表題作の主人公が「お金」の話ばかりする。そういってしまうと、ただ日常のこまごましたことを描いただけのけちくさい作品に思われそうだが、今冬芥川賞に決まったこの小説にはその種の臭いが希薄だ。
日々の出費や予算を一円単位まで事細かに記し、ああでもない、こうでもないと呻吟する姿の描写は極めて具体的で、淡いかなしみと滑稽さを伴って読者の納得を引き寄せる。私たちだって、実際そうやって生きているではないか。
長瀬由紀子は工場で働く派遣社員で、そのほかに友人の経営する店を手伝ったり、内職をしたりして、随分と疲れている。自分の人生の意味を考えたくない。仕事を詰め込むのは、「意味」に立ち向かわずに済むからだ。
だが、彼女はふとしたことから「世界」一周旅行にかかる費用163万円が、工場勤務の年収とほぼ同じであることを知ってしまう。163万円は形のある「意味」を持った。工場での収入には手をつけまい。天啓のように訪れた決心に、彼女は少し元気になる。
大学時代の友人が、彼女を頼ってやってくる。離婚を考えて飛び出してきたからしばらく厄介になりたい。泣きつく友人のそばには恵奈という小さな子供が立っていた。生活の急激な変化で、以前にもまして綿密な胸算用の毎日が始まる。
にもかかわらず、家に声があふれるようになったことを、恵奈と過ごす「無意味」な時間を、何となくうれしく感じる長瀬。そんな風景がすっと入り込んでくる。無駄なことほど重要だというが、そんな一言が腑に落ちることがあるとしたら、それは『ポトスライムの舟』のような作品に触れたときだと思う。
163万円貯金計画は意外な展開となるが、恵奈から届く「プレゼント」に、長瀬は甘い感覚を抱く。もしかすると、それは今までの彼女の人生になかったものかもしれない。そこには世界と私のつながりが確かにある。それは天秤では量れない貴重な何かである。
岩手日報、秋田さきがけ、河北新報、福島民報、
新潟日報、北國新聞、北日本新聞、埼玉新聞、
下野新聞、神奈川新聞、山梨日日新聞、福井新聞、
神戸新聞、日本海新聞、山陰中央新聞、中國新聞、
徳島新聞、四國新聞、高知新聞、熊本日日新聞
以上、共同通信社より配信され2009年2月掲載
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