吉田修一が描く出会いのシーンは、印象に残るものが多い。あざとさや御都合主義といった危険領域をかすめながら、さっと翻って立ち去る作家の身振りは鮮やかだ。主人公たちの邂逅は、見通しのおぼつかない険しい雪山や、明らかに「向こう側」にある特別な図書館ではなく、ごく日常的な背景を与えられている。にもかかわらず、そこには異域の空気がかすかに立ち込めてくるのだ。二人は薄靄のかかった球体の中に一瞬包み込まれ、地面からいくらか浮き上がったところで視線を交わすことになる。
ところで、本作では出会いの描出をめぐって新たな展開が見られる。テレビ局でドキュメンタリー番組を手がける早川俊平が、閉門間際の神宮外苑で、響子という耳の不自由な女性と知るところから、この物語は始まる。やがて二人は親しくなっていくのだが、俊平は響子の湛える静謐に、ふとこんなことを思う。
「半分、一緒にいるようで、半分、そこにいない感じ、とでも言えばいいのか、いるのにいない。
いないのに、いる。
もしくは、あるようで、ない。
ないようで、ある何か……。」
私たちは、相手が目の前にいるから、相手の情報を知っているから、実体を捉えているとつい信じ込んでしまう。だが、人間は無数の残影を従えて存在する。相手と直に向かい合っている保証はないし、交わされる言葉もモノローグでないとは言い切れない。響子の有徴性は、俊平にそのことを突きつける。不慣れな筆談のわずかな言葉がマテリアルな感触をもって迫ってくる。
ぼんやりとした不安を抱えながらも、取材と番組制作が佳境に入り、俊平は帰れない日が続く。俊平の想いは響子に伝わらぬままに零れ落ちていた。その間に彼女は姿を消す。響子の住む彼女の実家は近隣で、だから地図を片手にしらみつぶしに探せば必ず見つかる。だが、それは誤解であった。人に影が付きまとうなら、地図も一枚ではない。しばらくして彼女の住所を知った俊平は愕然とする。その場所は何度も何度も訪れていたはずだ。恐怖にも似た感覚を覚えながら、やっと連絡のついた響子に向けて、彼はたった四文字の言葉を携帯メールに打ち込む。響子とは実はまだ出会ってさえもいなかったのだ。響子と、そして現実というものと、また出会うために必要なもの。物語は最も難しい問題のひとつに到達し、奇妙な余韻を残して不意に閉じられるのだった。
すばる 2008年6月号掲載
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