桂川渓谷で起きた幼児殺害事件の容疑が固まろうとしていた。ある女が我が子に手をかけ、亡骸を遺棄した。逮捕目前と思しい女の自宅周辺に報道陣が張り込んでいる。今か今かと待ち焦がれた瞬間が訪れたとき、彼らは連行される女を一斉に取り囲み、石の飛礫を投げつけるように質問を浴びせた。どれほど奇怪に見える犯罪だろうが、誰でもその犯人になる可能性がある。そんな理屈は現場の熱気のなかで蒸発し、あちら側とこちら側は隔たってしまう。中堅出版社の記者である渡辺一彦もまた、安全なこちら側から取材を行うひとりにすぎなかった。
事件は容疑者の確保で一段落するかに見えた。そんなとき、契約ドライバーの須田が、女の隣家に住む尾崎俊介のもとに駆け寄っていく。後で聞けば大学時代の同僚で、「こんなとこ」で偶然に遭遇したのだという。「俺もあいつもちょっとした問題起こしちゃって」と須田は十六年前を回顧した。俊介は妻のかなこと静かに平凡な暮らしを営んでいるだけではないのか。やがて女の供述から俊介が捜査線上に浮かび、事件は急展開を見せ始める。あろうことか、かなこの証言がその動きに裏付けを与えているらしい。須田が口にした「ちょっとした問題」がクローズ・アップされてくるのに時間はかからない。
自分の足で調べ上げた事実、何枚もの報告書から透けて見えてくる尾崎俊介の姿は、こちら側にいる限り嫌悪の対象にしかならないものだった。だが、一彦は「別のどこかで、斬りつけられるような痛み」を感じるようになっていく。共感や同情では絶対にない。だが、順風満帆とは言えない生活、耳について離れない妻・詩織の苛立った声、「愛しているから一緒にいるわけじゃない」と繰り返す自分がじくじくと迫ってくる。うなだれた俊介の背中からほんのわずかしかずれていないところに、自分の決して貧弱ではないはずの背中が縮こまっている。
人は自分の生きる場所に縛られるもので、その限りにおいて平等だと誰かが言う。それは「運命」などという単語では片付かない、人の宿痾だ。俊介と一彦は自分の中で損なわれたものをそれぞれに見据えながら、渓流の川原で向き合う。吹き抜ける涼風がふたりの間隔を揺るがせる。息を詰めて「あの……、一つだけ聞かせてもらえませんか?」と一彦は石を積むように問いかけた。彼が俊介の瞳の奥に見つけたのは、俊介の「答え」であるだけでなく、みずからの人生に対する「答え」だったかもしれない。
すばる 2008年10月号掲載
|