所謂「まっとうな生活」から途中下車する若者が増えた。ともすれば、はじめから列車に乗ろうとしない連中もいる。そんな彼らに向かって叱咤する声が飛ぶ。だが、本質を射抜かぬ声はうつろに反響するほかない。そのうち、叱咤は嘲笑になるだろう。それが社会の分裂を促すだけだとしても、止めようのない流れができてしまった。
だが、実際のところ、どこまでが彼ら自身のせいなのだろう。駄目な人生というものにもう少し目を向けてみたら、見方が何か変わるだろうか。絲山秋子の『ばかもの』には、群馬県の高崎に住むヒデという男の、どうしようもなく駄目な青年期が描かれている。読み進みながら、「ほんと、容易じゃねえ」というつぶやきをおのれのこととして聞く読者は、きっと私だけではない。
ヒデは年上の女にうつつを抜かし、大学にもろくに通わない。単位を取りそこねているから無意味に留年する。何とか大学は卒業して県内の家電量販店に就職するが、夢も目標も持てない。ヒデもそれでいいと思っているわけではないのだ。「なんかもっとねーのか」と自問する、その生真面目な部分があるからこそ酒にのまれる。
あとは一気に転落するだけだ。周りに迷惑をかけ、大切な人を傷つけ、自分を貶めながら、ヒデはアルコール依存症の中にはいつくばるだろう。人は離れていく。ヒデはまったく独りぼっちだ。もうどうしようもない。入院する。断酒会に入る。それしか選択肢がないのだった。人が堕ち行き、もがく姿。トップスピンで展開する孤独な地獄絵巻に息をのむ。ヒデに前途はないのか。
この作品の結末を、作者が最初から準備していたかどうかは分からない。だが、ヒデという駄目な男の、真摯な姿をここまで書いたのだから、ひとつくらい何か救いがあっていい。互いに気安くただ「ばかもの」呼ばわりし、受け入れてくれる誰かが待っていたっていい。そんな気持ちで結びに差しかかり、ほっとするのも、やはり私に限るまい。
東奥日報、秋田さきがけ、神奈川新聞、山梨日日新聞、
信濃毎日新聞、京都新聞、神戸新聞、日本海新聞、
山陰中央新聞、中國新聞、四國新聞、熊本日日新聞、
以上、共同通信社より配信され2008年11月掲載
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