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日和山の桜
2012年03月26日(月)
佐伯一麦さんが『それでも三月は、また』(講談社刊)というアンソロジーに「日和山」という短編を書いています。仙台へ行くまえに、その短編を送って下さいました。 「日和山」に別府さんとして登場するのが、今度、私を閖上に案内してくださった方です。佐伯さんは「記録」という意味合いを込めて短編を書いたとしゃってましたが、小説的なフィクションをかけたくないというお気持ちはわかる気がしました。なぜ、そう思うのかは、うまく説明できないのですが。今はまだフィクションをかけるには、時期尚早の感があります。
別府さんのおうちの前の通りを横切ると魚市場、市場の向こうは、赤貝の水揚げ日本一と誇った港でした。地震から津波まで「1時間ほど時間があったんです」とのこと。すでに停電していて、テレビなどは見ることができなかったそうです。で、隣のお寿司屋さんが「逃げましょう」と声をかけてくれなかったら、家にいて地震の後片付けをしていたに違いないとのことでした。一昨年のチリから来た津波の時は避難していても、ちっとも津波が来なかったので、今度もそうなるかもしれないと思っていたというお話でした。
2010年2月のチリから来た津波がなかったら、もう早めの避難で助かった人もいただろうと、青森でも1月にその感想を聞きました。 「日和山まで歩きましょう」 というのは佐伯さん。写真はその日和山です。空や海の様子を見て天候を占う日和見のための築山です。高さは海抜10メートルほどでしょうか。津波は日和山の松を超えるほどの高さだったと言います。三々五々、日和山を訪ねる人の姿が見えました。山頂に鎮魂のための木の柱が立っていました。小さなお社があったそうで、今は二柱の木でお社の神様を勧進してありました。
別府さんが地域の子どもたちと一緒に植えた桜の苗も日和山で雨に濡れてました。枯れるかと心配だったとおっしゃるのも道理で、以前は家々に囲まれていた日和山も写真のとおり、更地にぽつりと置かれた御饅頭のような状態になっています。太平洋の風と潮がそのまま吹きつける状態なので、苗木には過酷な環境です。枯れるかと心配だったという苗木は、なんとか今年の冬を越した様子でした。もう少し暖かくなれば緑の芽も伸びてくるでしょう。「20年くらいしたらこの木の下で、ここの子どもたちとお花見をしたいな」という別府さんでした。桜の木はだんだんに大きくなるというものでもなくって、最初の10年くらいは花をつけても頼りなげな若木ですが、17、8年が過ぎた頃に、うゎっと精力的になり、どうどうとした古木の様子に変わります。あれはなんだか不思議な眺めです。何度かそういう若木が古木の雰囲気を漂わせるところを、私は見たことがあります。そのことをお話しました。 時間の積もり方の不思議さを感じさせるのが桜の木です。今は苗木の桜の木の下でみなさんがお花見ができるようになる頃に、日和山から見る景色はどう変わっているのでしょうか。「閖上まで」の写真は日和山から仙台市内の若林区の方向を撮影した写真です。豊かな田畑も、家々もすっかり流され、今は潮を被った湿っぽい土地になっています。この潮を被った土地が、どう蘇るのかに私は興味を持っています。この場合、興味という言葉はあまりそぐわない言葉かもしれませんが、人間の計画する復興プランとはまた別の、自然との共同作業がどう進むのかを、見てみたいのです。
日和山に昭和8年の津波の碑があったことは佐伯一麦さんの「日和山」に記されています。その碑に刻まれた文言を短編「日和山」で読むうちに、私が小学校の頃に教えられた津波の特徴と言うのは、昭和8年の三陸大津波をもとにした知識だったのではないかと、そう疑うようになりました。昭和8年に名取川を遡った津波は、「幸い人畜の被害はなく」済んだのだそうです。平坦な海岸線では、津波は大きくならないと教えれたのは、その時の被害状況によるものだったかもしれないと考えました。震源との関係もあるかと思います。
正直に言って、自分がどうして、潮を被った田畑のその後にこんなに関心を持つのか自分でもわかりません。名取川を津波が遡る映像を見た時からずっと、あの人の手で豊かに耕された田畑は潮を被ってどうなってしまうのだろうと、気になっていたのです。
卒業生のみなさん
2012年03月25日(日)
卒業おめでとうございます。卒業式があるということがこんなに楽しいものだとは知りませんでした。昨年の卒業生のみなさんも、1年遅れではありますが、卒業式の雰囲気を味わってもらえたことと思います。
この1年間はみなさん、それぞれにお考えになることがたくさんあった1年間だったことでしょう。私にとって意外だったのは、言葉を信じる、言葉の力を取り戻そうということを考えたり、感じたりする人が多かったことを発見したことでした。言葉は無力だと、感じてもよい大災害を前にして、多くの人が言葉の力を、改めて信じようとしたことは、意外でしたが、また当然でもあると思いました。 破壊は言葉を必要としません。しかし、何かを作ること、それは災害からの復興であるかもしれませんし、新しいエネルギー生産技術であるかもしれませんし、みなさんおひとりおひとりの生活を作ること、人生を築くこと、それらすべて、何かを作ることのために、人は言葉を必要とします。そのことを多くの人が、実感する場面が多い1年館だったのではないでしょうか。
大学生活の4年間、みなさんにはたくさんの本を読んでもらうようにしました。自分のためにだけ読んでいると思わないでください。みなさんが本を読むのはほかの人のためでもあるのです。言葉はほかの人と、話をする、話を聞くために存在しています。自己と他者を結びつけるため、自己と他者を切り離すため、言葉は存在しています。だからみなさんが多くの本を読んで、ただたんに知識や情報を得るのではなく、ものの感じ方を学んだこと、それぞれに新しいものの感じ方を作り出す方法について考えたことは、みなさんご自身のためだけではなく、この世界を豊かにする人間の共同作業に、みなさんも加わったことを意味しています。 どうぞみなさんで、豊かに暮らせる、豊かな精神を持った時代を作り上げてください。
さようなら。またお会いできる日を楽しみにしています。どうぞお元気で。朗らかにお過ごしください。
閖上まで
2012年03月21日(水)
海への緩やかな坂を車で下り、東仙台自動車道の土盛りを潜ると、津波が押し寄せた跡が残っていました。たいていの場合、写真で見るよりも実際の現場へ行ってみるとスケールが大きいことを実感するのですが、奇妙なことに想像していたよりも「小さい」と感じたのです。「狭い」ではなくって「小さい」です。この感じはなんだろう?とずっと考えていました。あ、あれに似ていると気づいたのは家に帰ってからでした。似ているというのは、引っ越しの時、荷物を運び出したあとの部屋を眺めると、せつなくなるほど部屋が「小さく」感じられることがあります。あれに似ていたのです。そこに広がっているはずの田畑もなければ、家々のない。ただ、潮を被った土地だけが広がっているという眺めでした。佐伯一麦さんが、この道路の土盛りの下あたりに多くの人のご遺体があったと教えてくれました。
東京の地下鉄池袋駅に毎日新聞がヘリコプターから撮影した津波の写真が掲示してあります。新聞協会賞をとった写真で、名取市を津波が一気に襲う瞬間を撮った写真です。津波の第一波は海岸の防風林だった松林を超える高さに達しています。この空撮の写真は連続して津波が押し寄せる様子を撮影しています。改めてその写真を見ると、NHKの中継カメラマンが「ああ」と小さく叫んだ沖合の第二波第三波を撮影した写真もありました。津波は引き波が怖いと聞いていましたが、どうも閖上に案内してくださった方のお話だと、引き波はとくに印象には残っていないようでした。そのお話と沖合の第二波第三波を撮影して写真を重ねて、考えてみると、波が引く間もなく、次々と巨大な波が押し寄せたのでしょう。
名取川に沿って緩やかな坂道を下ると、閖上のみなとにつきます。このあたりの海岸線はおだやかに褶曲した砂浜なので、川の河口に築港が築かれていました。閖上の集落はみなとの面した集落で、南側は築港、北側には水路があり、東川は名取川という三角形の島になっています。そのあたりの残っているのは、立ち並んでいた家のコンクリートの土台だけ。土台の間にコンクリート舗装の路地がありました。土台の間にむなしく残った路地のコンクリートの細い道のまがりくねり具合を見ると、なんとか辛うじて、そのあたりが、みなとを中心とした集落だったことが想像できました。コンクリートの土台のなかに、お花とお線香をお供えしているおうちが幾件もありました。お花もお線香も雨に打たれ、泥をかぶり土と一緒になりそうな色に染まっていました。あたりは泥に覆われているのです。
写真は日和山から仙台市若林区の方向を撮影したものです。全体を見ると「小さく」感じられるのに、道の曲り具合だけに目を凝らすと、そこに大勢の人が暮らしていた手がかりが広がってくるような感じがします。
名取まで
2012年03月20日(火)
仙台駅で佐伯一麦さんと待ち合わせ。仙台空港行きの電車で名取まで。快速だったので、名取までは一駅でした。
昨年の震災直後、唐突に仙台沿岸部の復興計画が出てきたのを思い出しました。都市の再開発計画に似た感じの復興計画で、高層マンションを建てるというような内容が新聞の一面に載ってました(何新聞だったか忘れていますが)原発事故はまだ進行中で、予断を許さないところがあったのに、たいへん違和感がある復興計画でした。
名取まで電車で走ってみると、仙台から仙台空港までは、新興住宅地になっていました。もともと、都市計画が進んでいたところのようなだという感想を持ちました。
名取駅で、津波の被害を受けられたという佐伯さんのお知り合いと待ち合わせ。 「この道をまっすぐに行くと海岸に出ます」と車を走らせてもらいました。 「仙台東部道路の土盛りの下を潜ると景色が変わりますよ。道路の土盛りで津波が止まってのです」 道はゆっくりとした下り坂。
「3・11 キオクのキロク 市民が撮った3・11大災害 記憶の記録」(NPO法人20世紀アーカイブ仙台)という本を頂戴したのですが、その本に付属した地図を見ているうちに、名取川を遡った津波の映像に衝撃を受けたもうひとつの理由に気付きました。
仙台市宮城野区、若林区、それから名取川を渡って名取市の閖上から仙台空港のあるあたりは、太平洋の波が直接の打ち寄せるなだらかな海岸なのです。リアス式の複雑な海岸線ではありません。リアス式の複雑な海岸線ほど津波の被害を受けやすいというのは、私が小学生の頃に習った知識です。ところが今回の津波は、ゆるやかに褶曲を描く海岸を軒並み、津波が襲っているのでした。最初に見た映像の衝撃もさることながら、自分の驚きのひとつは、なだらかな海岸線を持つ土地がいきなり津波に這い上がられたことにあったのかと、気付きました。海岸へのゆるやかな坂道を下りてもらわなければ、その驚きを意識することはなかったかもしれません。
現在、YouTubeで3月11日のNHKの中継映像が幾つもアップされているのですが、その映像の最後は太平洋へカメラがパーンするところで、ほかの地域の映像に切り替えれていたと記憶しています。太平洋の沖合に第2波第3波が押し寄せているのを撮影したカメラマンが「ああ」と叫ぶ小さな声も入っていました。どういうわけか、現在、YouTubeにアップされている映像は、この海上の映像がありません。想像ですが、海上の映像はあまり衝撃力がないので、カットされているのかもしれません。私が自宅のテレビで見ていても、海は広すぎるので、あまり衝撃力はありませんでした。ただ、カメラマンの小さな叫び声だけが記憶に鮮明に残っています。海へと向かう緩やかな坂、それから津波浸水地域の地図、それにカメラマンの叫び声の三つを重ねて考えてみると、自分の驚きの正体が見えてきたような気がしました。ゆるやかな海岸線を持った平坦な土地に、大津波が直接に這いあがってくる恐ろしさでした。
閖上を案内してくださった方も、津波が来るという危機感はあまりなかったというお話でした、昨年、チリから来た津波の時も、ちゃんと避難したけれども、たいした被害はなかったからとおしゃってました。繰り返し津波に襲われている三陸のリアス式海岸とは、条件がまったく違う場所だったわけです。
あの日もこんな畑や田んぼの真ん中で、もし私が車を運転していて、津波に出会っても、それが津波だとは認識できなかっただろうなと感じたものです。海へのなだらかな下り坂を走りながら、改めて同じことを考えました。へたをしたら。好奇心のために「あの土煙のようなものはなんだろう?」と津波へ向ってハンドルを切ったりしかねないかもしれないとも思いました。
佐伯さんが最初に閖上を訪ねた時には、特別な異臭が漂ていたそうです。もちろん、あたりは瓦礫が散乱した状態だったそうで、むごたらしい記憶のお話も聞きました。今は所有者の撤去を待っている船が、あちらにぽつり、こちらにぽつりと、船底を陸地にさらしているのが目につきました。それから、あちらこちらに集めらた大きな石。たぶん、高価な庭石でしょう。御寺から流れ出したという墓石もひとつの場所に集められていました。
仙台行ってきました。
2012年03月19日(月)
2011年3月11日の東北地方では小雪がちらついていました。テレビの中継映像で小雪がちらつくのを見るたびに、なんだか身体の応えたものでした。だから寒いうちに一度、津波の被害を受けたところを見たいのだけどと、佐伯一麦さんにお話していたのに、1月2月はさまざまな用事に追われっぱなしで、こりゃあ、桜の花の咲くころにした出かけられないかなと半分あきらめてました。ところが、佐伯さんがちゃんとそれを覚えていてくださって、声をかけてくださいました。
17日、仙台に行ってきました。佐伯さんの話では、津波の被害を受けた名取川河口付近はそんなに広くないからと言うことで、半日もあれば見て歩けるよとのこと。私はテレビの中継映像から、平野全体が津波に呑まれたような印象を持っていたので、そこが食い違っていました。改めて中継映像を探して見てみました。その映像の中で「津波は河川を10キロくらい遡ることもあります」という解説が流れていました。それでなんとなく10キロ以上と思い込んでしまったようです。中継映像を見て、改めて驚いたのは津波の速さでした。15分ほごの時間に海岸線から5キロくらいまで津波は到達していました。ものすごい速さですが、記憶のなかでは、これが長時間だったような錯覚が生れてました。
広さとか速さとか、テレビ中継の記憶にはいろいろと錯誤が混じっているようです。
仙台で、震災の時も店を開け続けていたという朝市をちょっとのぞきました。今は山菜の季節。東京ではみかけない山菜もちらほらと。お魚屋さんには「かすべ」もありました。
仙台駅で佐伯一麦さんと待ち合わせ。常磐線で名取まで。常磐線は亘理から浜吉田まではまだ復旧していません。原ノ町から木戸までは福島原発事故のために不通でした。考えてみると、今度の地震の震源域の南側半分くらいは常磐線の線路と平行しています。
電車の中から仮説住宅が見えました。聞いた話だと、仮設住宅も初期のものは、簡略な造作で、あとからできたものの中には建築材料もしっかりしたものがあるとのことでした。私には都市近郊の新興住宅地の中に仮設住宅があることがちょっとしたショックでした。いかにも念願のマイホームと言ったおもむきの誇らしげな様子の住宅と、仮設住宅が混在していた仙台郊外でした。
名取駅から閖上までのことはまた改めて書きます。
思い出すことども
2012年03月14日(水)
3月11日から3月12日にかけては、大よそを記憶しているのですが、そのあとの記憶がひどく曖昧。3月12日の午後、福島第一原発の一号機が爆発した頃までは、だいたい時系列で覚えています。調べたら3号機の爆発は14日の午前中でした。これはネットで映像を見てかなりびっくり。
このあとがどうも時系列の記憶がないのです。近所のお米屋さん電話で、お米と水のペットボトル12本と灯油を一缶注文したのはいつだったか?12日の午後だったか、13日だったか、はっきりしません。電話で注文した時には、もう水のペットボトルは品薄なので店に買いに来てくださいと言われました。買占めをするな、買いだめをするなの大合唱が始まる少し前のことでした。「買占め、買いだめをするな」の大合唱には、私は大立腹!品物がいつころ出回るのかの見通しの情報をちゃんと出してくれれば、誰もいらんものなんか買いません!と激怒してたのを覚えてます。
飯田橋の駅前の交番のところにパトカーが、新見附橋の交差点に消防自動車が停車しているのを見かけたのはいつだったか?3月23日に法政大学へ出かけているので、その時ではないかと思うのですが、はっきりしません。原発事故の影響が出た場合の広報用に待機しているのかなと推測しました。が、これもうっかり表だって言えませんでした。アエラが「東京に放射能が振ってくる」という特集をして、非難されていた時期と重なっていました。いろんな人と話してみると、ネットで情報収取している人と、テレビのニュースだけの人では原発事故についての認識に大きなずれがあるのを感じたのもこの時期でした。
新聞連載の挿絵でお世話になっている画家の宮本恭彦さんの義姉さんが「避難しませんか」とお電話をくださったのもこの前後。東京の水道水から放射性物質が出て乳幼児には飲ませないようにと言われたのが、いつだったか?娘はお風呂に入って、このお湯にも放射性物質が入っているのかしら?と首を傾げていましたが、私も同じことを考えていました。
あと印象的だったのは、地下鉄の駅の売店の売り子さんが週刊誌を並べながえら「なんで、こんな報道ばかりするんだろ」って文句を言っていたことです。週刊誌の表紙は凄惨な津波被害の写真ばかり。「こんなもの並べて売りたくない」と言ってました。3月11日から4月初め頃までの「不安にさせないで」「安心したい」という圧力は相当なものがありました。日常的なマスコミ不信と不安になりたくないという心理がないまぜになっている様子が見てとれました。
学生と話しをしていたら「被災地では中国人による略奪や強姦事件が発生している」と言う話が出てきたのは3月28日でした。話を聞いてみると、流言飛語のパターンに当てはまるので、懐疑的になりました。そういうことがあるのか、ないのかはわからないので、用心するに越したことはないと前置きをしてから、一般的な流言飛語のパターンを説明しておきました。そのパターンによくあてはまる話だったのです。
計画停電の対象になったのは2回。1回目は夕方で、まだ明るかったので、そんなに不便は感じませんでした。2回目は夜。やることがないので、ろうそくをともしてお風呂に入ってました。ただお湯が冷えても追い炊きができないので、風邪をひきました。
東武デパートへセルロイドの石鹸箱を買いに行ったのは、計画停電の始まる前だったかもしれません。明け方に配達された新聞の折り込み広告を見て、どうしてもセルロイドの石鹸箱が欲しくなったのです。というよりも、なんでもない買物に出掛けたくなったのですが。行きの地下鉄はがらがら。すいてました。帰りはぎゅうぎゅう詰。大停電になる恐れがありと、海江田大臣が緊急記者会見をして、それで、みんな、一斉に帰宅を急いだためでした。
桜の花がいっぱい咲いたお堀端の土手を歩いたのは、もう4月になってからかもしれません。いつもなら新入生が大勢いるはずの大学も5月まで開講が延期になり、ただ桜も花が満開になっていました。
冬から春へ
2012年03月12日(月)
ようやく新しいPCに慣れてきました。嬉々として新しい機械が使う人がうらやましくって仕方がありません。
お彼岸までの10日間。三寒四温と言いながら、着実に春めいてくる季節です。いや、太平洋のふちに南北にながく横たわる日本ですから、北の北海道、東北はまだ冬、南の九州は春の気配、さらに下って沖縄では、もう初夏を思わせることも珍しくないという季節がまた廻ってきました。地震、津波、原発事故と打ち続く災害に腰を抜かしていたのは昨年のことです。
例年、3月10日前後は確定申告を終えて、なんとなく神経を使かう細かな仕事から解放される時期で、去年の地震の時も、そんな感じで昼寝をしていました。一般的な事務処理や、さまざまな公的文書などを読む力を私が持っていると、誤解している物書き仲間がいます。怠け者の私がこの言葉を使うのは、ちょっと躊躇しますが、事務処理や公的文書の読み込みは、能力がないので「努力」(この言葉を使うのに、ややためらいが)の産物なのだと、自分でつくづく思います。苦手なことをやったあとには、好きなことをした時には、残らない神経のこわばりが、残るのです。目から額にかけての神経がばりばり言っている感じがします。
このばりばりと取るのが一仕事。3月10日前後からお彼岸あたりまでは、このばりばりをとるための貴重な時間なのですが、これが震災でふっとんだのです。それから1年。ああ、なんだかしんどい気がします。多くの人と共有された緊張が、これからは、個々の人の運命や宿命や使命によって、それぞれに分かれて行くことでしょう。
2011年3月11日。地震の揺れで昼寝から目を覚ました。多くの人が言っているように、揺れは東西方向へ30分ほど続きました。いや、それからも次々と余震が続いてずっと揺れていたのですが、居間へ出てテレビをつけたのが3時30分頃。テレビでは天井が落ちたという九段会館を上空から撮影した映像が流れてました。もちろん大津波警報が出ていることは繰り返し伝えられていましたが、唖然としたのはそのあとです。
仙台の名取川河口付近を津波が遡る様子が中継映像で入ってきました。「川を津波が遡るのは、日本海中部沖地震でも観察されました」と解説が。日本海中部沖地震は娘が生まれたばかりのことでした。産院から自宅に戻って数日後のことで、乳飲み子の娘を抱いて、川を遡上する津波の映像を「恐ろしい」と見ていたのです。そんなことを思い出す閑もなく、NHKの中継画面は陸地を進んできた黒い水の広がりを映し出しました。黒い水の壁がばりばりと大型のビニールハウスを押しつぶし、さらには流されてきた家が、押しつぶされたビニールハウスの上を流れて行きます。
黒い水が進んで行く先には、自動車の走る道路があり、津波の到来に気付いて、陸地側へ曲がろうとして順番を待っている車列がありました。間一髪で陸地側へ曲がることができた車、間に合わずに黒い水のまきこまれた車。この映像の間も、余震で家は揺れていました。が目はテレビにくぎ付け。津波のすさまじさに、東京の沿岸部が液状化していることも、市原で石油コンビナートが火災を起こしていることも、忘れてしまいました。いや、それどころか、息子や娘がどうしているかも、ほとんど気にならない始末。日本海中部沖地震の時に、乳飲み子だった娘はもう28歳ですし、息子も30歳になろうという年ですから、心配してもらうのは、私のほうってことでしょうか。
2011年の暮れに仙台文学館からお招きを受けた時、佐伯一麦さんに「あの名取川のあたりを見に行ってみたいのだけど、いけないかしら」とご相談すると、案内してくださるとの御返事。そいうわけで、今月の17日に仙台へ行ってきます。
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