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中沢けいコラム「豆の葉」
   
 

白い藤の花の香り

2005年04月30日(土)

 27日に叔母たちとお墓参りにでかけた時、南房総の館山ではもう藤の花が満開でした。藤は紫と白があります。お寺の駐車場では民家の生垣に蔓を巻きつけた白い藤が花房もたたわにいっぱいの花をつけていました。

 藤は香ります。昔(今でもあるかもしれない)アナイス・アナイスという百合の香りの香水がありましたが、その匂いに似ています。アナイス・アナイスは生の百合よりも幾らか甘く軽く爽やかな香りでした。藤の香りは目に見えない空気の中に、ふわりとしたかたまりを作っていて、不意の鼻先を通り過ぎて行きます。

 叔母が古風な「タブー」という香水を使っていました。「タブー」はある時期、一斉を風靡した香水ですが、今では手に入れるのが難しいそうです。そのオールドファッションの香りに新鮮な藤の匂いが交錯する瞬間があって、春が終わって行くのが惜しいようなひと時でした。

 源氏物語の輝く日の宮のお局は「藤壷」で、そのお庭には藤が植えられていたということになっていますが、やはり春の終わりには、こうしたすばらしい香りが漂ったにちがいありません。

「源氏物語」白石加代子朗読会

2005年04月29日(金)

 浜町の明治座で開かれた白石加代子の「源氏物語」朗読会に行ってきました。連休初日。とても風の気持ちの良い日でした。明治座はいっぱいのお客さん。朗読は途中休憩を挟みますが、四時間以上。舞台は白石加代子のほかは、黒子がひとりいるだけ。

 「源氏物語」の中から須磨、明石の章に末摘花の章とその末摘花との再開を描く「関屋」などで構成された朗読です。源氏物語がどのような物語であるかを大きく骨格からつかめるうまい構成でした。景色や拝見などは色とりどりの扇で表現されていて、物語の進行にしたがって黒子が次々と舞台上の位置を変えてゆきます。またこの扇がまるで落語家の扇子のような様々は小道具の役割を果たします。

 朗読というよりもかなり一人芝居に近い感じでしたが、やはり白石加代子はすごい迫力です。とくに怨霊の声などは女性の声なのに低音の白石さんの声がぴったりでした。で、ここまでは最近の流行語で言うと想定の範囲内。予想外だったのは、外見のみすぼらしさにはまったく無頓着な末摘花のかわいらしい声を出す時のなんともいえない優雅さでした。高い声というだけではく、なんというか、その無頓着で、飢え死にするか凍死するかにもおかまいなしというお姫様のそらおそろしいほどのかわいさが声に出ているのです。

 最後に黒子さんが女性の俳優さんであることがカーテンコールの時にわかり、以外な楽しさを添えていました。連休はDVDを見て過ごします。太平洋プロジェクトさんから教えてもらったフラソワ・オゾンの「8人の女たち」をまず見るつもりです。こちらは白石加代子にも負けない大迫力のフランスの女優さん勢ぞろいという映画です・

スタッフ・ルーム開放

2005年04月29日(金)

 ゴールデンウィークが始まりました。と言ってもまだ真夜中ですが。

 本日から5月5日までスタッフ・ルームをパスワードとIDなしで入室できるようにします。皆様の書き込みをお待ちしています。

 それにしても28日は暖かでしたね。緑色の葉が出た桜の木の下を歩いていると、とても愉快でした。

訃報

2005年04月28日(木)

 パック・イン・ジャーナルの総合プロデゥサー神山啓二さんが23日(土)にお亡くなりになったというご連絡をいただきました。突然のことに驚いています。

 パック・イン・ジャーナルは生放送の番組で4月9日に出演したときも神山さんにお目にかかっています。ご病気とは想像できないお元気なご様子でした。土曜日といえばパック・イン・ジャーナルの放送日です。23日は御加減が悪いとのことで、神山さんはお休みだったそうです。なくなられたのはその晩ということでした。

 この番組は放送終了後の雑談がおもしろ時があって、その時に神山さんの見方や感じ方を伺うのお楽しみでした。神山さんにお目にかかるのが楽しみで、苦手な午前中の放送に出かけるというようなこともあったので、たいへん残念です。まだ実感が湧かず、ご冥福をお祈りすると言う気持ちにもなれていません。

 代々幡斎場のお葬式に伺いました。ご冥福をお祈りします。(4月29日記)

I GO TO金沢八景

2005年04月27日(水)

 叔母や叔父はいまでも京浜急行の金沢八景周辺に住んでいます。京浜富岡と金沢文庫の叔母を誘って、母の(叔母たちから見れば姉)お墓参りに行ってきました。が、連休前で大渋滞。都内の環八が混雑するのは毎度のことで驚きませんが、なんと東名も横浜町田のインター手前から渋滞。そのさきの保土ヶ谷パイパスはまったく動かず、自宅を出てから京浜富岡まで5時間もかかってしまいました。夜なら一時間に道です。27日のことです。

 さらに間抜けなことに富岡の叔母の家を探すのに一時間近くも費やす始末。子どもの時から何度も尋ねている叔母の家ですが、その頃はまだ住宅造成されたばかりで今とは少し景色が違います。三島由紀夫の「午後の曳航」の最後に出てくる富岡の場面は、ちょうど叔母の家が富岡にできた頃を描いています。山が切り崩され、更地が階段状に並んでいる住宅地です。

 山を造成してできた住宅地も40年近くの年月が過ぎると再び樹木が大きく育ち、生い茂り、家々を取り囲むようになっています。生きているものの力はすごいなあと思うのですが、住宅造成地はまた山に戻り始めているのです。もちろん家は新しく建てられたり改築されたりしていますが、それ以上に自然は修復力を発揮しているようです。叔母の家の庭には3匹のヒキガエル、それも巨大なやつが住んでいたり、ハトの雛を3羽も飲み込むほどの大きな蛇がすんでいるという話でした。住宅造成のためにいなくなってしまったと思われた動物や植物がいつのまにか戻ってきてきるようです。

 そんなわけで、子どもの時に見慣れていたはずの景色がすっかりかわり、車で出かけた私は大慌て。叔母は叔母で、私の車が階段状の造成地を上へ行ったり下へ出たりしながら、なかなか家の前にたどりつかないのを、はらはらしながら眺めていたそうです。

 久里浜からフリーで房総の金谷へ。金谷からはできたばかりの東関東自動車道館山線であっと言うまにお寺のある館山まで飛ぶような速さでした。新しくと言ってももう開通して数年になりますが、まだ造成のあとが残る高速道路を走るたびにサルになってような気分がします。だって、そのあたりはサルが木の枝から枝に飛びうつりながら移動する以外に、通るものがいなかった場所ですから。

I COME FROM 横須賀

2005年04月25日(月)

 スタッフ・ルームでキャンデーズと山口百恵が話題になっています。もとはと言えばカラオケでどうしても京浜急行の歌としか思い出せないという山口百恵の歌があるという話題を出したのです。

 それが「I COME FROM 横須賀」です。とのくんの友人さんによると「生まれ育った土地を思い出すという理由で自分の歌った歌の中で一番好きな歌だ」と山口百恵自身がテレビで言っていたそうです。

I COME FROM 横須賀

横須賀から汐入、追浜、金沢八景
 金沢文庫
汐風の中 走ってゆくの
 赤い電車は白い線
駅の名前をソラで言えるの
横須賀マンボ・Tシャツね
   I COME FROM 横須賀
   あなたに会いに来た
   I COME FROM 横須賀
   あなたに会いに来た

文庫をすぎて上大岡、井土ヶ谷
 日の出町 横浜まで
窓を開ければ 緑が飛ぶの
 快速特急 音たてる
扉の近くに陣取りながら
 呪文のようにつぶやくの
   I COME FROM 横須賀
   あなたに会いに来た
   I COME FROM 横須賀
   あなたに会いに来た

横浜から鶴見、川崎、品川
ここまでの道
小さな屋根が 集まっている
歴史のあとも あるけれど
あいにく私は 詳しくないの
 心は走る線路なの
   I COME FROM 横須賀 
   あなたに会いに来た
   I COME FROM 横須賀
   あなたに会いに来た

 この歌はずっと横須賀恵のペンネームを使った山口百恵自身の作詞だと思い込んでいたのですが、調べてみると阿木洋子作詞宇崎竜童作曲でした。すごくべたなメロディであんまりはやらなかったのですが、私は金沢八景の生まれなので「ああ、きっと文庫で特快に乗り換えたんだなあ」なんて思いながら聞いていました。

 と言うわけで4月29日から5月5日までスタッフ・ルームにパスワードとIDなしで入れるようにします。どうぞお遊びに来て下さい。

靖国神社参拝と郵政民営化

2005年04月24日(日)

 小泉政権のアキレス腱は、外交政策にあるようですが、ここまではなんとか切り抜けてきました。これまで郵政民営化と靖国神社参拝を結びつけて考えたことはなかったのですが、ここへ来て「ああ、なるほど」と思うようになりました。

 郵政民営化をするために、どうしても国内の保守派の心情を掴んでおく必要があったのでしょう。その象徴が小泉首相の靖国参拝であったというふうに見えてきました。新聞では郵政民営化は骨抜き法案だと書かれていますし、先週、東京新聞の政治部の記者とお話した時も、ともかく反対したというジェスチャーをとる必要が議員にはあるんだという話でした。裏を返せば本気で反対する気はないということになります。

 しかし、どうもそういう政治部記者の見方にうなずけないところもあるのです。確かに民営化法案は骨抜きですが、骨なんかなくたって、直截に言えば郵政縮小解体法案です。二年前の公社化が民営化で、今度は縮小解体の法案だということは、郵政関係の職場で働いている人には直感的に理解できているのではないでしょうか?だとすればけっこう本気で反対する可能性もまったくないわけではないでしょう。

 私自身は郵政縮小解体は止む終えないと考えています。大きなお金の流れを公共投資型から民間投資型に変えなければ、日本はやってゆけないところまで発展してきたからです。ここの理屈がどのくらいの国民的コンセンサスを得ているのか、新聞やテレビ報道だけではよく解らないところがありますが、しだいしだいに理解はされてきているのではないでしょうか?

 バンドンの日中の首脳会談は対話の再開と促進という結論で終わりました。どちらの首脳も相手を追い詰めなずに振り出しに戻るという形に収まったというところです。いずれの国も国内に解決しなければならない事柄が進行形で存在していることをひしひしと感じさせる会談だったのではないでしょうか。

三色スミレ冬を越える

2005年04月23日(土)

 12月になると三色スミレ、とくに花の小さなタイプの苗が出回ります。春の花を先取りするように花をつけた苗が売られているのですが、なんとなくヘンな感じがしてあまり買う気になれなかったのです。が、花屋さんに聞いてみると冬の間に苗を植えておくと、根ががっちり張るのだそうです。そういう冬を越えた株は、春になるとどんどんと大きくなって、夏の初めまで花を付けるということでした。

 なるほど。なるほど。なるほど。
 物は試しといいますから、試してみました。

 冬を越えた三色スミレは今、伸び盛りでどんどん育っています。蝶々のような花も次々に咲きます。人間の経済活動や芸術の分野もおんなじようなところがあるのかなと妙なことを考えました。親しいよもだちと日本映画の話をしていて、このごろ見ていてすごく楽しい映画が出てきたという話題でおおいに盛り上がりました。「だめだ、だめだ」って言われていた時期は、きっと映画も根を張っていたに違いありません。

ホリエモン勝ったか負けたか

2005年04月20日(水)

 フジテレビとライブドアが和解しました。ホリエモンが勝ったか負けたかで、テレビは賑やかですが、わりに安い買い物をホリエモンはしたのではないでしょうか?

 この騒動の勝敗という点ではフジテレビとライブドアの業務提携を話し合う委員会が機能するか否かで結果が変わって行くでしょう。株の買い取り合戦のような派手なことは起きないでしょうから、あまり大きく報道されることはないかもしれません。しかし、ほんとうの激しい変化は、そうした地道な作業が進むことで起きるのです。いつのまにか、気がつかないうちに、ガラリと変わっていたということになるのです。

 テレビを中心としたメディアのあり方はおそらくこれを境に急激に変化して行くことは間違いありません。
 何が変わるかと言えば、もっとも大きく変化する可能性があるのはコマーシャルの料金でしょう。スポンサーのあり方にも大きな変化が出るに違いありません。付随して視聴率というものの考え方調べ方にも変化が出てくるでしょう。なぜ、そう思うのかと言えば、それはネットの性質がこれまでのメディアと異なるからです。

 ネットは高い検索機能を持っています。また個別の対応を得意とします。さらに、双方向性を持っています。いずれもテレビが苦手として機能です。メディアの中では一番古い活字の世界も、書籍、雑誌の流通が激変期を迎えることになるでしょう。ネットとテレビの結びつきは、視聴者や読者に目に見える形の変化を呼ぶというよりも、その収益を出すシステムの変更を迫るのではないかという予想を私は持っています。

賑やかな仁王様

2005年04月19日(火)

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 韓国の仏石寺に行った時の写真です。日本風に言えば山門にたっていた仁王様ですが、このお寺の仁王様は左右に二人づつ、四人もいました。しかも極彩色。白髪のこの仁王様はなぜか琵琶を弾いて歌を歌っているみたい。ええと、「豆蔵通信」の主の豆蔵君に似ているような似てないような、そんな感じです。

水田三喜男の生家

2005年04月18日(月)

 房総に行ってきました。鴨川市の山へ入ったところにある水田三喜男の生家を見てきました。水田三喜男は1960年代に佐藤内閣の大蔵大臣などを勤めた政治家です。高度成長期の通産、大蔵大臣で、高度成長政策の中心的な人物の一人です。その生家は安政年間に建てられたものだそうです。浦賀沖に黒船が現れたころですが、きっと家を建てている最中には幕府がなくなるとは思っていなかったでしょう。

 房総はもともと酪農が盛んな土地ですが、水田家は日本で最初にホルスタイン種の牛を飼育した家だそうです。ホルスタイン種の牛を飼ったのが水田三喜男のお父さんでした。そのあたりは曾呂村というのですが、江戸時代には毎年5月に「馬捕り」で賑わったといいます。さて「馬捕り」とはなんでしょう?どうも文脈から判断すると馬の市のような気がしますが・・・。

 大きな長屋門の左右には牛のための部屋(牛小屋)がありました。水に乏しい場所で、飲み水は遠くの湧き水を汲み、そのほかの水は母屋の裏にあるため水を使っていた様子です。水をためる四角い池のそばに水神様がまつってありました。なかなか暮らして行くのが容易でない土地です。それほど裕福な家にはみえませんでした。長屋門は客間を持つ家にしては質素なくらいです。しかし、この家は西洋種のホルスタインを飼育する決断をした時にある程度の経済的な基盤を築くことに成功したのでしょう。日本の酪農発祥地と言われる嶺岡牧場のすぐ近くで、嶺岡牧場にもかかわりがあったかもしれません。黒船が来なかったら、水田三喜男も寂しい山里の牛飼い馬飼いの三男坊で生涯を終わったかもしれないと考えてみると、歴史の巡り方は不思議なものだと思いました。

 以前、ここに紹介した仁衛門島の仁衛門屋敷が海の交通を担った人々の元締めのような存在であったとすれば、水田家のほうは、陸の交通に大切な牛や馬などを生産していた人々の元締めみたいな家だったのでしょう。

 房総では田のしろかきが始まっていました。しろかきを終えて新鮮な水が流れ込んだ田では、もう田植えを始めているところもありました。

夢の中のバルタバス

2005年04月16日(土)

 ジンガロ座のバルタバスは想像したよりも小柄な人でした。というより、最初に馬場の外周に登場した時には馬上豊かな人物に見えました。ジンガロ座ではアルゼンチンのクリオロ種という馬を多く使っているそうです。が、バルタバスの乗っていた馬はまた違う種類のようでした。かなり肉付きの良い大型の乗用馬です。外周馬場に登場したバルタバスは、そこで馬を後ずさりさせたのです。これだけでも、かなりな驚きを呼ぶはずなのですが、乗馬の愛好者の少ない日本では、馬が後ずさりが苦手なことを知っている人が少ないので、ちょっと残念でした。それでもバルタバスは馬上豊かに見えました。

 今度、ジンガロ座の公演を見て、私は初めて「馬上豊か」という言葉の意味を知りました。バルタバスは馬から下りてしまうとほんとに小柄です。ところが馬の上にいるときは大柄に見えるのです。馬からエネルギーをもたっらいるようです。さらに、目前で見ている時よりもあとから思い返すほうがもっと大きく思い出されるのです。古典の文章に登場する「馬上豊か」という表現はきっとこんな感じを言うのだろうと思いました。

 バルタバスは公演の中で何頭かの馬の乗り変えて使っていましたが、どの馬ともひとつになっていて、その動きは思い出の中で(と言ってもまだ5日くらいしかたっていませんが)ますます優雅に、ますます量感を持って思い返されるのです。

中国の反日デモ

2005年04月15日(金)

 かなり深刻の様相と呈してきている様子が各種のニュースが伝えています。韓国とは事情が異なるようです。日本の問題でもあるのですが、ここ数年の間に中国国内にたまっていた不満が膨らんでいるのではないでしょうか?中国政府にコントロールされたデモとは思えません。

 パソコンを使う学生だから、それほど貧しい階層ではないという意見を時々耳にします。しかし、パソコンやネットを使う学生の中には、親族一同の期待を背負っている内陸部出身の学生もたくさんいるはずです。そういうことを考えてみました。「愛国無罪」のスローガンの後ろに「革命無罪」が隠れてはいないでしょうか?

 この週末はどういう展開になるのでしょうか?

ジンガロ公演

2005年04月14日(木)

 木場公園にテントを張っているジンガロ座の公演を見てきました。ジンガロ座見たさに本拠地のオーヴェルヴィリエに行きたいなと思っていたので、日本公演を見ることができてとてもラッキーでした。

 ジンガロ座は単なる馬のサーカス、曲馬団ではないと言われます。なぜなら、馬の曲乗りだけではないからです。主催者バルタバスは自在に馬を操り、馬に様々な歩調をとらせることができます。ふつうの曲乗りは、馬を走らせた上で、人が逆立ちをしたり、組体操のような仕草をしたりします。体操にあるあん馬や跳馬の動きもあります。それらは、走る馬の上で人が演技をしているのですが、バルタバスは馬に演技させます。馬場馬術が盛んなフランスならではのジンガロ座だと思いました。

 スローモーションと言ってもいような駆け足。右前足あるいは左前足だけを高く上げるすスペイン並足。並足での後方への移動(バック)斜めに足を交錯させながらの横移動。前足を固定したままの回転。後ろ足だけでリズムを取る動き。次から次へと見たこともない馬の歩様が登場しました。ぜひ馬場馬術に詳しい人の感想を聞きたいものだと思いました。

 しかも、それらの歩様を取らせるためにほとんど手綱を用いないのです。身体の重心の移動と鐙だけで指示を出しています。足まで隠れる衣装を着ていましたから、鐙が見えなかったのですが、ちらりと見えた鐙はこれまで見たこともない変わった鐙でした。日本の履き鐙のような感じで鐙で、西洋馬術の鐙ではありませんでした。
やっぱり、オーヴェルヴィリエに行きたくなってしまいました。

右翼の定義

2005年04月13日(水)

 ご承知のように右翼、左翼はイギリス議会で保守派が右、革新派が左に座席をとったことから起こった名称です。いつの時代にも進歩的な人と保守的な人がいますから、そういう意味では、右翼、左翼という政治的な色分けはなくなるということはないでしょう。

 が、その内実となると時代とともに変化しています。日本で右翼という場合は、共産主義、社会主義の考え方に対しての自由主義、資本主義の考え方をする人々あるいは民族主義的、国家主義的な立場に立つ人をさしてきました。さらには単に暴力団の呼び変えの場合もあります。実際、対暴法で暴力団の看板を出せなくなったので右翼団体を名乗っている組もあると聞いています。

 で、ソビエトが崩壊し、冷戦が終結した時点で、それまでの右翼左翼という分け方にも変化が生じてきています。さらに「進歩」という考え方もかなり疑念をもたれるものになってきました。例えば、科学技術の進歩は果たして人間を幸せにするのだろうか?という疑問が、身近なところに登場することも多くなりました。

 そこで残っているのが、民族主義、国家主義的な右翼という考え方です。しかし民族主義も国家主義ももともとは近代化の流れの中で生まれてきたものですから、おそらく、これからその内容が大きく変わって行くでしょう。

 私は家は川越街道沿いにあります。もう25年もここに住んでいますが、自衛隊の朝霞基地と練馬駐屯地があるので、越してきたばかりのころは休日というと、右翼が軍歌をがんがん流しながら街宣車で走り抜けて行きました。それがいつ頃からか?まったく通らなくなりました。昭和が平成に変わって数年後に、久しぶりに右翼の街宣車が来たと思ったら、なぜか松田聖子のヒットメロディーをがんがん流していました。

 ノ・ムヒョン大統領が来日した時に麹町で出会った右翼の街宣車は韓国語でしきりに「ウリガナラ」を繰り返しえました。日本語の「わが国」ですが、その「ウリガナラ」はいったいどっちの「わが国」なんだと「?」でした。韓国語の演説が全部聞き取れるほど私には語学力がなかったので。

 もしブッシュ大統領が来たら、アメリカ南部なまりの英語で演説したり、プーチン大統領の時はロシア語で、シラク大統領の時はフランス語で街宣なんて右翼が現れたら、自然に民族主義、国家主義も変化したものになって行くに違いありません。それにしても、ライブドアのニッポン放送買収騒動の時も六本木ヒルズを右翼の街宣車が取り囲んだそうですから、金と人が集まっていることは確かです。松田聖子のヒットメロディーを流していた時の右翼はきっと人材不足だったのでしょう。そこにまた人とお金が集まりだしているのです。が、人とお金が集まるほど、本来、保守主義であるはずの右翼も変貌せざるおえない状況が生まれてくるというジレンマを抱えることになりそうです。

20世紀の後姿

2005年04月12日(火)

 夏目漱石はロンドンでヴィクトリア女王の葬列を見送っています。それが漱石の見た19世紀の後姿であったと、何かの本で読んだのを覚えています。

 そんなことを思い出したのは、ひょっとするとあれが私の見た日本の20世紀の後姿であったのかもしれないというデモを思い出したからです。5年くらい前の冬の初めのことでした。法政大学の門を出ようとすると、デモ隊がいました。
 
 デモ隊と言っても7、8人の若者がいるだけです。それで、先頭の若者が「シュプレキコール」と言ってから何事かを唱えると、後ろに続いた数人がまるで小学校の一年生が教科書を読むように同じ文句を唱えます。異様だったのは、この小さな、そして、どうもデモ初心者まるみえの団体のあとを10人ほどの新聞記者がついて歩いていることでした。その後ろには10人くらいの警官が歩いていました。

 デモ隊よりも取材記者と警官の多いへんな行列でしたから、夕闇にまぎれるまで、その行列を見物していました。話に聞くデモというものをやってみようとしているようでした。デモのためのデモです。そうした試みのデモに新聞記者も警察官も付き合っているようでした。

 こうした奇妙なデモが20世紀の後姿に見えてきたのは、先日、朝日新聞の周囲をぐるぐる回っていた右翼が「シュプレキコール」型の街宣をやっていたからです。先頭車両のスピーカーが何事かを叫ぶと、野太い声で後続車両のスピーカーを通して同じ文句を唱和します。あんまり音量が大きすぎて何を言っているのかはわかりませんでしたが、ともかく左翼のデモのやり方にそっくりでした。そして、法政大学の周囲でデモを試みた若者よりもこっちのほうが堂に入っていました。

 街宣車は昔の右翼が使っていたような装甲車型ではなく、選挙の候補者が使っているのにそっくりな白いバンでした。いろんなところから様式を学ぶのですね。ソビエトの崩壊いらい、右翼とか左翼の定義も日々変化していますが、街頭活動の様式にもそうしたものが現れるのかとへんな関心を持ってしまいました。

馬鹿にならない

2005年04月11日(月)

 中国での反日デモが広がっています。第一次天安門事件が1976年、第二次天安門事件が1989年、中国はおよそ10年おきにおおきくゆらいできました。

 昨年、夏ごろから中国内陸部では10万人規模のおおきなデモや暴動が繰り返されています。理由はさまざまです。サッカーの時の観客の反応も含めて、反日デモもそうしたデモや暴動の一部でしょう。

 こうしたことで日本人の中国に対する感情が悪化するのはある程度止む終えないのかもしれませんが、相手方の事情はもっと複雑です。日本も1960年代に反米闘争を含む安保反対闘争でおおきなデモがありました。中国は現在そうした時期にさしかかっているにちがいありません。

 日本人が幾ら反米デモを繰り返しても、アメリカ人はさしたる関心をもたなかったようです。が、中国人が反日デモを繰り返すことで、日本人はかなり感情を悪化させそうです。なにしろ、けなされるのが苦手という国民性がありますから。早くに経済的な豊かさを達成した国の余裕を見せることができるかどうかが試されているのではないでしょうか?

馬鹿

2005年04月10日(日)

 昨日、朝日ニュースターの「パック・イン・ジャーナル」に出演しました。番組の最中に北京での反日デモのニュースが入ってきました。中国の反日デモはアメリカの意図が働いているという田岡説に、いささか面食らっているところに、スタジオまで大きな音が流れ込んで来ました。朝日新聞社を取り囲んだ右翼の街宣車の音でした。こんなにたくさんの街宣車を見たのは初めてです。

 番組が終わってから有楽町へ。出光美術館で長谷川等伯の展覧会を見て、桜田門付近の桜を遠見の見物で楽しみ、それから北海道のアンテナショップへ。出光美術館のあたりはこのごろ、すごく賑やかになりました。

 北海道のアンテナショップで鹿のソーセージを発見。「でもなあ」この間、サクラ鍋を食べたから・・・。お腹の中に馬鹿が発生なんてね!しばし考え込みましたが、結局、買ってみました。鹿の肉もおいしいのを知っていましたから。朝日新聞社の周辺をぐるぐる回っていた右翼の街宣車は有楽町の交通会館前に移動してきて、これから街頭演説に入ろうというところでした。きっとどこかでお昼でも食べていたんじゃないかな?

 

デジカメのお稽古

2005年04月09日(土)

 夜桜は皇居のしだれ桜 昼間のはうちの桜です。
画像をクリックすると大きくなりますので、壁紙に使ってください。


 さっそくデジカメのお稽古してみました。撮ったのはうちの桜です。正確にはうちの裏を流れている川の岸に咲いた桜です。

7日の夕方、都内で散歩がてら津島佑子さんとお花見をしました。靖国神社では読売新聞文化部の皆さんをばったり出会って、待ち合わせをしてもはぐれるのに、こんなことがあるのだねと「ややや」と驚きました。それから千鳥が淵へ。

 千鳥が淵は朝の埼京線の電車の中のような大混雑!で、千鳥が淵をあきらめ、田安門から日本武道館の前をぬけて北の丸公園で小休憩。ここで読売新聞文化部の皆さんとお別れして、皇居の北詰め門の方向へ。ここはしだれ桜が見事でした。

 でも、うちの桜もみごとですよ。ぜんぜん負けていません。この花びらが散って川面に流れるのを見るのも毎年の楽しみです。以上、デジカメ使用のおけいこでした。

昼の暗がり

2005年04月08日(金)

 三信ビルのアーケードは昼でもしっとりと暗くて、賑やかな日比谷の街から足を踏み入れるとほっとしました。それでいてアーケードは宝塚劇場のある通りから日比谷公園のあると通りへ突き抜けているので、前方の光が美しく感じられるのです。

 私は瞳が茶色くて、戸外の光には弱いので、昼の光を一番美しく感じるのは、こうした陰になった場所から戸外を見るときです。まぶしさに悩まされることなく、まぶしい光を見詰めていることができます。

 光は写真にとることができるかもしれませんが、建築物の中にたまった柔らかい翳(かげ)までは写真にとることはできないのではないでしょうか?でもそれは確かにあって、言葉にすることはできます。

日比谷三信ビル

2005年04月07日(木)

 「東京人」で日比谷の三信ビルが取り壊されることを知りました。日比谷シャンテという映画館の向かい側にあるビルです。ここには大韓旅行社が入っているので、時々、旅行の手配に行きました。

 中央通路には様々な装飾があり、階段の手すりには艶の出た木材が使われていて、なかなか堂々としています。19世紀末から20世紀のはじめに建てられて建物は「劇的な空間」に満ちています。ここのエレベーターも装飾い富んだ扉を持っています。

 ビルを管理する会社が取り壊しをホームページで発表したそうで、きっと訪れる人も多いのでしょう。入り口には利用者の迷惑になるので写真撮影ご遠慮下さいの張り紙がありました。三脚なんかつかったおおがかりな撮影をする人がいたんでしょう。

花ヨリサクラ鍋

2005年04月06日(水)

 法政大学のある市谷から飯田橋の外堀の土手の桜もようやく咲きだしました。待ちかねたようなお花見の人がたくさんいます。今年の桜はもうほんとうに思い思いに咲いている感じです。

 さくらを見ているうちに桜鍋を思い出しました。これがほんとうの花より団子?なんてね。森下の桜鍋屋さんを教えてもらいました。遠くからも見える桜の花型のネオンサインのなかに「なべ」の文字(あ、こういうのこそデジカメでとればいいのか)でも建物は木造の古いものを修理して使っています。かなかか気持ちのいい入れ込みの座敷でした。

 さくらはもちろん馬肉。軽くて、あっさりしていて、ついでに低脂肪で。味噌で食べます。東京は下町のほうが食べ物がおいしい気がします。

デジカメの練習しなくっちゃ

2005年04月05日(火)

 ちょっととほほな京都旅行の写真です。ながしろばんりさん、どうもありがとう。ここに写真が載せられるのを知りませんでした。

 デジカメは去年の6月に購入しているのですが、どうも義務感から手に入れたので、使用方法の研究に熱が入りません。ま、ぼちぼち研究してみます。

 昨日の写真で2枚目の自動車はながしろさんのお好みのようですが、その自動車の写っている写真の空が「比叡の荒れ終い」の空です。こんな黒くもからあられがばらばら降ってきます。

 もちろん、お花見というにはまだまだ桜の蕾が固かったのです。で、知積院で長谷川等伯の襖絵を見てきました。26歳でなくなったという等伯の息子久蔵が25歳で書いた桜図は、それはそれは見事なものでした。

「豆蔵君IN京都」

2005年04月04日(月)







 我がホームページの管理人ながしろばんり君改めメルマガ「豆蔵通信」
の豆蔵君と京都に行ってきました。そもそものおこりはある日、ながしろ さんのHP"Equinox" を覗いたところ「先斗町」とありました。 京都・奈良旅行を予定していた私はさっそく「ねえねえ、先斗町ですき焼き食べない」とメール。

 なんでも書いてみるものです。先斗町、ただの駄洒落だったのですが……。(豆蔵)

  すき焼き!すき焼き!でつい忘れました。写真を撮るの。
同行者はこの3月まで図書新聞連載の「アジア映画を見る」の担当者萩原さんです。萩原さんに京都にある大正から昭和初期の建物を教えてもらいました。「1928」ビルは元毎日新聞社。今は若い人たちのギャラリースペースになっています。ああ、また写真をとるのを忘れました。見たい人は三条の「1928」に行ってみて下さい。
明治大学のリバティータワーが建つ前にあった記念館という建物と同じ匂いがしました。

 デジカメを買った! と得意げな中沢さんでしたが、「これ、豆蔵君に渡すから豆蔵君のコンピュータで写真画像、とってくれるよね?」「あの、USBコードとか、パソコンにつなぐ線はお持ちでしょうか」「あ、ないない、そんなのない」「どんなものを撮られたんです?」「全然撮ってないや」「えー」とかなんとか、小生の携帯電話についているカメラで撮ったものなので、なんだかよくわからない写真ですが、申し訳ありません。(豆蔵)

 で翌日の昼は四条大橋のたもとの東華会館。中華料理屋さんです。
ここのエレベーターはもう80年も稼動しているとのこと。また写真撮るのを忘れて眺めてました。お芋の飴煮がおいしかったこと。

 お芋の飴煮はどうしたものか、空気に冷やされるごとに箸の動く軌跡の形に飴が固まっていきます。いわゆる大学芋のようにカチカチになるのではなく、飴がサクサクして、口の中ですっと溶けていく、なんともステキな風味でした。
 京都は祇園、南座界隈にあります。一度味わってみるのも素敵です。
 ごちそうさまでした!

夜桜アロハ

2005年04月02日(土)

 京都でアロハシャツ買いました。アロハシャツはもともとハワイに移住した日系の移民が、長じゅばんなどをハワイの気候に合わせてシャツに仕立て直したものだそうです。だからもとは和柄で。

 数年前に京都で女性の長じゅばんをアロハにしたものを見て「欲しいなあ」って思ってました。麻の葉に唐子のピンク色でした。地の厚い絹でした。

 黒地の桜。お振袖などでよく見る友禅柄のアロハを買いました。絹地だけれども、新しく織った絹です。地紋に亀と椰子の木とパイナップルが入っています。古着よりもずっと安くので、買ってしまいました。

 アロハってなぜか学校をサボりたくなるのです。たぶん10代の頃からの刷り込み現象でしょう。

エイプリル・フール

2005年04月01日(金)

 さっそく、管理人のながしろばんりさんにかつがれてしまいました。何をかつがれたかって?このホームページの中に隠れています。本日だけの限定バージョン。探してみて下さい。

 私はまた誰かがいたずらをしたのかと、朝っぱらからびっくりしてしまいました。それにしても「馬の首占い」とは!どうやって占うのだろう?つまりそういういたずらです。

 桜が咲きましたね。ああ、春になってうれしい。

   
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