この小説は、日記や電子メールや手紙、新聞に国会議事録などで構成されている。そんな奇抜な作風はこりごりだという読者も少なくないはずだが、この作品に限ってその心配はない。作者の筆先はむしろストレートに伸びてきて、読者の心の奥にある襞に柔らかく触れていく。些細な先入観のせいで、ベースにある物語の厳かさと交わらないのはいかにも惜しい。
「イエメンに鮭を導入し、娯楽としての鮭釣りを紹介する」というとんでもないプロジェクトの発想主である大富豪シャイフ・ムハンマドという人物によって、この小説は支えられている。協力を仰がれた主人公、実直な水産学者であるアルフレッド・ジョーンズ博士(通称フレッド)が科学的見地からして不可能に近いと判断しながら、なおこのプロジェクトを推進しようと決意するにいたったのは、最初こそ英国政府筋の政治的な思惑に圧されてのものであったが、結局はシャイフその人に導き誘われたからである。
シャイフには不思議な魅力があった。静謐さのなかから滲み出てくる威厳、一語一語に込められた人を引き寄せる力。それはまるで古代の預言者の立ち居振る舞いのようだった。初めて会見したそのときから、フレッドはシャイフに魅入られてしまったのだ。彼はみずから進んでシャイフの随行者になった。
シャイフの語る夢は壮大かつ無謀なものだと言ってよい。彼は「釣り師」の背中に、平和と友好への光を見出していた。釣りは、忍耐と寛容を美徳とする精神なしには成り立たない。待ち望むことは信じること、ひいては祈ることにも通じている。そんな娯楽がもし、紛争の続く中東の地で可能になったならば、「さあ、腰を上げて釣りに行こう」と誰かが言うだけで、あらゆる種類の人々が、階級や地位や貧富の差、国籍や政治的信条の違いを超えて、手を携えることになるかもしれない。
これまで学校や病院やモスクをいくら建てたって、何も変わりはしなかった。そんなことをするよりも、不可能に見えるプロジェクトを成功させ、釣りの本質である「信じること」を不毛の地に植えることで、天恵とでもいえるような何事かが起きるのではないか。シャイフは語りかける。「信じる心がなければ、希望はない。信じる心がなければ、愛はない。」信じることがすべての第一歩であり、それなくしてはなにもできない。
ここで、「信じる心」「信じること」が特定の宗教において発見されているのではなく、釣りというスポーツの中で見出されていることに目を向けておきたい。シャイフが見出した精神の理想は、世界中の誰でもが簡単に楽しめる娯楽の中にある。個人的な小さな楽しみの中に世界変革の契機があるなどと、人は考えなくなっている。ましてや、それを現実のプロジェクトによってかたちにしようなどとは思いもよらない。そういう思考回路はもう閉ざされてしまった。
だが、シャイフはそれを断固として進めようというのだ。シャイフには、確かに一種の狂気が宿っていたが、それは気高く、逆らいがたいもののようにフレッドには思えた。自分が住み慣れた世界とはまったく違う感じ方がここに示されている。「数えられるもの、測れるもの、売ったり買ったりできるものしか認めない世界」とはまったく異なった世界観をフレッドは垣間見始めたのである。 私たち読者はフレッドと同じ目線で物語の深みにまで降りていくといい。そうして、フレッドと並んでシャイフの言葉とイエメンの大地に寄り添ってみよう。そこには異なる世界への通路があり、偏狭になりがちな私たちの心を切り開くヒントがある。諷刺の効いた、質の高いエンターティメント作品でもある本書を通じて得るものは、決して小さくはないはずである。
週刊朝日2009年6月12日号掲載
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