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中沢けいコラム「豆の葉」
   
 

鳩の羽根

2006年04月30日(日)

 光が丘公園で鳩の羽根を見つけました。というよりも胴体がすっかりなくなって翼だけになった鳩の死体。翼の付け根はなまなましい赤い血が滴っていました。それが緑色の草とコントラストをなしていて、あたりには羽毛がたくさん飛び散っていました。どうも、鳩の死骸をカラスがついばんだあとのようでした。

 その少し前に森の中で、けわしい声でカラスが争っているのも見かけました。何か食べ物を巡る争いのようで、あるいはそこにも鳩の死骸があったのかもしれません。あっちこっちで鳩が死んでいるというニュースを聞きましたし、このHPの管理人の豆蔵さんも鳩の死骸を見つけたようです。

 鳩も生き物ですから、死んでしまうのも珍しくはないのでしょうけれども、人が大勢歩く道のそばに落ちているなんてことはついぞなかったことです。草の上にちった鳩の灰色の羽根は、まだ温かいのではないかと思うくらい、鮮やかな色をしていました。鳩があっちこっちで死んでいるというニュースはほんとうのことらしいのですが、原因はわからないままです。
 地震なんか来なければいいのですが、ちょっと薄気味悪い感じがしています。ま、地震と鳩の死骸はそう簡単には結びつかないのは、理屈ではわかっていても、妙にそんなことを考えてしまいます。

桜前線を

2006年04月29日(土)

 飛行機で青森に飛んで、列車で太平洋沿岸を南下してきました。青森空港周辺にはまだ雪の塊が残っていました。雪の溶けた斜面には黄緑色のふきのとうがたくさん芽を出してしました。

 弘前のりんご畑はまだ冬。りんごの木はようやく雪から開放されたところで、新芽を吹くのが今年は少し遅いようです。連休中におおぜいのひとでが予想される弘前城の桜は濃いピンク色の蕾でした。もうひとおしで開花しそうな感じ。ちょっと暖かくなればたちまち満開でしょう。

 八甲田山の東側の八戸あたりになると、幾らか新芽が芽吹いた木もありましたが、春らしい気配が出てくるのは盛岡を過ぎたあたりからでした。このあたりで、寝てしまったので、花盛りの桜があちらこちらに点在している様子は見逃してしまい、同行者から聞いただけです。

 仙台でももう桜が散り始めていました。松島の瑞巌寺では本堂前の臥龍梅が紅梅、白梅とも満開でした。山門を入ったとたんに甘い梅の香りがあたりに漂っていました。天然記念物の塩釜桜がある塩釜神社に足を伸ばしました。塩釜桜は小型の八重桜ですが、これはまだ蕾。染井吉野の古木や、社殿前の枝垂れ桜や、濃い緋色の緋寒桜などは満開からやや散っているところでした。
 桜の名所で大勢の人が来るというよりも、近所の人がもう桜が咲いた頃だろうと、散歩がてらに立ち寄ったり、勤めに帰りにちょっと大回りをして神社の境内を横切ったりする人の姿が目立ちました。北国の人は花が咲くのがほんとうにうれしそうです。
 もちろん、青いビニールシートを敷いたお花見の家族連れの姿もありました。

 仙台より南はもう桜の季節も過ぎて、新緑の季節へ移って行くところです。

なんかヘン!

2006年04月27日(木)

 耐震誤事件に絡んだ人々が逮捕されました。なんかヘン。自動車教習所で民事、刑事、行政の責任は別個に問われるって習わなかったかしら?で、この事件の場合は民事上の責任と行政上の責任はあきらかにあるとして、刑事の責任は刑法の規定が曖昧なので、なんだかむりやりに別件逮捕して、詐欺罪にしちゃおうって感じです。これってなにかヘン。刑事事件にして行政上の責任をうやむやにしてしまうのでしょうか?どうもこの逮捕ってすっきりしません。

 で、ホリエモンは容疑否認のまま、保釈請求が認められました。こっちもこれまで報道されているところで見る限り、裁判はおおもめになりそうな気配がします。これも刑事責任の規定が曖昧で不明確な事件で、仮に有罪だったとしても、果たして上場取り消しになるような事件なのかどうか?かなり疑問を残したままです。

 なんかヘンついでに、バクダットをアメリカのラムズフェルド国防長官とライス国務長官が電撃訪問しています。メディアに姿をとらせているところをみるとデモンストレーション的な要素が大きいようですが、これもなんかヘン。アメリカもイラクから逃げ出したがっているのでしょうか?手を引くための儀式なのかしら?で、日本の自衛隊はアメリカが手を引くまで付き合わされるはめになるのでしょうか?なんかヘン。

キャミソール

2006年04月26日(水)

 今年はなんだかいつまでも寒くって、キャミソールなんて感じではないというか、うっかり薄着で出歩くとか風邪を引きそうです。キャミソールとタンクトップってどうちがうんだろう?と時々考えるのですが、どうも肩日紐の違いみたいな気がします。服飾事典を調べたわけではありませんが。キャミソールは肩が紐のように細いもの、タンクトップはランニング型のもの。そんんふうに使い分けてはいますが、よく思い出すと例外もたくさんあります。

 最近のファッション雑誌を眺めていると、今年の夏の流行は、1950年代から90年代までの総集編みたいな感じです。というよりも、もう「流行」ってのは古い概念になったんじゃないかと思いたくなるくらい、あらゆるスタイルが出回っているみたいな印象を受けます。こらからは、みんながミニスカートとかみんながキャミソールなんてことは起きないのでしょう。

 私はみんながミニスカート時代に小学生で、ホットパンツなんてのも流行りましたが、みんながタンクトップという時代に大学生になりました。1978年の夏はすごかったなあ。だってものすごく暑くって、それでみんなが(中高年以上は除く)タンクトップだったのですから。タンクトップの大流行。フェミニンなキャミソールはもう少しあとの流行です。流行が多くの人の関心を集めていた時には親のいいつけを守って「流行を追いかけるのは恥だ」って思っていたのですが、このごろは自分の育った時代のセンスに染まって「流行を追いかけるのは楽しい」になってます。でも、それってひと時代前のセンスで(あくまで自分の育った時代)今でもファッションは、はっきり言うと所得格差の表現みたいになりつつあるなあと街を眺めています。そう言ってはみもふたもないのですが、もともと服飾というのはそういう物だったのですから、本来に戻ったのでしょう。

 で、キャミソールなんだけど、これはちょっと高いのが欲しい。高価な品物って、威圧的なところがあって、キャミソールっだと、その威圧的な感じが、まあ、着ている本人を安心させてくれるのです。Tシャツみたいに高いのを買おうか安いのを買おうか迷うことがないです。

Tシャツ

2006年04月24日(月)

 Tシャツっていつ頃から着ていたんだろう?高校生の時にはもう着ていたような気がする。だったら中学生の時も着ていたんじゃないかなとうる覚えの記憶を探ってみても、ぼんやりしている。中学生で着ていたのなら、小学生の時にも着ていただろうと思うと、なぜか、自分ではなくて、自分の子どもたちが着ていたTシャツが浮かんでくる。うちの子どもたちは0歳児からTシャツを愛用していました。赤ちゃんで頭が大きいから、肩にホックのついたTシャツでした。

 いつのまにか当たり前のように生活の中に入ってきたTシャツですが、なんだか今でも納得の行く、これが好きというTシャツは一枚も見つけ出していません。そのせいか、Tシャツを選んでいる場面は幾つも覚えています。新宿駅で道行く人を見ていたら、突然「そうか!Tシャツは襟の開き方でやぼったくもなるし、しゃれた感じにもなるのか」と気付いて、そのまま高野に走りこんでTシャツを見比べたのは7月半ばの暑い日でした。20歳くらいの時。でも、その時はなぜかTシャツを買わずに、こげ茶色の水着を買ってしまいました。
 今までで一番、気に入っていた水着。一度だけ海で着て、その後、あやまってコインランドリーの乾燥機に放りこんだために、ブラのカップ部分が凸凹になってしまった水着です。

 Tシャツって幾ら出すのが妥当なのかも、何度も悩んでいます。10000円?ええっ!という感じで、考え込んでしまったのは24歳か25歳くらいの時。原宿のヨージ・ヤマモトのブッテクでした。1984年くらいかな。まだバブルは始まっていなかったけれども、いったい物の値段ってどうなっているんだろう?ってしきりに考え込むことが多くなった時期だったでした。田舎の高校生で、パルコのCMをテレビで見て「パルコって何?」と不思議に思っていたのですが、実際に東京に出てきて渋谷のパルコに入ってみるとますます「???」になって、ついでに原宿まで覗きに行くようになっていた頃です。Tシャツとは関係ないけど小林麻美のパルコのCMは綺麗だったなあ。

 今でもTシャツはすごっく高いのを買おうか、それともすごく安いのを買おうか迷ってしまいます。値段の安いほうは下限がありますが、高いほうはいったいどうなっているんだってくらいに高いやつがあるなあと、時々、品物よりのプライスカードを見詰めてしまうことがあったりします。

ポロシャツ

2006年04月23日(日)

 ラコステのポロシャツというのが流行っていた時期に自分の服を買う楽しみを覚えました。ブランド物の流行ってそのあたりから一般的になったのじゃないかと思います。それまでブランドっていうと福助の足袋とかグンゼのパンツとか、その程度しかしりませんでした。

 ラコステのポロシャツって、色がたくさんあって、選べるというので、人気でした。夏だからふだんは着られないような色もきられるし。男性がなんだか誇らしげにゴルフウェアを着ていたのも、同じような頃か、それより少し前みたいか、でした。カジュアルウェアからブランド物が流行り出したのです。今、考えてみるとすごくちぐはぐな服装をしていたんだなあって思います。

 ラルフローレンもラコステのポロシャツの延長みたいな感じで、ポロシャツなんかを買っていました。それからシャツ(Yシャツ)。スーツはカルバン・クラインがかっこよいと思ってましたが、新宿の伊勢丹まで行かなくちゃいけないのが、めんどくさくって、池袋西武でラルフローレンのスーツを買ってました。高級ブランドまで行かない、中級ブランドってとこでしょうか?
 女性の職場用の服もA4サイズ以上の書類の入るカバンも探すのがたいへんでした。ほとんど売ってないという状態。ポロシャツってそういう品物が出てくるさきがけみたいに流行り出したような気がします。

銀座の街を行く人

2006年04月22日(土)

 昼を挟んで午後にかけて、気温がぐんぐん上がると初夏のような暑さになるのですが、黒雲がもくもくと湧き上がって真っ白な雨が駆け抜けていったり、狂風が吹きぬけたり、ここのところのお天気が大荒れで、ついでに気まぐれです。で、銀座の石畳の歩道を歩く人の服装もさまざま。レインコートのかわりのスプリングコートを着ているひともいれば、革のジャケットの人もいるしキャミソール一枚で歩いているお嬢さんも見かけました。

 厚手のウールのジャケットのとなりに、早くも麻の上着を着込んだ人もいるそういう銀座の街を半日ばかり歩き回っていました。今は昔のバブル経済が来たばかりのころはデパートに高級ブランドの売り場が出来て、洋服を鍵のかかるショーケースに並べているのを珍しく眺めました。が、ここ十数年で銀座の銀座通り、並木通りで目立つのは高級ブランドの路面店になりました。それから、ビルに間借りしているような店だったミキモトの小間物(いやあ、古い言葉だ。)を売る店が、改装工事を繰り返して大きくて立派な店舗になってしまいました。

 久しぶりにラルフローレンに入ってみると、さらに高級品を扱う店に様変わりしていて、小柄であまり日本語の旨くない店員さんがいました。フィリピンの女優のルビー・モレノに似ている感じ。浅黒い肌のとてもきれいで、目が少しだけとび色でした。幾つかの品物を見せてみらいながら、この人、きっと英語だったら、とても滑らかに喋るんだろうなと想像していました。韓国の漢江の南になる江南の街も銀座みたいに高級ブランドばかりで、しかも、日本と同じようなブランドが並んでいますが、高級品ほどどこの国でも同じなって時代がやってくるのでしょうか?若い、いや、実は年齢がよく解らない女性(二十代後半から30代前半くらいか)が、ふたりの店員にかしずかれて、服を選んでました。ざっと見積もって50万円くらいのお買い物のようでした。

シャンペン

2006年04月20日(木)

 サガンの小説を読んでいるとシャンパンを飲むシーンがたびたび登場します。サガン自身もシャンパンがすきだったようで、飲みすぎてアル中状態になったこともあれば、酔っ払い運転で交通事故をおこしたこともあるようです。
 
 日本ではシャンパンてのは、まずいもんだと思っている人も大勢います。たぶん、それは結婚式で形式的に出されるシャンパンがものすごくまずいスパークリングワインだったころがあったのと関係しているのでしょう。結婚式のお料理が昔にくらべて、すばらしくおししくなっています。レストランでの披露宴というのも珍しくなくなりましたが、一時期、まずいものと言えば結婚式の見た目だけ豪華な食事というのが定説という時期がありました。シャンパンもその頃に「まずい」という濡れ衣を着せられたようです。

今度は7月撤退だって

2006年04月18日(火)

 イラクに派遣されている自衛隊は7月撤退を模索しているというニュースがありました。昨日の共同通信が伝えています。こういうのって、たぶん政府内部だけでなんとかしようとしても、なかなかうまく行かないってとこがあるのではないでしょうか?世論の後押しとか、野党の追及とかそういうものが、力になるってところがあると思います。

 こうも撤退時期が報道されるのに、なかなか実現しないということは、5月にできない撤退は、7月にもできないってことになりはしないだろうかと気がかりになります。少なくとも、こうした小さな報道を見る限り、撤退には3ヶ月くらいの日にちが必要だということがはっきりしてます。これまで、おおよそ3ヶ月おきに部隊の交代が行われてきましたから、次の部隊が出発するのは5月中旬とのことです。政府はイギリス、オーストラリアと共同で撤退しようという考えのようです。そうならざる終えないでしょう。だから放っておいて良いということにはならないのではないでしょうか?

はとが死んでいる

2006年04月17日(月)

 豆蔵さんの日記を見ていたら鳩の死骸の話があった。それからMori君のブログにも鳩の死骸が。こちらは自動車教習所の車に引かれたらしいんだけど、鳩が車にひかれることじたいがヘン。ダッテトベルンダモン。

 テレビのニュースで北海道では雀が大量に死んでいたというニュースがあって、都内でも鳩が死んでいると言っていた。ええとヘンなのは今年は鳩や雀だけではないのです。まず桜。卒業式の前に咲き出して、これは入学式までもたないと思ったのだけれども、持つどころか、まだ花が枝にぽつぽつとある。ゆっくり散って行くと言えば聞こえがいいが、なんだか保存料でも使ったみたいにもっています。

 家の花壇に去年の秋に植えたムスカリが花盛りなのですが、水仙も同時に咲いているし、さつきも咲き出してしまって、順番がめちゃくちゃ。それだけ天候不順ということになるのかもしれません。昨日も今日も寒かったし、東北ではまだ雪が降っているところもあるそうだし、春が来たようなそうでないような、奇妙な陽気。
それにしても鳩はなぜ次々に死んでしまうのだろう?昔むかし、10年くらい前に、家の玄関の前に死んだ鳩が落ちているという椿事があったのを思い出す。鳩の死骸は裏の桜の木の下に埋めたのだけれども、その桜も若い葉の間にまだ花を幾らかつけてます。

はい(英語)

2006年04月16日(日)

伊藤比呂美です。遊びにきました。せっかくはじめたのに書くことがありません。詩かく気にならないし、気楽ーーーに書くなら植物のことしか書きたくないし。

こんなやりとりがあるとおもしろいと思うんですがね。以下参照。

中沢 寝てみたいのは何時代の人ですか? 回答例 平安時代の殿上人/元禄時代の裕福な町人など。で、その理由はなんですか?

伊藤 そりゃーー奈良時代の知識人。景戒から類推するに、なんかよさそうだから。
鎌倉時代の坊さん。意識してセックスしてそうだから。
戦国時代の人。血を知ってるだろうから。江戸時代の遊びなれたさむらいの妾腹の次男坊。誠実そうだから。
中沢さんは? 

中沢 やあ、伊藤さんこんにちは。で、話の続きですがねええとね、私は平安時代の五位くらいのこれから出世しようと思っている若い貴族の坊や。教育のしがいがありそう。すごくまじめに女性との交際を勉強すると思う。宮中でいじめられないために。

伊藤  でも平安時代の男ってなんかペニスがふにゃにゃけていそう。 そんな小説が太宰にあったな。

中沢 室町末期の殿上人。あのねえ、退屈しているくせにいらない教養をたくさんもっていそうだから。若干、退廃しているけど、気位は高いそう。

伊藤 顔が思いうかばないわね。 津島さんのナラ・レポートに出てきたような人かな。

中沢 津島さんのナラ・レポートとちょっと違うなあ。それより秀吉が猿って呼ばれていら頃のお公家さんね。近世だったら、そうねえ、やっぱ回答例に書いたみたいに金持ちの商人 かな。理由は不誠実だけど外聞の悪いことは絶対しないから。

伊藤 てろれんっとした態度でいらつきそう。魚やの勝つぁんなんかならいいな。イキがよくって。さばさばしていて。 こないだ見た映画、なんといったか、幕末太陽伝、そのフランキー堺の役の男 ならやってもいいわん。

中沢 だって伊藤さんがごついのばかり並べるから、てろてろしたのを選びたくなっちゃった。ま、お茶でもどうぞ。

イラクの自衛隊は

2006年04月16日(日)

 イラクの自衛隊はどうしちゃっているのでしょう。3月に撤退準備を開始して、5月には完全撤退なんてニュースも流れていましたが、どうもそうは行かないみたいです。で、どうなっちゃっているんだろう?

 新聞は民主党の小澤さんのニュースばかり。しかも選挙にかつ戦術の話ばかり。で、誰がイラクの自衛隊はどうなっているんだって追及するんでしょうか?こういうのは野党の役割でしょうに。

 最初は1年という期限だったのですよ。それを延長して。次には3月撤退準備説が新聞に小さく書かれて。でも、大方の人は自衛隊がイラクに派遣されていることさえ忘れてます。戦争は出かけて行くよりも帰ってくるほうが難しいのは昔も今も変わりがありません。

 それにしてもどうなっているんでしょう。イラクが民主化されてめでたしめでたしなんてことはありえないのですから、真面目に撤退の時期を考えるべきです。ずるずるといつまでもイラクに自衛隊を派遣しておくべきではありません。

祝 伊藤製作所豆畑支所開設

2006年04月15日(土)

 伊藤比呂美さんのページができました。朗読会がご縁で伊藤さんのページを作ろうということになりました。

 伊藤さんは現在、カルフォルニアにお住まいです。なんの話を書こうかな?植物の話かな、食べ物の話かな。と迷っていました。これからおもしろいお話を書いてくださると思います。

 それにお互いのコラムに入れるように、パスワードも知ってます。さっそく伊藤さんの部屋に遊びに行ってきました。伊藤さんもこちらにお越しになるといいなあと思ってます。伊藤さん、待ってます!

 伊藤比呂美さんは「群像」に長編詩を連載中です。

きょうは焼き鳥

2006年04月14日(金)

 この間、司修さんに連れて行ってもらった神楽坂の小料理屋さんでねぎをおいしく焼いてもらったのですが、その連想で今日は焼き鳥。いや、昨日、たけのこと一緒に煮た鳥が冷蔵庫に残っていたのです。

 このごろ、家には誰もいないという日は珍しくないので鳥を焼いて一杯飲もうと思っていたら、なぜか息子も娘も帰ってきました。で、しょうがないからレバーも焼いて、ついでに牛肉とアスパラとしいたけも焼きました。春のしいたけもなかなかおいしいです。

 子どもの時は焼きしいたけって嫌いだったのに。はしかの時になぜか焼きしいたけが出てきて、泣いちゃいそうになりました。横浜に住んでいたんですが、房総に旅行した親があまりのしいたけの立派さに感激し、さらにその値段の安さに驚いて買ってきたしいたけでした。煮るのがもったいないって理由で焼きしいたけになったのですが「うぇ」という感じでした。子どもの味覚って野菜系の味の濃さは受け付けないのですね。

 そういえばお弁当の昆布巻きはいつもお湯で洗って味を薄めて食べてました。今日も東京は夕方から雨になりました。春の雨でしいたけが育つのですが、南房総では浸水騒ぎがあったほどの豪雨が降ったというニュースを聞いたのは昨日のことです。まるで夏みたいな豪雨だったようです。いったいどうなっちゃっているんでしょうか?

アスパラ、タケコノ、ゴボウ

2006年04月13日(木)

 春のお野菜です。魚といえば刺身か焼き魚が好きだったのですが、この頃、煮た魚も好きになりました。というか、子どもの頃、親と一緒に食べていたものを鮮明に思い出したのです。子どもの時の煮魚は甘辛く煮付けてありましたら、今はお砂糖を控えめ、砂糖のかわりにお酒を少々多めに使った煮魚です。
 ごぼうのささがきも一緒に煮ます。白身魚のほろほろした身を、ごぼうのしゃきしゃきした感じの取り合わせが楽しいです。

 アスパラはホワイトアスパラがおいしいのは言うまでもありませんが、なかなか手に入りませんし、高価です。グリーンアスパラの太いのが好き。アスパラは太いほど柔らかいのです。最初は信じられなかったけど、ほんとうに太いアスパラはやわらかくておいしい。この季節だけ、太いグリーンアスパラを見つけることができます。

 たけのこ。関東でたけのこが出始めるのは4月下旬から5月ですが、2月末から籠島のたけのこが出回ってました(そら豆も)今の九州の大きなたけのこが出ています。今年はまだ皮付きのたけのこを買って自分で茹でる時間がありません。茹でたたけのこを買ってきて、鳥といっしょに薄味に煮て、山椒で食べてます。皮付きのたけこのを買ってきて、自分で茹でたいなあと思いながら。そのほうがおいしいからというよりも、そのほうがおもしろいからという感じ。

 でも、春の野菜って、こうして並べてみると繊維のしゃきしゃき感を楽しむものが多いですね。

成分分析

2006年04月12日(水)

 ネットで成分分析なる奇妙なものを見つけました。名前を打ち込むと成分分析をしてくれるんですが、私の場合、以下のようになりました。

  39%は乙女心で出来ています
  39%は柳の樹皮で出来ています
  9%は気の迷いで出来ています
  9%は濃硫酸で出来ています
  4%は心の壁で出来ています

 柳の樹皮ってなんじゃろ?
 
 ちなみに本名でやってみたら以下のような単純な結果になりました。

  99%は波動で出来ています
  1%は純金で出来ています

 純金はなんとなくうれしいとして、波動って、なんかなあ、どうりで情緒不安定だという気もしますが。
 いったいこういう遊びって誰が考えているんでしょうか?

環八雲

2006年04月11日(火)

 夏になると環状八号線の上には雲ができます。排気ガスなどの影響で、道路の上空に雲ができてしまうようです。環八雲と言うのだそうです。

 東京都庁が新宿に出来る以前には、京王プラザホテルの最上階にあるバー「ポールスター」からこの環八雲を眺めることができました。バーは西の方角に窓が開けています。今では目の前に都庁が、その後ろには新宿パークハイエットホテルが建ってしましましたが、それでも先日、行ってみたら、横田基地の赤々とした光を東京の夜景の中に眺めることができました。都庁やパークハイエットホテルが建つ前は、日暮れ前には環状に延びた雲を眺められました。夏だとバーの開く時刻でもまだ日が暮れていないのです。

 そして、環八沿いに雨が北から南へと移動して行く様子を見ることさえできたのです。白い雨の柱が、移動して行く速度は、どうかすると車が走る40キロとか50キロくらいの速度の時もありました。きっとあの雲の下を走っている車は、すぐそばでは晴れ間も覗いているのも知らずに雨に降られっぱなしでいるんだなあ、なんて思いながら大理石のカウンターに肘をついて雨が通るのを遠く眺めてしました。

環八の50年

2006年04月10日(月)

 50年前に環八の工事に着工したとなると、私なぞは生まれる前ですが、車の走っている道路そのものが珍しかったでしょう。環七はまだ車の少ない時代の設計の影響で、なんだか窮屈な道路になっていますが、環八のほうは、完成が遅れたぶんだけ、横への拡張工事が進んでいるというのか、環七よりも走りやすい道路になっています。それだけ道路沿いに建物が少なかったとも言えるでしょう。

 環八というと思い出すのは、横への拡張工事と立体交差の工事の二つです。自分の記憶でまず鮮明なのが、井荻あたりの拡張工事。それから、谷原の立体交差工事。谷原の立体交差は、娘が子どもの時に「トンネルだ!」と言って喜んでいました。家の周囲にはトンネルらしいトンネルがなかったのです。それから西武線井荻駅わきの踏み切りをまたぐ立体交差の工事。この工事はおおがかりなもので、かなり手前から地下道に入ってJRの荻窪駅の近くの交差点の四面道まで出ます。

 四面道も私が高校生のころに立体交差化の工事をしていました。四面道の近くに井伏鱒二さんが住んでいるんだと聞くのは、ずっとあとのことですが、どのあたりに井伏さんの家があるのかは知らず終いでした。

今は川越街道との交差の工事をしているのを見ながらうちに帰って来ることがよくあります。工事、工事、工事の50年だったのですね。完成したら、環八を自分の車で運転して一周してみようかと思います。それにしても高度経済成長移行に東京に住むようになるということは環八の外側に住むというのと同じ意味だったような気もします。

こんなニュース見つけました。

2006年04月09日(日)

 今の国土交通省、昔の建設省の人から「入省して定年退職するまでに道路が一本完成できたら、その人は幸せな人です」という話を聞いたことがあります。でも、環八はもう完成させる気がないのかと思っていたら、石原都知事になってかなり強引な工事をしたみたいです。以下のようなニュースを見つけました。

「環状8号線、全線開通へ=着工から50年−東京都

 東京都は7日、都市計画道路環状8号線の最後の未開通区間である井荻トンネル(杉並区)−目白通り(練馬区)、川越街道(同)−環8高速下交差点(板橋区)間の計4.4キロが完成し、5月28日から一般開放すると発表した。これにより、1956年の着工から50年を経ての全線開通となる。 
(時事通信) - 4月7日18時1分更新」

 私が生まれた家の前には国道16号線が走ってました。時々天皇陛下が葉山の御用邸にお入りになる時があって、御料車が通過することがありました。環状8号はその16号線よりも内側を走っている道路です。通称「環八」にもいろんな思い出があります。道路小説って書いてみたいなあ。

ぶつぶつ

2006年04月08日(土)

 豆ちゃん、またふっ飛ばしちゃったみたい。ぶつぶつ。ああ、もう。凹んだ。

詩を見失った文学

2006年04月02日(日)

(復旧作業ここまで)
(ほんとうに見失ってしまった。)

   
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