ごく最近、ある高等学校の図書室を案内してもらう機会があった。無断持ち出しをチェックするためのセンサーが取り付けられ、貸し出しもパソコンで処理できる、見事にハイテク化された図書室だったが、インクや紙のほのかな香りと、印刷された活字に宿る薄い影が作り出す、されされとした触感は健在だった。扉から近いところに座った生徒は、外から時折漏れてくる物音に振り返りこそするが、表情は安穏なままで気にする様子もない。司書の先生と、その手伝いをする生徒たちも同じことだ。図書室はつまりそういう独特の場所で、内側にいる人間をそれとなく何かから守ってくれる。
長嶋有の新刊『ぼくは落ち着きがない』は、図書室を、いや、その一角にベニヤ板で仕切って作られた図書部の部室を主な舞台にしている。主人公の中山望美はその図書部に所属する高校二年生だ。物語は唐突に主人公の夢想で幕を開ける。図書室の入り口になっている両開きの扉を押して中に入れば、そこは西部劇の世界で、あらくれた人間同士が火花を散らしてぶつかりあう空間なのだ。言葉少なでも、白黒がはっきりした夢舞台だ。もちろん、そんなことは実際にはありえない。望美にもそれは分かっている。けれども、いつまでもこの夢想が脳裏に浮かんでくるのは、きっとそれが望美の希望だったからだ。学校内の閉塞した「空気」と、それに異議申し立てできない自分に、望美はどこかでうんざりしていた。しかし、ここには西部劇に登場する人物の血をうっすらと引くかのような「世界がもたらす事態にすぐさま、ちゃんと対している」憧れの人たちがいる。
いまどきの学校を描くのは大変なことだ。オトナが直面している様々なかたちの「ちがい」を、生徒たちが免れているわけではない。むしろ、彼らは課せられた不自由さゆえにより厳しく現実に晒されているのだ。十年前、二十年前とはやはりどこかがずれているような気がする。彼らは彼ら自身の意思で「普通であること」を選択し、互いに牽制しあうだろう。厄介なのはそれがその時その場で生成されては変化する、化け物じみたものであることだ。自己防衛のために作動したシステムであるにもかかわらず、それが彼らの息苦しさを促してしまう。「居場所がない」という言葉があるが、彼らは居場所がないのではない。本当は意に添わない居場所を押し付けられているのだ。そして、皆「落ち着きがない」状況に陥っている。
図書室という異質な場所の、さらに深部にある図書部の部室。語られるのはほとんど、この局所で知りえる情報や、そこで感じ取られる心の動きだけだ。部員が外で何をしているのか、どういう事情が隠れているのか、望美の視点から見えないものは描かれない。ここはかなり徹底している。部員たちは概ね教室ではちょっとしたはみ出し者で、おそらくはだからここに集っているのだろう。要するに、ひとりひとり抱えるものがあるはずなのだが、描かれないことによってより確実に、ある意味では「正確に」そういうことは伝わってくる。長嶋有は、社会学的なアプローチの届かないところに、小説家として切り込んでいく。主人公がまさに「猛スピードで」図書室を飛び出していくまで、作家の眼はぴたりとはりついていた。
週刊読書人 2008年8月22日(第2751号)掲載
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