ゆき
2010年03月30日(火)
ゆきを見ていた。
突然ですが、中沢ゼミの皆さん お花見をします。
2010年03月27日(土)
4月5日お花見。
さしあたり12時(昼の)に815研究室に集合して 場所取りをするということで。
とった場所は815研究室の扉に地図を描いて貼っておくことにします。
参加者は夜ゼミ、昼ゼミ、今年度卒業生、それより前の卒業生、ゼミの居候など来たい人、お暇な人、ゼミに関係があればどなたでも参加して下さい。
雨天決行。
法政大学文学部中沢ゼミの皆様2
2010年03月27日(土)
残念ですけど追いコンは中止になりました。ごめんなさい。卒業生の皆様、学校の近くに起こしのせつは研究室にお立ちより下さい。歓迎します。
法政大学文学部中沢ゼミの皆さま
2010年03月26日(金)
昼ゼミの郡山君が追いコンのために奔走しています。メーリングリストで連絡がとれなない人もいるみたいです。メーリスの連絡が来てない人は、なんとかルートを作って郡山君に連絡を入れて下さい。
学校を卒業する人も学校に残る人も、みなさん御願いします。よろしく御願いします。
卒業文集「うさぎ」をまだとりにきていない4年生は私の研究室に取りに来てください。「うさぎ」に原稿を入れなかった人にも差し上げます。研究室にお越しになる前に私のメールでご一報下さい。
ええと話は変わりますが、飯田橋から市谷の土手の桜は、どうしたわけか、葉と花が一緒に芽を出しています。こんなへんてこりんな咲き方は、今年初めて見ました。これから、だんだん奇妙な咲き方をするようになるのかもしれません。昨日、助手の深野さんもそのことに気づいていることを知りました。
昨日は上総一ノ宮まで行ってきました。一昨日に続いて寒い寒い日でした。が、房総半島北部の北総台地ではすでに田起こしが始まっていました。
寒い一日でした。
2010年03月25日(木)
外堀公園、飯田橋駅前の桜がちらりほらりと咲きました。卒業式というと、必ず花をつけている山桜の老木にいたっては、もう花の脇から葉が広がり始めています。 この老木は樹齢が400年といいますから、徳川家康が江戸の町を切り開く前から、外堀公園のあの場所に育っていることになります。
それなのに、寒い、寒い。朝からの雨降りが、途中で霙まじりになりました。こんなに寒くちゃあ、せっかくの袴の晴れ着もだいなしです。寒いせいで、なんだかくたびれちゃいました。
ところで、桜ですが、もうすぐ桜が咲かなくなるかもしれないという話を聞きました。桜の木は地中の温度が下がったあとで、もう一度あがりだすと花を咲かせるのだそうです。地中の温度が下がらなくなると花が咲かなくなるとのこと。そういえば、沖縄には避寒桜はありますが、本土のような桜はありません。私が生きているうちに桜が咲かない春が来るのかなと、冷たい雨に打たれている桜を見ながらつい考え込んでしまいました。
鎌倉の八幡様の銀杏が強風のために倒れたのはつい先ごろのことですが、外堀公園の桜の老木もばったり倒れてしまうようなことがあるのでしょうか?あんまり寒いのでついつい、そのような悲観的な想像をしてしまうのでした。800年だとか1,000年だとかの樹齢があると言われる鎌倉の八幡様の銀杏も、ただ強風のためにだけ倒れたのか、それとも根っこになにか、これまでと違う異常が起きていたのか、ちょっと気になりました。
美しいものは見られるときに見ておくに限ると、そんな気のする春が寒い空気の向こうに姿を現しています。
法政大学文学部日本文学科の皆さま
2010年03月24日(水)
卒業おめでとうございます。
秋元君が編集を、島田さんが装丁をしてくれた「うさぎ」が完成しています。うさぎ年の皆さまでしたか!「卒業生を励ます会」の終了後、研究室に起こし下さい。「うさぎ」をお渡しします。「うさぎ」に卒論を掲載していない方にもお渡します。秋元君、島田さん、どうもありがとうございます。また、郡山君が卒業生の追い出しコンパ開催に奔走中です。在校生、卒業生の皆さまご協力御願いします。以上、連絡事項でした。
卒業生の皆さま 大学での勉強を自分のためにしたと思わないで下さい。皆さんがなさった勉強は直接、間接を問わず、同じ時代を生きている人々のためになるということを、時々でよいから思い出して下さい。それでは皆さま「いざ、さらば」です。
あ、郡山君にはどうぞご協力を。最後まで「驚愕と恐縮」の中沢ゼミでした。
大阪芸術大学文芸学科の皆さま
2010年03月23日(火)
卒業おめでとうございます。 影山様 謝恩会幹事ごくろうさまでした。謝恩会にいけなくてごめんなさい。どなたか大阪芸術大学の方で、ここを見た人は影山さんによろしくお伝え下さい。 皆さんと勉強した一年間は楽しい一年でした。とくに「ジャガイモの食感が嫌い!」というのはジャガイモ好きの私にはショックでした。 皆さま どうぞお元気でお過ごし下さい。
雪の最上川
2010年03月13日(土)
山形へは、山形新幹線で赤湯に出て赤湯温泉に1泊。翌日は赤湯から新庄まで奥羽本線を行き、新庄で陸羽西線に乗り換えて酒田にでました。陸羽西線は雪の多い最上川沿岸を走っています。写真は列車の中から見た最上川の景色です。
朝、赤湯温泉の旅館を出発する前に、旅館の玄関に楽器ケースが並んでいるのを見かけました。大きさからするとホルンやチューバなどの中型から大型の管楽器が入っているようなケースでした。おや、昨夜は同じ旅館に音楽家が泊まっていたのかしらと思いながら、部屋に戻って出発の支度を整えて、玄関に戻ったときにはもう黒い楽器ケースは消えていました。赤湯温泉では快晴。雪の白さがまぶしい日でした。それが曇り空になったのは新庄です。新庄の駅を出るとすぐに雪が降り出しました。真っ白な銀世界。しかし、最上川は冬でも川くだりの船が出ていると知ってちょっと驚きました。なんでも船の中には炬燵もあって、暖かい船内から雪景色を見ることができるのだそうです。庄内平野まで出るとまたまた良い天気。広い平野のあっちこっちにまだらに雪が残っていました。酒田の駅に佐藤先生が来て下さっていたので、ちょっとびっくりしました。
さて帰りですが、今度は日本海側を新潟まで下って新潟で新幹線をつかまえました。昨日の写真の干した鮭は、新潟の村上のものが有名ですが、その村上の少し前に列車の電圧が切り替えられる場所があり、特急列車の車内がしばらく暗くなったのをもの珍しく感じました。
寒風干しの鮭
2010年03月12日(金)
酒田の魚屋さんの前でみつけました。魚屋さん「売ってください」と御願いしましたが、昨年の暮れに50本ほど干した鮭はどれもみな売約済みだとのことでした。「昨日、最後の1本が売れました」と。 夏頃まで干しておくと身が濃縮されて酒びたしにできるようになるのだそうです。
お雛様のお菓子
2010年03月11日(木)
鶴岡のお菓子屋さんのお雛様のお菓子です。 さくさくした食感で、程よい甘さでした。最初はその大きさに驚きました。売っていたお菓子屋さんはほんとうに小さなお菓子屋さんでした。
山姥と金太郎
2010年03月10日(水)
乳母(うば)と姥(うば)は音が同じなので、時々、乳母は姥だと思っている学生を発見します。でも乳母ってお乳を上げなくちゃいけないのですから若い女の人、丈夫で健康で、一人前以上にお乳が出るという女性じゃなくちゃ乳母にはなれません。でも、写真の土人形は乳母じゃなくって山姥。金太郎のお母さんが赤ちゃんの金太郎にお乳をやっているところです。これも「あいおい工藤美術館」で撮影させてもらいました。土人形は庶民のものですが、いろいろな題材があるところがおもしろいです。若い! 山姥のしたに桃太郎の姿も見えていますし、そのとなりの鉢巻をしている女性は神功皇后です。
八幡太郎義家さん
2010年03月09日(火)
山形の高校の国語の先生、佐藤先生とは時々メールのやりとりをしています。今度、余目の響ホールで山形交響楽団のコンサートがあるのを知らせてくださったのも佐藤先生でした。酒田でもいろいろとお雛様の展示をしているお家を教えてくれました。「酒田雛街道」という催しでお雛様を展示しているとのことでした。 写真のお雛様はお茶屋さんの地主園さんのお雛様。立派な享保雛です。五人囃子ではなくって楽人が並んでいるところが京都のお雛様だなあと思わせます。今でもお茶道具は京都の問屋さんから仕入れているとのことでした。酒田はお米の集散地で、酒田の港から日本海を下った船が瀬戸内海を通って大阪に入ったので、京、大阪との関係が深いのです。 地主園さんでおもしろい御話を聞きました。お武家さん3人が写っている写真の後方に控えているのは、八幡太郎義家、つまり源義家のお人形です。八幡太郎義家は武家の頭領ですから、五月人形なのですけど、地主園さんのお店の人が笑いながら「そのお人形は私に憑りついたんです」とおっしゃっいました。なんでも雛人形を飾り始めた頃、毎晩、夢の中に怖い顔をした男の人が現れて、じっと見詰めていたそうです。それで、まだ表に出していない人形はないかと調べたところ、昭和6年の新聞紙に包まれた八幡太郎義家さんが出てきたという御話でした。義家さんを雛人形を一緒に飾るようになってからは、夢の中に怖い男の人は出てこなくなったそうです。 平安朝末期の源義家は武勇で知られた人物で、それゆえに白河法皇の院に昇殿を許されたのですが中御門右大臣藤原宗忠は日記「中右記」に世の中のひとは義家の院昇殿は甘心できないと言っていると書いています。 源頼朝や足利尊氏も源義家を祖としているので、まだ武家というものが世の中で力を持つ前に、武家の時代の基を作った人物と言えるでしょう。 だから毛むくじゃらの鐘馗様や神武天皇と一緒に並ぶよりは御内裏様の下段に加わりたいとお望みになるのも、もっともなところがあるのです。 なんてちょっとおもしろく地主園さんの御話を聞きました。お武家様の祖と言っても周囲はお公家さんばかりの時代の人ですから、夢の中に現れても乱暴狼藉は働かずに、じっと見詰めるばかりというのが八幡太郎義家さんらしく感じました。なかなか美男子の八幡太郎義家さんです。
狆引き官女様
2010年03月08日(月)
酒田で撮影した写真を見てみると、なぜか肩で腰紐を結った「狆引き官女」さんは写真に収めていませんでした。そのかわりに、腰紐を肩で結った官女さんの掛け軸の絵を撮影していました。昔、京都の二条城に、このようなはかまのつけ方をしたマネキン人形が置いてありました。ずいぶん替わったはかまの付け方なので、覚えていたのです。昨年の夏、二条城に久しぶりに入ったのですけれども、もう肩で腰紐を結った官女さんのマネキンの展示はなくなっていました。 写真は「あいおい工藤美術館」で撮影させてもらいました。もともとは質屋さんだった建物を買い取って美術館にしたとのことでした。大きくて立派なお蔵があり、また天井裏にはたくさんの和服や帯がありました。
鐘馗様が欲しい!
2010年03月07日(日)
酒田でお雛様を見て、それから目黒の雅叙園でお雛様をみました。家は昨年リフォームしてからまだ物がもとへ戻らない状態なので、とてもではないけれどもお雛様を出す余裕がありません。で、酒田で「狆引き官女」なるお雛様を見ました。犬の狆を引いているはかま姿の官女です。調べてみると昭和の初期ごろまでは、ひな壇に添える人形としてずいぶん作られていたようでした。 はかまの紐を肩で結んでいるスタイルが多いようです。どうも、このはかまの紐を肩で結ぶスタイルは幕末の宮中の習慣のようで、それが「狆引き官女」に残っているようです。いったい、この「狆引き官女」はどういう事情でたくさん作られたのでしょうか?
雛人形というわけではありませんが、赤ん坊を抱いている武内宿禰の土人形を見たのも酒田です。こちらは五月人形のようで、神功皇后と一緒に作られたものでした。白ひげの武内宿禰が抱いているのは、神功皇后が生んだ皇子、のちの応神天皇だとのことでした。それに金太郎にお乳をやる山姥の土人形。「金太郎のお父さんは誰なんだろう?」という疑問が、五月人形を飾るころになると、時々、我が家で出ていました。山姥の子なのは熊にまたがってお馬の稽古をする金太郎の御話に出てくるのですが、金太郎の父の話はついぞ聞いたことがありません。さらには、ご存知、桃から生まれた桃太郎。これはお爺さんとお婆さんが大事に育てた男の子です。桃太郎にいたっては父母不在(桃が母か?)。お父さんとお母さんと子どもという組み合わせが五月人形に少ないのをおもしろく感じているうちに、思い出したのが、鐘馗様と神武天皇でした。
鐘馗様と神武天皇は私の弟が持ってました。神をみずらに結い、金色のカラスがとまっている槍を持った神武天皇と髭だらけの鐘馗様を子どものときはおもしろく眺めたものでしたが、この頃はちっとも見かけません。調べてみると、兜と一緒に鐘馗様と神武天皇を飾る習慣は昭和30年代の関東地方でよく見られたものだそうです。鐘馗様は怖い顔をしていますが、その怖い顔が災いして、玄宗皇帝から、せっかく合格した科挙の位は剥奪されてしまった若者だそうです。それを悲観して自殺したのですが、鐘馗様が鐘馗様として長く記憶されるようになるのはその後の出来事のためです。鐘馗様は、病気に罹った玄宗皇帝の夢の中に現れて病魔と闘い、この世では果たせなかった自分の役割を果たす決心をしたことを皇帝に告白。これに驚いた皇帝は鐘馗様は長く祭ることにしたと。現代人の合理主義からすると、理不尽な話ですが、こんな話を調べているうちに、すごく鐘馗様が欲しくなりました。
「鐘馗様が欲しい!」
それにしても五月人形というものは、御家庭の幸福とはずいぶんかけ離れた伝説上の人物たちが、そろいもそろっているものだと、おもしろく感じました。
|