で目が覚めて
2010年06月27日(日)
伊藤さん、御元気そうで何よりです。
うちがサッカー王国の埼玉なので、息子は小学生の時、サッカークラブに入ってました。で、娘も「お兄ちゃんが入るなら、あたしも入りたい」と。チームの監督のところへ女の子も入れるかどうか聞きに行ったことがあります。なんでも隣町のクラブには、ナショナルチームのジュニアクラスに入っている女の子がいるチームがあるとのことで、娘もサッカークラブに入てもらえる許可をもらいました。ところが、それやこれや交渉をしているうちに娘のほうが「サッカーって男の子だけじゃん、知らなかった」と言い出して、すっかりチームに入る気をなくしていました。娘はスイミングスクールにも通っていたから、サッカーが沙汰止みになってちょうど良かったのですけど。
Wカップの初戦、カメルーン戦は「法政文芸」の編集委員と、法政大学近くのカフェで見ていました。見るつもりじゃなくって、編集委員会の帰りにビールを飲んでいたら、突然、スクリーンが下りてきて中継が始まったのです。で、私の隣の山田君が 「あ、入った」 と叫びました。 「入ったじゃなくて、入れられたんだろう」 そんな感じで、なにげにスクリーンを見ると日本に1点入っているので「ううん?」。だってブラジル相手に歴史的1点を取ったという試合だった過去にはあったのですから。その日は「入った」の山田君と地下鉄のホームに降りて、顔を見合わせてしまいました。ホームに電車を待つ人が誰もいなかったのです。電車もすいていました。家に帰りついたのは、ロスタイムの時。テレビを見ていた娘とロスタイムの間じゅう、固唾を呑んでいました。
さて、二戦目。相手はオランダ。この日は大阪芸術大学の出講日。試合時間は帰りの新幹線の中のはず。いつも講師控え室でいっしょになる映像翻訳の男の先生は「今日はサッカーが見たいから、東京に帰らず、実家に帰ります」って笑ってました。 「オランダは強いよねえ」 と、二人でぼこぼこにされなきゃいいけど、と心配顔になってしまいました。 新幹線の中の電光掲示板に、絶望的な数字がでなければいいんだけどと、おそるおそる、時々、掲示板を見ていましたが、あの掲示板のニュースはそれほど速報ではなさそうで、サッカーの試合経過は流れていませんでした。そこで一念発起。今まで使ったことがなかったけれども、携帯電話をインターネットにつないでみると、なんと0−0で前半を折り返しているではありませんか!。東京駅に到着する前にもう一度、携帯で試合経過をみると0−1で負けてました。が、思わず「すごい!!!」 家に帰って、午前3時からの再放送で試合を見ました。けれども、なぜか1点入れられる場面だけ居眠りをしてしまい、目が覚めたら1点入っていました。
勝つか引き分けるかで決勝T進出が決まる第三戦のデンマーク戦。「あ、入った」の山田君と、午前3時からの中継を見るかどうかで、話をしました。山田君は電車の押し屋のアルバイトをしています。 日本が勝ったにしろ、負けるにしろ、試合終了時間と朝の出勤時間がぶつかりそう。 「始発電車って、ゲロ吐いてあることがあって、掃除するんですけど、明日はいつもよりもゲロが多そう」 そうか、そういう心配もあるのかと感心。家に帰ったら娘はもう寝ていました。前々から早く寝て、中継を見ると宣言していた娘です。なんでも娘の会社では、中継を見るために有給休暇をとった人もいるとのことでした。
午前3時半。ブブゼラの響きで目が覚めました。ちゃんと時間どおりに起き出した娘がデンマーク戦の中継を見ていました。どれ、どれ、と居間へ出て行くと、2点先制点を取っているではありませんか。ありゃ、びっくりと、そのまま、朝まで娘に付き合ってしまいました。3点目が入ったときは、二人で万歳。夜があけてました。娘はそのまま、会社へ。 夕刻、たまたま乗り合わせたタクシーの運転手さんとサッカーの話になり 「3点目は本田が岡崎に入れさせてやったんだなんて失礼なことを言うやつがいる」 と憤慨していたので「そうだ、そうだ」と同調。それで200円ほどタクシー代をおまけしてもらいました。
ロストクライム 3億円はどこへ行ったの?
2010年06月22日(火)
角川映画の「ロストクライム 閃光」を試写会で見てきました。1968年の「3億円事件」を題材にした永瀬俊介の小説を映画化したものです。試写会のあとは、ジャーナリストの魚住昭さん大谷昭宏さんとのトークセッション。大谷さんは事件当時、読売入社1年目の新米記者で徳島の支局にいたそうです。魚住さんが共同通信へ入社したのは、「3億円事件」の時効の頃だったとお話していました。私は事件当時小学校3年生。
映画ではジャーナリスト宮本役の武田真治が異様になまめかしいのに驚きました。この映画を事前にご自宅でご覧になった魚住さんは「小学校4年生のこどもと一緒に見たので、エッチな場面が出てくると、画面を飛ばしました」と言ってましたが、試写会で見た私はエッチな場面よりも武田真治が出てくると、そのなまめかしさがちょっと怖くなりました。主演は刑事役の奥田英二、渡辺大の二人。3億円事件の主犯の父親役の夏八木勲の存在感もなかなか。でも、武田真治の非存在感と、怖いようななまめかしさについ目が行ってしまいました。
それで3億円事件ですが、あの事件では奪われたお金は一切使われてないということになっています。大谷さんもそう言ってました。映画の中では3億円は焼き払われたということになっています。このシーンはロマンチックな場面です。焼き払うという選択も、あの時代の全共闘の学生で、良い家のお坊ちゃんお嬢さんだったらあるかもしれないと、ある種の共感を持ちました。
ある種の共感というのは、「いったいあの3億円はどこにいっちゃったんだ?」というのが、私にとっては子どものときからの最大の謎というか、知りたくてたまらないことだからです。
お金に番号が振ってあるというのを3億円事件のときに、大人たちの話に聞き耳をたてて初めて知ったのです。強奪されたたのは家電メーカーのボーナスで、1万円札、5千円札、千円札、五百円札、百円札のうちなぜか五百円札だけ銀行が番号を控えていたとのことでした。1万円札を使わせるために、警察がそういう発表をしているのだと、大人たちが話していました。「お札だから埋めておくわけにもいかないねえ」とか「そのうち、お札を撒いてくれるといいんだけど」など、この事件は白バイ警官に扮した犯人が、あっと言うまに3億円を強奪し、怪我人ひとりも出さなかったというので、大人は子どもの耳を恐れずに話をしていたのです。私はこの時、お札には番号が書いてあることや、スイスの保険会社の保険がかけられていたことを知り、それからジュラルミンという金属の名前を覚えました。だから、今でもジュラルミンケースを見ると「あ、お金が入っているんだ」と条件反射的に、じっと見詰めてしまうことがあります。 お金は焼いちゃったというのは、ある程度の説得力もあるし、あの当時の学生運動のいたずらな空気に対する批評的な場面、つまりロマンチックだけど無意味ということで、それはそれで共感があるのですが、でも、ほんとうに3億円はなくなっちゃったの! と気になってしょうがないのです。
で、以下のようなことを考えてみました。 現金3億円を担保に、お金を3億円借り出す。これで犯人(もしくは犯人グループ)はマネーロンダリングができるわけです。で、3億円を貸した方は、その現金を時間をかけて小分けにして海外に持ち出す。それで海外で、外貨もしくは金などに交換する。こんなふうにすれば、たぶん、3億円は使ったということがばれずにマネーロンダリングできたのではないでしょうか?昨日のうちに、これを思いついていたら、大谷さんと魚住さんのご意見を聞いてみたんですけどねえ。残念です。いつもあとから思いつくの。
大谷さんや魚住さんのお話を今朝になってあれこれ思い出してみると、3億円事件では刑事警察と公安警察の組織的な鍔迫り合いがあって、それで捜査が混乱したので未解決になったみたいなニュアンスがあったなあと、納得。映画を見たあとで、ジャーナリストとお話ができるという愉快な経験でした。
神田川のほとり、枇杷の実とたばこ
2010年06月16日(水)
御茶ノ水駅の近く、神田川を見下ろす喫煙所で煙草を吸っていたときのことです。額や頬に生傷のある、どこか凶悪な感じと憎めない人なつっこさが同居した顔の男の人が近づいてきました。顔の生傷が目立ったので、つい、うっかりまじまじと見詰めてしまいました。すると 男の人も、にっと笑ったのです。 「おや?」と思ったところ 「煙草を1本下さい」と言うのです。 私にではなく、私の隣で煙草を吸っていたお婆さんに。ほっそりとやせた身体に黒いカーディガンが似合うお婆さんでした。ちょっと見た感じを率直に言うと、飲み屋さんかバーのママという印象。で、お婆さんはポケットからマールボロの箱を取り出して一本、煙草を差出しました。お婆さんが低い声で言いました。 「あんた、医者からたばこを止められているんでしょう」 神田川が流れるそのあたりは、大学病院が並んでいます。マールボロを一本もらった男は 「ライターは持ってます」 と自分のポケットから出したライターで煙草に火をつけました。 「お酒もたばこも駄目だって言われているんだけどね」 一服吸って、そう言いながらにこやかに笑いました。 「私が煙草を上げたからって、あとで、病気が悪くなったなんて言わないでよ」 お婆さんは念を押す調子でそう言ってから 「だけど、止められないようね」 と煙を吐き出しました。 「ああ、止めたのは刑務所に入っていたときぐらいだねえ。出てきたら、一日3箱はすっちゃうもんなあ」 おやおや、最初に顔を見たとき、不思議な雰囲気の男の人だなあと感じたのはそういうわけだったかと、つい聞き耳を立ててしまいました。 「お酒はね、あるんですよ。へんてこな薬が。その薬を飲んでお酒を飲むとね、顔は真っ赤になるし、心臓はばくばくするしで、救急車呼ばなくちゃならないの。医者がそういう薬をくれるの」 へえ、そんな薬があるんだと内心、びっくり。お婆さんは煙草をふかしながら「ふうん」と気のない返事で男の人の話を聞いてました。このあたりで、私の吸っていた煙草が短くなったので、吸殻を設置された灰皿に捨てて、その場を離れました。自分の好奇心をややもてあました感じでした。御茶ノ水の駅のほうへ歩いて行くと御茶ノ水橋のたもとに、枇杷の実がいっぱい生っていました。誰も手入れをすることがない枇杷の実ですから、ひとつひとつは小さいのですが、日当たりが良いので、きれいなオレンジ色(枇杷色)に染まっていました。その枇杷の実を携帯で写真に撮ろうかどうか、しばらく立ち止まって考えていました。写真を撮るよりも、覚えているだけのほうが楽しい時があるので、迷います。 すると後ろから声がしました。 「こんなに枇杷の実が生っているの」 あのマールボロを差し出したお婆さんでした。背筋がぴんと伸びたお婆さんとふたりでしばらく枇杷の実を眺めていました。結局、写真は撮らずに眺めるだけにしました。
箱根で蛍を見てきました。
2010年06月11日(金)
ちょうど栴檀の木が花の盛りでした。 前の日までは一匹二匹が飛ぶだけだった蛍も一雨降ったあとでたくさん飛び回るようになりました。栴檀の花には、美しい蝶々が飛んできていました。卯の花の盛りの季節です。
泊まったのは塔ノ沢の福住楼。前に流れる早川に蛍が飛ぶことを教えてもらったのは去年の今頃でした。蛍というものを一度見てみたいと願っていました。それと言うのも、横浜から房州の館山へ引っ越した最初の年、私は小学校1年生でしたが、蛍の話を聞きました。安藤君という同級生のお母さんが「このあたりいったいに蛍が飛び交います」と言って、指差したのは、安藤君の家の前に広がる水田でした。安藤君の家は山のすそに建つ農家で、大きな広い土間がありました。蛍の話を聞いたのはその土間でした。
少し小高いところにある安藤君の家の土間から、那古船形駅にかけて広がる田んぼが見渡せました。その頃は、田んぼの中に一筋の道が走っているだけで、建物といえば小さな駅舎があるだけだったのです。 「いつでも蛍を見物にいらっしゃい」 と、安藤君のお母さんは言ってくれました。 蛍が飛ぶのは夜です。だから子ども一人では海岸にあった私の家から、山すその安藤君の家にはいけません。で、私の母の手がすいているときに、連れてきてくれるという約束になっていました。釣船屋を開いたばかりの私の家では、お客さんが乗船の前の晩にやってくるので、夜はなかなか母の手があきませんでした。それに蛍の季節は短いのです。2週間あるかないかです。 そんなわけで、あっと言う間に蛍の季節は終わってしまい、とうとう安藤君の家に行く機会は訪れませんでした。そして、それが蛍が飛び交った最後の夏になりました。翌年になると、農薬を使用する農家が増えて、蛍の数は激減してしまい、さらに翌年には蛍は飛ばなかったそうです。
私は田んぼ一面に蛍が飛ぶところを見ることができなかったのが、よほど残念だったのか、安藤君のうちのちょっと暗い土間から、昼の光が降り注ぐ水田を眺めていた時のことをよく記憶していて、蛍の季節になるとぼんやりと思い出します。土間の隅に、麦茶が入ったアルマイトの薬缶があったことがなぜか鮮明なのです。安藤君のうちでは、お父さんは市役所か何かに勤めていて、お母さんが田んぼや畑の世話をしていました。
福住楼で聞くと、最初に書いたとおり、今年は蛍が出るのも少し遅くなっていて、まだ1匹、2匹がすっと飛ぶだけだという話でした。最初の晩は時折、びっくりするくらいの大雨が降り、とても外へ出て蛍を探す気になれませんでした。翌日、女中さんが「国道の橋の上から蛍をご覧になれますよ」と教えてくれたので、玄関に出てみると、御台所の仕事をしている女の人たちが「今夜はずいぶん飛ぶようになった」と話ながら戻ってきたところに出会いました。 「たくさん、飛んでますよ。いっぱい。いっぱい」 そう教えてくれたので、国道にかかった橋の上まで出てみました。国道にはひっきりなしにライトを点した車が通ります。はて、こんなに車が通るところで蛍が見えるのかしらと、首をひねっていると、川岸の茂みで、ぽつんと光るものがありました。蛍だとは信じられず、目の錯覚かもしれないと、その小さな光を凝視しました。最初の小さな光の点が消えてしまってすぐに、やはり小さな点がひとつ、ふらふらと川のほうへ、流れました。それでも、なんだか、まだ、目の錯覚のように思えてなりませんでした。ひとつ小さな光の点が川のほうへふらふらと飛ぶのを、追うようにして、また小さな点がゆるやか弧を描きながら、暗い茂みを飛び立ちました。ようやく、ああ、これが蛍だと、そのはかなげな光を目で追いました。一匹は光始めると、それにつられたように、また一匹が光ります。 光は光を呼び、あちらこちらでぼんやりとした光がすっと柔らかく飛び立ち、実にたよりなげに飛び交うのでした。なんだか、光る綿が風に吹かれているような飛び方で、虫の飛翔の俊敏さとは縁遠い動きでした。
見つけました。書店用文庫目録
2010年06月04日(金)
銀座の教文館で「文庫目録を下さい」とお願いしたところ「すみません。今、書店用のものしかありませんから、これをお持ち下さい」と、もらったのが新潮社の文庫目録です。表紙にしっかり「書店用」と印刷してあります。緑色の紐も最初からついていました。初めてみました。
ゼミの学生が書店で「これは書店用です」と言われたということで、それから学生たちにいろいろ聞いてみました。ネットで直接、それぞれの出版社のHPにアクセスして文庫目録を送ってもらったという学生がいました。どうやら、その手が一番確実に、文庫目録を手に入れやすい方法らしいと解りました。
銀座の教文館のすぐそばにアップルストアーがあります。iPadの発売の日に1,200人もの人が行列を作ったお店で、新聞にも写真が載っていました。美容院で髪を切ってもらった時、通りかかると、お店の中はiPad一色。なかなかの賑わいでした。ゼミの学生の中にも早速にiPadを手に入れた人もいるようです。
キンドルやiPadについて報じる新聞記事を読んでいるうちに、これはOS(基本ソフトウェア)のシェア争いに、旧来のメディアが巻き込まれた、もしくは、飲み込まれたのではないかという考えが湧きました。PCのOSではウィンドウズ優位が絶対に動かないように見えています。キンドルのOSは何を使っているのか知りませんけれども、iPadではアップル社のOSが使われているのでしょう。以前、文字コード問題でいろんな人にお話を聞いた時に、あるPCメーカーの御重役が「市場というものは変化を求めるものなのです。だから、必ずウィンドウズ優位が崩れる時がきます」とおっしゃっていたのを思い出したのです。
一般論としてはその人の言っていたことが理解できたのですが、具体的にウィンドウズの優位が崩れるのはどんな時なのかは想像できませんでした。が、目の前でアップル社のiPadを求める人の行列を見ると、それが1995年にOS「ウィンドウズ95」の発売のときの秋葉原の光景によく似ていたことも手伝って「ああ、これがアップル社の巻き返しなのだ」という気がしてきました。今はそれ以上のことはなんとも言えませんけれども、報道などでは「旧来のメディア対新しいメディア」をいう構図が描かれていますけれども、ほんとうのところはOSの覇権争いなのではないでしょうか?
|
|
|
|
|
|
|
|
|