靖国神社のさくらが咲きました。
2011年03月29日(火)
昨日、東京で桜が咲いたというニュースが出ました。東京の桜の標準になる木は靖国神社にあることが知られていますが、ちょうど通りかかったので、写真を撮影してきました。標準の木じゃなくって、たくさん咲いているやつにしました。
電力不足の影響から、桜の開花中の夜間の照明は中止というこころも多いです。千鳥ヶ淵でも今年は夜間照明はないそうです。ひどいところだと、お花見そのものを自粛して下さいという張り紙が出た公園などもあると聞いています。しかし、外濠はさにあらず。ちゃんと臨時のゴミ捨て場が用意されて、桜見物のお客さんが来ることに備えています。これもぱっちりと撮ってきました。派手などんちゃん騒ぎもいいけど、ほろ酔いくらいで、お散歩をしながら、桜見物もよろしいのではないでしょうか。そぞろ歩きをすれば、思いがけず懐かしい人に出会ったりすることもあるかもしれません。
ちょっと笑ったのは、外濠沿いで、飯田橋の郵便局から逓信病院にかけての再開発工事現場で聞いた女の人の一言。工事用シートのかけられた飯田橋の郵便局を見て「まあ、郵便局まで崩れちゃったの」と息を呑んでました。思わず「違います。違います。再開発の取り壊し工事です」って言いたかったのをぐっと我慢しました。世の中には早とちりな人もいるものです。
地震関連18 皆さんからのおたより
2011年03月29日(火)
地震、原発事故と続いて、どこの被災地もたいへん悲惨な状況です。ここでは私が皆さんからいただいたおたよりから、余り大きなメディアが伝えない忘れられがちな被災地のことや、身近な見聞に基づくことをお伝えしたいと思います。
まず長野。ツイッターで長野の様子をお知らせいただいたところによりますと、長野ではまだまだ春の気配は遠いようです。地震被害の大きかった山間地は雪に埋もれているそうです。被害の大きかった長野県栄村に対する義捐金募集のHPを見つけました。
http://www.pref.nagano.jp/kaikei/kaikei/gienkin.htm
山形の佐藤先生はガソリン不足で、学校へ自転車で通っているとのおたよりをいただいています。自動車がなければ暮らして行けないところがいっぱいあるのですね。早くガソリンが通常通りに出回ることを願ってやみません。雪道や凍った道でお怪我をなさいませんように。春が早くくるといいですねえ。 宮城一関からはハヤサカさんからも御様子をお知らせいただきました。地震から一週間は連絡がとれなかったそうです。電気やガスが復旧したのは10日後。被災したお祖父様は畑のビニールハウスに入って寒さをしのいだとのことでした。どこもどこも、手が回りかねている様子がよくわかります。
皆さん、口をそろえて言われるのは「東北の津波に襲われた地域にくれべたら、これくらいは我慢しないと」です。うちの娘も「会社でもみんなそう言っている」と言ってました。そう思うのはたいへんけっこうですが、そのために身近な被害状況を知らないということも、珍しくないようです。
麹町のインド布を扱っているGAYAさんに寄って、浦安の様子を聞きました。浦安では、砂が徐々に競りあがってきているのだそうです。液状化は地震当日だけでなく、その後もさまざまに変化するのですね。土地が浮き上がっているので、水道管の修理もままならないとのことです。
yuuichi0731さんが浦安の状況を写真にとってくださいました。その一部をご紹介します。液状化は浦安だけではなく、埋め立てで出来ている東京湾沿岸の土地ではかなり広くいろいろな被害が出ていると予想できます。
地震関連17 法政大学関連
2011年03月28日(月)
3月25日に学位記の交付がありました。皆さんの元気な顔を見て、和気藹々のひと時を過ごすことができました。卒業式は中止になりましたが、日本文学科では、卒業式の祝辞、卒業生挨拶、在校生挨拶などの動画を用意したHPを尾谷先生が制作してくれています。詳しくはメーリングリストでお知らせしますので、メールに御注意下さい。
日本武道館での入学式も中止になりました。それにともないが学事日程が変更になっています。詳細は法政大学HPで確認して下さい。今年の授業開始は5月6日になりましたが、それ以前にいろいろ日程がありますので御注意下さい。
大学院は予定どうりの学事日程です。詳しくは法政大学大学院HPで確認して下さい。
80年館中沢研究室はまだぐちゃぐちゃ状態です。3月25日は研究室の復旧よりも、きれいな袴姿の卒業生とお茶を飲むほうを選びました。これから研究室を訪れる学生はどなたでも、歓迎いたしますが、復旧作業を命じられるおそれありと覚悟しておいてください。軍手を用意しました。というか、軍手を買いにいったら20枚198円だったので、しかたなく20枚買いました。
そのほか、例年にない変更が次々と出ていますので、法政大学HPは、繰り返しチェックして下さい。
御卒業おめでとうございます。
2011年03月26日(土)
昨日は学位記の交付で、卒業するみなさんの元気な御顔をみることができました。御卒業おめでとうございます。
皆さんはこれから、狭い学校の中よりもずっと広い世界に出て行かれるのです。世界は広く、そして多様で、さまざまな可能性に満ちています。もちろん困難もあることでしょう。そのことは今年、卒業される皆さんは充分に承知されていることと思います。就職が内定した企業の職場で、地震で被災された家庭で、すでにいろいろな立場から、困難に立ち向かいながら、学位記の受け取りに駆けつけてくれた卒業生とお話をすることもできました。皆さんに、時々、思い出してもらいたことがあります。それは皆さんが直面する困難は、豊かで、多様で、広い世界の一部分、要素のひとつだということです。そして、困難の中には必ず、良きものの種が隠れているということを忘れてもらいたくありません。新しい智恵、美しい魂、それから何を付け加えたらいいのでしょうか?ともかく困難と言うものの中には、必ずよきものの小さな種子が隠れていることだけは、間違いのない事実だと私は信じています。そのよきものの小さな種子を見つけ出すのは、皆さんの目であり、皆さんの耳であり、皆さんの手です。
どのような困難な時にも日月はその運行を止めず、日はまた昇ります。どうぞ、若い皆さんのお力で、良きものの小さな種子を見つけ出し、芽吹かせ、みずみずしい枝葉を持った木に育てあげてください。幸い昨日の東京は暖かで穏やかな日でした。皆様の門出を静かに祝福しているような、春を予感される日でした。ここからはじまる新生活は、大学での学生生活で得た知識や体験に魂を入れるための冒険です。どうぞ、皆様、おひとりおひとりが、心豊かにお過ごしになりますように祈念します。またお会いしましょう。そして、皆様のおもしろい冒険譚をお聞きするのを楽しみにいたしております。
地震関連16 研究室の惨状
2011年03月23日(水)
地震以来、初めて学校へ行ってきました。先生方の中には、すぐに学校へ出られて研究室をすっかり片付けてらっしゃる方もいました。書棚をT字に作って、地震の被害が少なかったという方も。が、おおむね、どこの研究室もめちゃくちゃ。お互いに覗き込んでは「こりゃ、ひどい」と嘆息したあとで、「笑っちゃあいけないけど、これは笑うしかないなあ」と、へんてこりんな具合の研究室を覗いてはみんな、なぜか笑ってました。
日本文学科共同研究室の本も全て棚から落ちたそうです。助手の高橋さんは、ちょうど研究室にいて、机の下に避難して難を免れたとのことでした。共同研究室は昨日はもうきれいに何事のなかったかのように片付いていました。さて、そのお隣は私の部屋。
扉をあけたとたんに、目の前にスピーカーがぶるさがっていました。床はお茶碗やコップが割れた破片が散らばり、散乱したお菓子と混じり合っていました。冷蔵庫は前に進み出ているし、ファックスは棚から転げおちているわ、PCのモニターは仰向けにひっくり返っていました。先生方がかわるがわる覗き込みにきて「わぉ」と驚き、HA・HA・HA・HAと笑ってました。この笑い声はネルソン先生ではありません。みんなで顔を見合わせて笑ってしまいました。
かなりの本が床に落ちていたのは予想通りでしたが、扉から向かって左の棚にあった分厚い辞書類が、右の本棚の下まで飛んでいたのには驚きました。どうやら、本は崩れ落ちたのではなく、棚から飛び出して、遠くまで飛んだようです。「これはどうしょうもないなあ」と私があきれていると、箒と塵取りを持った黒田先生が 「ガラスや瀬戸物の破片だけでも片付けてしまいましょう」 と床を掃いてくださいました。へんな感想ですが、こういうときの行動の素早さって、学校の成績の良い人はちがうなあと、なぜか感心。学問ってのは、整理整頓の別名じゃないかなあと、日文の研究室にいると、考えさせられるときがあります。
で、反省したかと言うと、そんなことはなくって、とりあえず川端康成全集や川上徹太郎全集を棚に戻して、あとはゆっくりやることにしました。
靖国神社では大灯篭が二つとも、損壊していました。大灯篭は、白い覆いで囲われて「危険なので近づかないで下さい」の張り紙がありました。境内の桜のつぼみはふくらみはじめています。注文してあったお皿が届いていると連絡を受けていたので、器の「花田」さんへ。幸い花田さんでは、器が棚から落ちるという被害もほとんどなかったそうです。今年は節電の影響で、千鳥ヶ淵のライトアップは中止とのこと。灯りがなくっちゃ夜桜見物はできません。せめて見事に花が咲いて欲しいと祈るばかりです。
地震関連15 皆さんからのおたより
2011年03月21日(月)
千葉の市原のコスモ石油の火災が20日になってようやく鎮火したとのこと。9日間も燃え続けていたのかと唖然としました。常磐線の被害はひどいようで、水戸駅ではようやく駅の通路が通れるようになったと言うニュースがありました。駅構内と駅ビルはまだ閉鎖されているとのことでした。
山形の佐藤先生から、ガソリンが足りず、被災地へ物資が届けられないというお便りをいただいたのは2日前です。首都圏でもガソリン不足は深刻です。病人や高齢の方の介護をしている人など、どうしても車が必要な人も多く、早くガソリン不足が解消されることを願っています。福島の白川にご実家のあるやさぐれプーさんからも「豆畑の友」の談話室におたよりをいただきました。 はやくガソリンが届いて物資が行き渡るようになることを願ってやみません。東北地方のガソリンの準備はまだ平常の6割とニュースで言っていましたから、いましばらくはガソリンは大事にして、無駄にしないようにしなければならないようです。
舞浜の様子はツイッターで教えていただいたのは、yuuichi0731さんです。地震のとき、舞浜においでだったそうです。東北の被災地の惨状があまりにすさまじいので、つい足元の茨城、千葉、それから東京、埼玉などは、忘れがちというか、自分の足元を見失いがちなので、なるべく、思い出していただくように、したと思っています。
===以下 やさぐれプーさんのおたよりから== (2011年3月20日)
私の実家は県南ですし、被災したといっても瓦や壁が多少落ちたくらいです。断水は一応復旧しましたが、ガソリンがなく母は通勤できずに在宅しております。食糧不足は相変わらずです。県内では放射線量がテロップで放送されているようで、いわきより白河の方が量が多いそうです。風向き等もあるようですが。原発付近の住民の方が中通りに避難をしてきております。原発付近はゴーストタウンのようになっているようです。
正直実家の様子を聴いていると、都心の買いだめ・放射線への過敏な反応は腹立たしいです。本当に必要なところへ回っていないのですから。都心にいる私の同世代のみんなは、しきりと地元に戻りたいと言っています。私も、もし必要ならば将来地元に戻ろうと思い始めています。周りの友人たちのつぶやきを見ていると、買いだめやガソリンを入れるために奔走しているのが、一慨にある年齢層とは言えませんが、自分たちより年上の人々がそうやっているのを見ていると、寂しくなります。 やさぐれプーさん(3月16日のおたより)
私の実家がある福島県白河市は、断水等が発生しておりましたが本日一部復旧したようです。飲料には使えませんが、母は泣いたと言っていました。 ガソリンは底をついて車は出せません。食糧不足もあります。ですが、家族・地元の友人たちは浜通り・宮城・岩手に比べたら…と頑張っております。被災地でありながら、別の被災地の心配をして頑張っています。 原発付近からは、中通りに避難してくる方々が大勢いらっしゃるようです。原発のある大熊町の避難住民を郡山高校や安積高校でも受け入れており、避難場所がいっぱいで、転々としていて、連絡のとれない方々もたくさんいらっしゃいます。
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==以下 yuuichi0731さんのおたより== (ツイッターから 3月20日) 舞浜は報道で言われていたように、道路の液状化現象が著しかったです。舞浜駅北口と首都高舞浜入口に挟まれた歩道は一部は陥没し、一部は泥水が溢れるような状況でした。 舞浜駅は陸橋の上に作られている構造なので無事でした。しかし、浦安市運動公園前の道路や、リゾート第7駐車場は発生時は歩けないレベルで水浸し。ついでに、帰りに通った江戸川区宇喜田町あたりで水道管がダメになったらしく、マンホールから水が溢れていました。
(以下 3月21日) うぅ•••昨日からトータル3時間以上かけて書いていた「TDRの液状化現象の人災の可能性を考える」というレポート間違えてすべて消しちゃいました。また、気力が沸いたら書いて見ます。 (追記中沢 それは残念でした。 要旨としては、舞浜近辺の道路は、地震の前から状態がかなり悪く、その目立って悪かった箇所が、隆起または、陥没したといったところです。 舞浜だけではありませんが、浦安市の一部が、断水しているらしく、東京ディズニーリゾートオフィシャルホテルの一部では、浦安市民に限り浴場を開放しているようです。また、新浦安にあるホテルエミオンでは、使用している井戸水を市民に向け提供している模様
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東京湾沿岸部の倉庫などにも被災しているところが多いようですが、週明けあたりから流通なども、復帰してきそうだという話を聞きました。
地震関連14 法政大学関連
2011年03月21日(月)
3月24日の学位授与式は中止になりました。それにともない各祝賀会も中止になりました。
学位記授与の方法については、法政大学のHPをご覧ください。文学部は3月24日と25日に授与します。私は授与の当日、会場に詰めているようにしますから、今年度卒業生は元気な顔を見せてください。お会いするのを楽しみにしています。
学内への入構制限は続いています。サークルなどで必要なものがある人は手続きをとれば入構できます。詳しいことは法政大学HPをご覧下さい。学校からの連絡は法政大学HPを利用してお知らせしていますが、ネット環境がない人には諸君で連絡をするようにお願いいたします。入学式も現在、検討中です。入学予定者の方も法政大学HPをご覧下さい。
3月22日学校に出講します。いろいろな先生からお話をうかがうにつけ、校舎の損壊は想像以上のようです。また、研究室もぐちゃぐちゃになっている模様。藤村先生は3日がかりで、研究室を一応片付けたとのことでした。が、スチールの書棚が曲がってしまっているというお話。さて、私の研究室はどうなっていることやら。(ふだんからぐちゃぐちゃだし)出講して様子がわかりましたら、ここに書き込むようにします。
中沢ゼミ(昼、夜)今年度卒業生の皆さん。中沢ゼミOBOGが「卒業を祝う会」を企画してくれています。前述のように学校の校舎の損壊などの被害もありますから、4月の末、もしくは5月の連休頃に開こうということでした。こんなときこそ、皆さんとの御縁を大切にしたいものです。詳しいことが決まりましたら、メーリングリストでお知らせしますので、メーリスに注意して下さい。
地震関連13 もろもろ
2011年03月17日(木)
「買占め」をやめろと言われていますが、家族の多い人、子どもを抱えている人、あるいは一人暮らしの人なども、現在の東京近郊の品物の状態では、ある程度、自分の家に必要なものは確保しておかなければ、買たくても買えない状態になっています。それほどスーパーや近所の小売店の棚はからっぽ状態。ガソリンも入手が難しくって、車を使って配達をしている花屋さんの話では、2時間並んで10リットルを手に入れるのがやっとだっととのこと(3月15日の話)かなり逼迫しています。
西武バスのバス停には「市原の製油所火災のため、ガソリンが不足しています。バスの運行を50パーセント削減」の説明書きが張り出されていました(3月15日)お米屋さんは、配達の注文と在庫のお米の精米で働き詰め。くたくたでものも言えないという状態だと話していました。陸上輸送用のトラックがかなりの東北へ回っていること、トラックそのものが被災したこと。各地の製油所が地震で製油できなくなっていること。広域に道路が寸断されていること。それから東京の場合は湾岸部が液状化などの被害を甚大に受けていることなどが重なって、ガソリン、日用品、食料品などが不足しているとのことでした。
ダイエーの売り場の店員さんも商品の補充ができずに困っている様子。棚はがらんとして隙間だらけ。なんでもないとき、ふつうのときに、これだけ商品が飛ぶように売れたら、商売をする人はうれしくって仕方がないだろうなと想像すると、なんだか哀しくなってきました。こんな売れ方をしてもちっともうれしくも楽しくもないでしょう。
製油所はしだいに回復してきているようです。品物も増産体制に入っているとのニュースがぽつぽつ伝わってきます。
山形の佐藤先生からは、日本海側の酒田などから荷物などが陸揚げされて、品物もガソリンも出回りだしていることをお伝えいただきました。原発の事故が深刻になってからは避難してくる人もあるとのことです。埼玉県にも避難してきた人たちがいます。
法政大学の校舎に損壊被害が出たことはすでにお伝えしました。それから学位授与式も中止になりました。入学式も検討中です。学生諸君は法政大学のHPを必ずチェックするようにして下さい。
福島の原発事故は今日3月17日が「山場」だそうです。そうそう、日本ミステリー大賞新人賞を受賞された望月諒子さんの授賞式は今日あるはずだったのですが、残念なことに中止になりました。
予定が全部キャンセルになってほんとうは「閑」なはずなのに、なぜか、気ぜわしいこと。困ったもんだ。
地震関連12 千葉からのおたより2
2011年03月17日(木)
高校のときの友人の宇山君が海浜幕張の様子を知らせてくれました。一昨日いただいていたおたよりです。東京湾の沿岸部はかなりの被害が出ている様子です。浦安市が「激甚災害」の申請をしたのには驚きました。また娘から聞いたところでは、船橋でも、土地の陥没などの被害があるとのこと。海浜幕張でも液状化現象が起きている様子が、宇山君が送ってくれた写真でわかります。写真はあとから豆蔵君に掲載してもらいます。
======以下 宇山君からのおたより=== (2011年3月15日 18時)
今日の海浜幕張駅北口バスロータリーです。 直後はあちこち砂が吹き出すはで、特にバスロータリーは砂が多くて路線バスが進入出来ないほどでした。土曜日は手前の停留所テクノガーデン折り返しで、ロータリー内は工事の車が行き交い土砂の搬出に大わらわでした。
この頃は、吹き出した砂からは潮の香りが! 海砂掘り出しての埋立地ですから砂と吹き出した水も海水に近いのでしょう。 しかし、月曜は砂が乾き砂ぼこり酷く、携帯使うと埃がすごかった!
さて、539は歩道の割れ目、
541は海浜幕張駅北口前、大きく段差ついたのが分かりますか?
542は歩道橋。一番下の段が一番低いステップのはずが…。
千葉ロッテマリーンズの本拠地、千葉マリンスタジアム改めQVCマリンフィールドの周りもヒドイらしいので、プロ野球開幕にも影響しそうです。
宇山@携帯から書くとめんどい
地震関連7 茨城からいただいたおたより
2011年03月15日(火)
水戸の近くにお住まいのTigerさんから以下のようなおたよりをいただきました。(3月15日 正午)
現状をお知らせになりたい方、おたよりを下さい。
脱線したトーマスさんからもおたよりをいただきました。(2011年3月15日 午後5時45分)
===== 以下 Tigrさんのお便り === (2011年3月15日 正午)
震災においては、私の住む那珂市は道路の陥没隆起が多く、車での通行がかなり困難な状況です。瓦の落下、石垣の倒壊はもはや見慣れた光景です。 商店で生活用品を購入するのに長蛇の列ができています。
昨日、仕事で水戸の町まで出ました。那珂川をわたる橋もいくつか大きな段差ができ、通行が不安です。市内の陸橋はいくつか落下しているようです。 偕楽園近辺の陥没、水戸駅南側の市役所近隣の建物倒壊がひどいです。このエリアは元々沼地だったため、地盤がゆるいそうです。 駅の北口方面は一部塀や建物の崩壊が見られます。頭上注意の貼紙があちこちに貼られており、飲食街では炊き出しでお店の在庫を市民に還元する店舗、段ボール一杯の割れた食器や酒瓶の片付けに終われる店舗がある一方、被害の少ない店舗では地震に負けるな! あったかいメニューあります、という貼紙をして営業している店舗もありました。
水戸は水も電気も大多数のエリアで復旧しているようです。一部の温浴施設やスポーツクラブでは一般の方に開放を始めていました。
エリアを問わず住民が困っているのはガソリンです。10リットル手に入るか入らないかのガソリンスタンドに、1キロちかく車が並んでいます。 茨城は車社会で、車がなければどこにも行けませんので、どこの家庭でも確保に苦慮しています。 =======================
===以下脱線したトーマスさんからのおたよりです= (2011年3月15日 午後17時45分)
茨城も、建物の損傷がひどいようです。 工場で火災もありました。 その他、地面に亀裂が入っていたり、液状化や津波の被害もあるそうです。
地震関連10 法政大学の状況
2011年03月15日(火)
法政大学の損壊状況がわかりました。
市ヶ谷キャンパス:55・58年館3階以上、窓ガラスの破損等で使用不可。 511教室、構造上深刻な問題発生で使用不可。学生ホール、構造上の問題発生で使用不可。さったホール、天井照明装置崩落で使用不可。
想像以上の被害が出ているようです。卒業式、学位授与式などの日程については法政大学のHPをご覧下さい。また日程変更の可能性もあるので、HPは繰り返しチェックして下さい。
法政大学HP http://www.hosei.ac.jp/
地震関連9 茨城、千葉以外の地域からのおたより
2011年03月15日(火)
茨城、千葉以外の地域からいただいたおたよりを御紹介します。
山形県には福島県からの避難の人が多くいるとのことです。「地震関連6 ローカルなニュースが取得できるところ」のなか「自動車実情マップ」があります。実際に通行できた道路の情報があります。また川崎のお住まいのハリネズミさんからは仙台に住んでいる御親戚の安否を案じていたところ、なんと! 沖縄の西表島から「無事」の連絡が届いたと言ううれしいおたよりをいただきました。また、法政の尾谷先生は昨晩遅くに仙台を出発し、越後から越中、つまり富山にご家族ともども避難なさったとのことです。尾谷先生のツイートで知りました。
東日本全域で品物の不足がおきている様子です。私の娘は中卸の問屋さんに勤めています。娘から聞いた話ですと、日常用品を扱っている問屋さんの社員は会社に泊まり込みの覚悟で、仕事をして欲しいという激が飛んでいるとのことでした。問屋の皆様、仲卸の皆様、皆様のご経験と智恵で、いろんな品物がちゃんと行き渡るように、がんばってください。皆様の智恵と経験に期待しています。
山形の余目にお住まいの佐藤先生から以下のようなおたよりをいただいています。
======================= 山形・余目の佐藤先生からのおたより (2011年3月15日 正午)
庄内は、ガソリンや灯油が買えなくなりました。 我が店は灯油を売ることができなくなりました。 庄内でも学校には重油が供給されないので、本校はボイラーを停止しています。
東北は穀倉地帯ですので、今年のコメの収穫は激減するはずです。 これから作付する予定の種もみも、今回の津波被害で不足するのでは。 宮城は種苗もたくさん請け負っていますから。 ふくしま情報です。 郡山の友人からふくしま情報です。 原発から60キロの郡山には、のがれてきた被災者が、あさか黎明高校の体育館などに集められているという報道。 山形県のニュースでは、米沢市に沢山のふくしまからの避難者がぞくぞく。 これは、NHK山形の文字放送ニュースです。 山形県では、県が市町村に指示して避難民を受け入れる手配をするということになるようです。
======================= 川崎のハリネズミさんからは以下のようなおたよりをいただきました。ほんとうに良かった! 良かった!
======================= 川崎のハリネズミさんからのおたより (2011年3月15日 午後1時30分)
わたしのほうは、仙台に住んでいる母方の親戚と連絡がとれず、無事が確認できた関東圏在住の親戚一同総出で安否確認やらなんやらをずっとしており、すこしバタバタしておりました。 そしてつい先々日、ひぃおばぁ(西表島在住)のところに、本人から「全員無事」との連絡が入ったそうで、まさかの西表島一番乗りという展開に脱力しつつも、ひとまず安心できました。 それでも、まだ避難所生活が続いているそうで、家もどうなっているかわからないし、なにより夜が辛いとの話なので、心配と不安はぬぐえません。
わたしのほうは全く問題はありません。しいていえば、わたしの部屋の本の山たちがいっせいに雪崩をおこし、ちょっとした惨事になった程度です(苦笑)
地震関連8 千葉からのおたより
2011年03月15日(火)
高校時代の友達、宇山君から千葉の様子を知らせてもらいました。(2011年3月15日 午前11時)
====以下 宇山君からのおたより====== (2011年3月15日 午前11時)
当日は旧丸山町に仕事で滞在中に遭遇しました。自分の周りでは被害らしい被害はありませんでしたが、房日新聞のサイトでは被害状況が掲載されています。
車で帰路、竹岡から上総湊にかけ走行中、海面の異常な低下を確認。湊川が低下した海面に流れ落ちる様には驚きました。
勤務先の海浜幕張周辺は液状化現象であちこち砂が吹き出すは路面ガタガタで、報道で聞くに浦安までの埋立地は場所により被害ヒドイかなと。
地震関連4 もろもろ
2011年03月14日(月)
娘から聞いた話ですが、船橋あたりでは陥没や液状化で、倉庫から品物を出庫できないところがあるそうです。それで物流の滞りがおきているようです。
伊藤比呂美さんは無事に熊本到着。電話でお話をしました。
フランスに住んでいる知人から電話をもらいました。フランスでも大きく報道されている様子です。
近所の米屋さんに買物に行きました。お米の配達などが中心のお店で、買物のお客さんは少ないお店ですが、今日はレジに行列ができていました。20年ほど前の年末の買出しの光景を見るかのようでした。
12日に知人からもらったメールでは。上智大学のイグナチオ教会の十字架が折れて落ちていたとのこと。法政大学の校舎にも被害が出ているようです。
地震の被害が大きかった茨城、千葉、それから東京、神奈川、埼玉などの情報がひどく不足しています。
地震関連3 法政の学生の皆さん、情報収集しています。
2011年03月14日(月)
法政大学の昼ゼミ、夜ゼミ、4年生、大学院生の皆さん。
御無事かどうか確認のメールを出しました。メールが開けない人のためにここに書き込みします。
「みなさん御無事でしょうか? 学校行事については法政大学のHPを注意してみてください。またどなたか学生の被害情報をお持ちでしたらお知らせ下さい。無事な人の私宛に御一報下さい」
今のところ、御返事を下さった皆さんは全員無事です。
地震関連2 そのほかもろもろ
2011年03月14日(月)
法政大学のキャンパスは3月19日まで入構禁止になりました。詳しいことは法政大学のHPでご覧下さい。それから地震に関係した学生、職員の情報を求めています。これについても法政大学のHPで確認して下さい。
米屋さんに灯油とお米とお水を注文した。灯油とお米については問題なし。お水はもう売り切れたとのことだったが、たまたま、午後の入荷があり、都合をつけてもらった。(午後3時40分)
伊藤比呂美さんは今朝無事に成田に到着されたようです。朝早い時間にメールをくれたのですが、あいにく私は寝入ってました。
伊藤さんによると飛行機の中で、被災地へ行くというNGOのお医者さんとご一緒だったとのこと。ただ、こうした人が日本のどの行政機関に連絡をして、どこへいったらよいのか皆目わからないとのことでした。厚生労働省へ連絡をしたら、外務省へと言われ、外務省は、らちがあかない対応だったとのこと。 伊藤さんには総務省へ連絡をしてみてはどうかというメールを出しておきましたが、今のところ、そのあとの連絡はありません。
おそらく、国内、国外のボランティアなどの受付窓口はまだ設置されていない状態なのではないかと思います。もし、もう設置されていることをご存知の方がいましたら、御教示下さい。よろしくお願いします。
茨城県もかなり大きな被害が出ています。ゼミの卒業生がmixiに書き込んでいる様子を見ていると、家はめちゃくちゃだとのことでした。水戸駅も相当な被害が出ているらしい様子。常磐線沿線の被害もかなりだとのことでした。東北の被害が大きいのですが、茨城県のダメージもそうとうなようです。 千葉県の館山では布良で1メートル60センチの津波を記録したけれども、被害はないと、これはツイートをしている私の同級生が教えてくれました。どうもありがとう。被害がなかったこと、ほんとうに安心しました。「でもうちのお墓は崩れてるかも」って娘が言ってました。お墓はそんなに急がなくっても文句は言わないでしょうから、近々に様子を見に行くことにします。 外房の旭町では津波で亡くなった人も10人ほどいる様子です。コスモ石油の火災と津波の被害が千葉で出ているくらいですから茨城の惨状が想像されます。茨城の皆さん、どうぞ、がんばってください。くれぐれもお疲れが積もらないように。まずは御自分のお身体大事でお過ごし下さい。
アマゾンでも被害が出たみたいで、荷物の配達が遅れるという表示がトップページに出ていました。地震で、すっかり自分の本の見本が出る日だということを忘れていましたが、ちょっと前に河出書房新社の小池さんから電話をいただいて、思い出しました。「書評 時評 本の話」は品薄だそうです。もっとも、これは地震とは関係なし。もともと部数が少ないのです。
11日の地震直後に神田から成増の自宅に向けて歩き出し7時間かけて家に帰り着いた娘は、土日をテレビの前でぐったりした顔で過ごしていました。もう大の大人なのですけど、ぐったりしていると、赤ちゃんの頃の幸福が戻ってきているみたいな気になって、二人でおにぎりをつくったり、お茶を入れたりして、のんびり過ごしました。もっともその間も、けっこう余震でがたがた揺れていたのですが、なんだかミスマッチな気分の、長閑な休日でした。今朝は、お弁当を水を持って出勤しました。息子は時々、様子を知るために電話をしてきてくれます。
mixiやHPでお役にたつことがあればお引き受けします。お問い合わせフォームからメールを下さい。
地震関連のお知らせ
2011年03月13日(日)
しばらくここを地震関連のお知らせに使おうと思います。なにか連絡の仲介を求める方はメールを下さい。とくに法政大学の学生諸君、何か御用があれば、お知らせ下さい。
まず、法政大学市ヶ谷キャンパスでも校舎に一部、地震の被害が出ている模様です。詳しいことは、明日(3月14日)に学校から連絡があるとのことでした。様子がわかりましたら、またお知らせします。
仙台のいらっしゃった尾谷先生はご家族ともに御無事だとのことでした。電気は使えるようになったそうですが、水道、ガスなどはまた使えないと昨日お知らせをいただきました。
うれしいお知らせをひとつ。昼ゼミ根本君が東京藝術大学に合格されたとのことです。おめでとう!
卒業文集作成はいささかの遅れが出ていますが、進んでいます。進行については御世話をしてくださっている路川さん、原田さんからのメーリングリストの連絡に注意して下さい。
そのほか、私でお役にたつことがあれば、お役にたちたいと思っています。お問い合わせフォームから御連絡を下さい。
ツイッターを使うことはしばらく控えますので、定期的にmixiの日記、および「豆の葉」を覗いていただければ幸いです。法政大学の学生以外の方でも、お役に立てることがあれば、おちからになりたいと思いますので御連絡をどうぞ。
そういうわけで、伊藤さん、無事に成田御到着をお祈りしています。関東地方はM7くらいの余震が予想されていますのでくれぐれもお気をつけて。
管理人の豆蔵君、そういうわけです。もろもろよろしくお願いします。
北アフリカと中東が気になる
2011年03月05日(土)
今はもう大昔。大学の教室に座っていた頃、東西冷戦をどう解消して行くのかという講義を受けました。そのなかで、ソビエトのテクノクラートをアメリカに留学させて、アメリカの価値感を学ぶだけでなく、幅広く身につけてもらうという政策がありました。1970年代後半のこと。ああ、なんて自信に満ち溢れた政策をとるのだろうと、講義を聴いていました。ベルリンの壁が崩壊するよりも10年も前の話です。ソビエトの崩壊なんてまだ誰も考えていませんでした。明治大学を囲む塀には左翼セクトのたて看板がびっしり並んでいましたし、同級生がセクトの領袖を間違えられて学内でぼこぼこに殴られ、血だらけになるなんていう事件もありました。終戦後の日本の学生もアメリカは留学生として受け入れました。私の身近にもフルブライト留学生だったという人がいました。
江藤淳が本多秋五と「無条件降伏論争」を群像の誌上で始めたのは1978年の5月号もしくは6月号だったと思います。これは群像のバック・ナンバーを調べれば解るのですが、それより、私が新人賞と取ったときの群像なので、そういう記憶をしているのです。「なんだろう、これは?」と首を傾げながらも真剣に読んだものでした。論争は大学の一年生が理解するには複雑過ぎるものでした。
30年後の智恵で江藤淳の主張を簡略に要約するとアメリカが占領政策として持ち込んだ価値感に、縛られすぎていないかというのが主張の骨子になっていたと私は思います。このことについて秋山駿さんとお話したときに「江藤さんはああ言うけれども、アメリカに無理矢理にというより、自分たちでそれがいいと思ったとこもあるんだよ」と言ってました。秋山さんの言うのも事実。江藤さんの指摘と発見も事実だと、私は考えています。折衷的な考えというよりも最初にソビエトのテクノクラートをアメリカに留学させて、価値感を体験体得してもらうというような政策をとるのですから、誘導と自主的な価値の獲とくの両面が現れるのは当然のことでしょう。江藤淳が「無条件降伏論争」に発展する指摘を始めた背景には、第二次世界大戦の経験をどう文学作品化するかというテーマがあったはずですが、これについてはもう少しよく研究してみたいと考えています。そして、「戦争は犯罪か?」という主題の提示があったことはよく記憶しています。
「勝てば官軍」「負ければ賊」と、戦争は勝敗によって優劣が決まり、優劣が決まることによって、正当性は勝ったほうに付与されるというのは、これまでの歴史の中で繰り返されたことです。が、勝ったほうが道徳的に善であり、負けたほうが道徳的な悪であるというようなことはないはずだという主張はなるほどなあと耳を傾けたくなりました。アメリカは戦争に道徳を持ち込んだのだと、これも江藤淳の主張にあったことでした。江藤淳は昭和53年の「無条件降伏論争」以降、アメリカの占領政策の実証的な研究を始めます。江藤淳「閉ざされた言語空間」には占領軍としてのアメリカが日本人の私信を検閲していたことなども資料をもとに描かれてました。考えてみるとアメリカも外国(日本ですが)を占領するのは初めてだったわけで、ずいぶんと慎重な政策をとった様子が「閉ざされた言語空間」から読み取ることができます。おそらくこの占領政策はアメリカが外国へかかわる時のひとつの原型的な経験になっているのでしょう。
北アフリカのチュニジアで起きた民主化運動と政権転覆は、ソーシャルネットワークによる市民革命と当初は報じられてました。当初の報道に接して私が感じたのは「ああ、30年前の江藤淳の指摘」と同じことが北アフリカで進行しているのではないかという疑念でした。単純に「革命は善」「民主化は善」という報道に対する反発も感じました。エジプトに飛び火すると、背景にあるアメリカのネット関連会社の姿がちらりと見えました。このあたりの感じ方は「ツイッター200日」に書いたとおりです。それからリビアの騒乱へ。
リビアは内戦状態へ向かいつつある様子が報道されています。カダフィ大佐は国際刑事裁判所が捜査を始めています。「武器を持たない市民対圧制者と」という構図なら圧制者が「犯罪者」として指弾されることに違和感を感じませんが、リビアの場合はほんとうのところ何が起きているのか、報道だけでは解りません。それから江藤淳の問題提起である「戦争は犯罪なのか」ということにも、それほど明確な答えや、衆知を集めた議論の成熟があるとは思えません。武器を持たない市民を大量に虐殺するのは、犯罪だといわれれば、頷けるところもあるのですが、では原爆を日本へ投下したアメリカはそれを犯罪だと考えているのでしょうか? 東京、名古屋、大阪など主要都市の非戦闘員を空襲で焼死させたのは「犯罪」に問われることはないのでしょうか?朝鮮半島で行われた戦闘については? インドシナ半島に散布された枯葉剤については? 湾岸戦争で使われた劣化ウラン弾は?と連ねて行けばきりがないのです。国際刑事裁判所規定起草に、アメリカは深くかかわりましたが、後に批准を回避しました。政治的に利用されるという理由です。 アメリカが悪いといいたいわけではありません。「戦争に犯罪という構図を持ち込んでよいのか」と疑念があると思っているだけなのです。日本の右翼が主張するような「日本は悪くなかった」と自国の正当化のためにそれを主張するのではなく、価値感の異なった国家が衝突した場合に「負けた国」の弁護ができるような、そういう歴史的経験の感覚を開いて欲しいなあと、そんなことを夢想しています。リビアのような内乱、内戦状態の場合は一方的にどちらかを悪と決めるけることが内政干渉にならないのか? という疑問も持っています。ちょっと短絡的な言い方をすれば、北アフリカから中東で起きていることは、戦後日本で起きたことの、より複雑に発展させながら反復しているように見えているのです。ソーシャルネットワークが出来て、例えば占領軍が私信の検閲を目立たないようにやったという世論操作は、さらにやりやすくなっているのではないでしょうか。しかも、それをやるのが政府というような公的な組織ではなく、クラウド・コンピュターを持っている私企業でも可能だというところが、新しい要素です。企業は国家と違ってインターナショナルな組織、つまりグローバルな組織も作ることができますし、国家のように議会に縛られることもありません。リビアの内戦状態で、カダフィタ大佐が政治的信頼を失ったために「刑事」責任を問われることはあっても、シリコン・バレーの誰かが騒乱を引き起こした責任を問われることは、おそらくありません。江藤淳の「わすれたこと わすれさせられたこと」を読み返してみたくなりましたが、アマゾンの中古では文春文庫で3,500円もの値がついていました。
安宇植さんを偲ぶ会
2011年03月04日(金)
先週の土曜日に安宇植さんを偲ぶ会がありました。スピーチをしろとのことでしたので、ちょっとお話をしました。で、「安宇植さん」と言うべきところをついうっかり「安宇植先生」と呼んでしまう場面が何度かありました。いつか、伊藤さんとのそのことを話し合ったことがあるのですが「文学者は先生という呼称をつかうべきではない」って教育されたのです。私や伊藤さんは。
なぜ「先生」を使うべきではないのかは諸説あります。おもしろい説もあるのですが、それはまたなにか機会があった時に。今回は話を早くするために、いちばんの公式見解を御紹介しておきます。 それは文学ではみんなが対等な立場に立つ必要があるからってことと、文学は人から教えてもらうものではなくって、自分から生み出すものだからだっていう理由だそうです。話が横へ飛びますが鎌倉文学館でやっていた「川端康成と三島由紀夫」展を見に行ったら、「川端は三島に川端さんと呼ぶことを許した〜うんぬん」というような説明があって、思わず「なに言っているんだ!」と怒りすら感じてしまいました。うっかり「先生」なんて呼んだら、どのくらい怒られるか解ったものじゃないってのが、文学者の世界だったのです。三島が川端に出合ったのは昭和20年頃ですが、その頃はもうそういう雰囲気はあったのではないかと推測するのですが、どうでしょうか?
尾崎紅葉の硯友社のような師匠のところに弟子入りするという徒弟の時代は、先輩作家を「先生」と呼ぶのが当たり前で、それが同人誌の時代になると、「先生」と呼ばなくなるという歴史がありそうです。ことに「白樺派」の流れと志賀直哉の流れを汲む人は、絶対に「先生」と呼ばせないという傾向がありました。誰か物好きな人がいたら歴史を調べてもらいたいものです。まあ、そんななので三島が川端に出合った頃には、「先生と呼ぶな」という習慣はもう出来上がっていたのではないかと考えたわけです。
吉行淳之介に初めてあったときも、私の本が出たお祝いに銀座のレンガ屋によんでくれたのですが編集者から「ぜったいに吉行先生と呼んではダメだよ。吉行さんと言いなさい」と耳打ちされて、それでも「吉行さん」とは発音できないので、いかに主語を抜いてしゃべるかで、えらい苦労をしました。きっと伊藤さんも、それに近い経験を持っているので、高校生が私や伊藤さんを「先生」と呼ぶことを止めようかどうか迷ったのだと思います。それから幾星霜。私はこのごろは「先生」とわりに楽に使うようになっています。学校では「先生」でいいやって思っています。文学者が「先生」を使わなくなったのは、徒弟から同人への変化などの歴史がありそうなのですが、それをまったく無視して、偉そうに「先生と呼ぶな」と怒ったエライ・センセを何人も見てきたからというのがひとつの理由です。あと、学校では顔を名前が一致しない「先生」がたくさんいて、この時は「先生」は便利な呼び方です。謙虚な、あるいは、真摯な理由から始った習慣も、その精神が失われて形骸化すると形無しになってしまいます。
この習慣はわりあいに広がっていて、私が勤務する法政大学文学部日文科でも、教員と学生は相互に「さん」と呼び合うという伝統があります。小田切秀雄教室ではそれが徹底されていた様子を聞いています。まあ、でもそういう伝統も意義が見失われると、気安く「さん」付けになる場合もあれば、「ちゃん」になることもあり、形骸化というのは、どこにでも起きる現象のようです。そうは感じていても今でも私は学生に「先生」と呼ばれると小説家として軽んじられているという不快感をちらっと感じたりします。学生にあんまり気難しいことを言ってエライ・エンセになるよりも、自分の不快感を胃薬みたいに飲み込んでしまうほうを選びますが。
安宇植さんは実に闊達な精神の持ち主で、先生と呼ばれることはお嫌いでした。東京の両国の生まれ。お祖父さんの代から両国にお住まいで「江戸っ子の朝鮮人」を自ら任じていました。そういう安宇植さんをうっかり「先生」なんて呼んだら、たいへんご機嫌を損じてしまうのではないかと想像されるのですが、でも口から「安宇植先生」という言葉が飛び出してしまいました。と言うのも、90年代の初め頃から、韓国に政治的イシューに縛られない叙情性を持った作家が次々と現れていることを教えてくださったのは安宇植さんだったからです。知識や情報として教えてくださったという側面もあるのですが、それ以上に、日頃の態度というか、言葉にしては言い難いところで教えていただいたという想いがあります。青森で廃止された連絡船の発着埠頭を黙って歩いたときのことは「偲ぶ会」でもちらりとお話しました。海も青く、空も青く、どちらにも溶け込めずにとぼとぼと歩きました。安宇植さんは海の向こう、空の向こうを眺めながら歩いていたのでした。韓国の女性作家呉貞姫さんと、和やかにお話していた姿も忘れられません。何と言うことのないよもやま話です。沈黙と雑談。そこから教えてもらったことは限りがありません。だから、自然に「先生」と呼びたくなるのです。
ほんとうは故人の御冥福をお祈りしなければならないのが生きる者の役割ですが、私も一度は救急車で運ばれていますから、幽明の境界はもう淡くなったものとして、時々、安宇植先生のまたお散歩のお供をしたいものです。もうきっと「先生」とお呼びしても「うん、先に生きてたからね」と笑ってくださるような気がしてます。「先生」と言う呼び方に、こんなこだわりを持つのも、伊藤さんや私が最後のほうなのかもしれません。そう思いませんか?安先生。
ツイッター200日
2011年03月01日(火)
ツイッターを始めて200日。いや、正確には201日目になった。なかなかおもしろい遊び道具であることは間違いない。個人で持てる小さなラジオ局みたいな感じだし、出入り自由なコミニケーション・サークルを作るのにも向いている。
で、この200日にあったことで、思い出すことを並べてみる。 最初は海上保安庁の尖閣諸島映像流出事件。ツイッターで動画が流されていることを知った。で、たぶんそのあとだと思うけど、ツイッターが不調になって、総務省までが出張ってきたということがあった。ツイッターのようなシステムは一見自由に見えるけれども、情報操作がしやすいことは、ツイッターが登場するずっと以前に話題になっていた。で、システムに異常が出たのはそのためじゃないのかと聞くと、たいていの人は「ツイッターは動作が不安定だから」という答え。確かにふだんでも、キャパシティ・オーバーの「鯨」がよく表示されるので、そうした日常的な不調なのかもしれない。
お次はなんだっけ? あ〜これは何だろう? と思うことが何度かあったが、印象だけ残っていて、事柄は記憶していない。北朝鮮が韓国の島を砲撃した時もちょうどツイッターをいじっていた。その時もなにか「あれ?」と思うような動作があったような、なかったような。
年が明けてから、チュニジアが不安定になっているというニュースがタイムラインに出てきて「あれっ」と思っているうちに、あれよあれよでジャスミン革命だってと、正直な感想としては「これはなんか胡散臭いなあ」というものだった。あまりにもスムーズに行過ぎている。ソーシャルネットワークによる市民革命というのが、なんだか簡単すぎる感じがした。ちょうど映画「フェイスブック」が話題になっていたし。 私の頭に浮かんでいたのは、ちょうど2年前のグーグルによる大学図書館の書籍のテキスト化計画と、それにともなう著作権者の権利問題、それから1年前の電子籍騒動というか、電子末端デバイスの売り出しの騒ぎなどと「流れ」が似ている気がした。最初は「理想とビジネスが肩を組んで」現れる。それから、実際の現場が戸惑いの声をあげたり、ことが理想的には進まないことがわかって、右往左往と言う流れ。あ〜、似ているなあと思っていたら、エジプトでムバラク政権が倒れると、これは素直には行かなくって、すったもんだ。グーグル社が電話回線でネットを利用できるように計らったり、ハッカーグループが登場したりと、なんだか舞台裏がちらりと見えるような、感触もあり。
この件に私が興味を持つのは、私がデビューした年1978年の群像6月号で、江藤淳と本多秋五による「無条件降伏論争」があったからだ。すご〜く大雑把に言えば、占領軍であるアメリカによる言論統制と世論誘導がどのくらい無意識に日本人の言語活動の中に入り込んでいるかを問いかける論争だったわけで。幾つもの文学論争と同じように、この論争も決着はついていないのだが、江藤淳が指摘した側面は、ネットの登場で、さらに進化し、巧妙になり、強行になっているのではないかと考えられるから、どうしても興味を持ってしまう。
反政府運動はエジプトから北アフリカ、中東全域に広がりを見せている。緊張する状態の中で、情報がどう伝わるのかは、ツイッターは、新聞、テレビ、ラジオにはない速度で、その事態を刻々と伝えてくるので、釘付けになってしまう。それにしても、誰が何をたくらんで仕掛けたのかは知らないけれども、北アフリカと中東を巻き込む騒乱状態を「指先の運動」で作り出してしまうなんて、こんな「けしからんことはない」という腹立ちがあった。そうこうするうちにリビアが内戦状態に入る。アラビア半島でも騒乱の気配はくすぶっている。
なぜか、北アフリカと中東について揶揄したツイートが消えた。で、「消えた」とツイートすると元のツイートも戻って表示された。北朝鮮で住民蜂起があったというニュースをツイートしようとすると、これができない。「これができない」とツイートしてみるとフォロワーの人から「雲のみえざる手」という御返事が。なるほどねえと頷くことしきり。記憶している限り、政治的なコメント以外は、あまり理解できないへんな動作はなかったように思える。
これが私のツイッター200日。
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