現代の、こちら側の世界には、いろいろなものが等価値にひしめいていて、何をどう選択しようが自由なのである。好きに行動すればいいし、好きに生きればいい。だが、確かにそうであったはずなのに、いつの間にか人は行き詰っている。考えることが山積みになり、何が必要なことで何が余分なことのかも分からなくなって疲れてしまう。この小説の語り手である山崎由実はそんな境涯に深々と陥り、迷ってしまった。彼女はこちら側の世界からふらりと出奔する。「何もかも、申しわけありませんでした」という冒頭の彼女の密やかなつぶやきは彼女だけのものではないように、私には思えた。
由実のたどりついたのは「気配ばかりで、どこか生命感に欠けている」ような町だった。あるいは、「少し過去の時間を呼吸しながら生きている」ような町。自分を消そうとしていた彼女は必然的に、このどこでもない場所に吸い寄せられた。そして、気が付くとある古びた薬屋に住み込みの従業員として置いてもらうことになっていたのだ。薬屋の主人である平山タバサは、この町にふさわしく「生きているのとは遠いような」、静謐でひんやりとした佇まいの、もう若いとは言えない独身男だった。互いの個人的なことには干渉しない。そういう取り決めのもとに、由実とタバサの共同生活が始まる。
この町は、かつて由実が住んでいた世界とは何かが違う。雰囲気だけではない。仕組みが違うのだ。由実にもそれが分かってくる。生活している人それぞれに「役割」が与えられている気がする。人と人のあいだに暗黙の「約束事」がある気がする。人々がそういったことを守り続けてきてこの町が成り立っている。だから、深く考えなくてもいいし、とりあえずの平穏に浸ることは出来る。タバサはそんな町の中でも特別な存在である。彼は医師免許も持ち、出生証明書も死亡診断書も書く。つまり、町のすべての人の生死に立ち会っているらしい。タバサの父も、祖父もそうしてきたという。
そして、代々引き継がれてきた薬屋には、ある因習が存在することを由実は知る。どことも知れぬ外の世界から女を連れてきたかと思うと、その女は店主に娶られ、子を為しては早くに命を落とすというのだ。そういうことが代々続いている。タバサの母親ルリも、同じ運命をたどった。庭にある、どろどろとした底なしのような池のほとりで、ルリは手首を切った。幼かったタバサの目の前で。タバサは由実に向かって普段と変わらず淡々と母の死について語る。由実も、その因習に自分が飲み込まれそうになっていることに気付き始める。
漂ってくる死の匂い。だが、タバサという男は見かけとは程遠い情念の人であった。「ほんとうは、私の代で終わらせてしまおうと思ったんですよ。悲しみを、増やしてしまうことになるだけですから。こんなことは」とタバサは言う。母親の死にタバサは傷ついていた。「過去」を断ち切ることの困難にひとりで立ち向かおうとしていたのだった。ルリに「少し心が似ている」由実の出現は、タバサにとって残酷な色合いを帯びていたのかもしれない。しかし「この世に誰一人、同じ人間はいない」と口にするタバサは力強い。
由実はタバサの葛藤を感じ取っただろう。その上でタバサの子を宿すのである。行く末は分からない。ひとつだけ言えるのは、もう自分を消しにきただけの女ではなくなったということだ。それは希望を得たということではない。そんな生易しい筋書きではない。互いにひたうつような睦み合いが生まれる。タバサはみずからの意志で「過去」につながる池を埋め、由実はやはりみずから自分の「役割」を受け入れる。この交錯が見事に、文章の震えと、行間から伝わる神経のひりつきに接続するのだ。私は、時折滲んでくる凄まじさに息を呑まざるを得なかった。
週刊朝日2009年9月4日号掲載
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