ある日の夕刻、早川俊平は神宮外苑で「響子」と名乗るひとりの女性に出会った。彼女の住む世界には音がない。彼女はまったく耳が聞こえないのだ。だが、俊平は響子の不思議な存在感に惹かれていく。その「世の中のすべてのものがこっそりと近づいてくる」ような静けさに触れると、安らぎとおののきが俊平を包んだ。ふたりはやがて寄り添い、親しむようになった。
俊平は報道担当のテレビ局員だったが、現在はバラエティに回されている。密かに復帰を期する彼は、バーミヤンの遺跡爆破に関する情報を手にしたことから、その取材にのめりこもうとしていた。そして、彼は喧騒の中、錯綜する情報の砂塵に飛び込むことになる。そんな環境は以前の彼にとっては当然のものだった。しかし、響子と接している今、決定的に異なっていることがある。 自分たちはいつも情報を選別しつつ何かを信じ、「次」があることを前提にして生きている。けれども、その安易さには何の根拠もない。幾千万の言葉を費やして語られる道筋は、他人に伝えるに値するものなのか、あるいは伝わるものなのか。遺跡爆破の真相を誰もとらえることができない。目の前にいる大切な人がずっとそばにいるとは限らない。俊平はある揺らぎを感知し始めていた。彼の胸の奥底で「静かな爆弾」が炸裂する。
取材は上首尾で、番組は前評判も良かった。そのおかげで、俊平はまた報道局に戻れる見通しとなる。ところが、響子がいない。取材で俊平がいないうちに、彼女は置き手紙を残して姿を消してしまう。どんなに探しても彼女の家さえ見つからない。俊平と響子は情報で結びついていたのではなかった。あったのは「最小限の言葉」と無心のぬくもりなのである。彼が最後にメールに打ち込んだ「最小限の言葉」とは何だったか。言葉の脆さが、言葉で紡ぐ小説によって探られている。
北日本新聞、山形新聞、北国新聞、秋田さきがけ、河北新報、福島民報、
神奈川新聞、下野新聞、新潟日報、山梨日日新聞、岐阜新聞、
信濃毎日新聞、福井新聞、京都新聞、神戸新聞、中国新聞、
山陰中央新聞、日本海新聞、高知新聞、徳島新聞、愛媛新聞、
南日本新聞、熊本日日新聞、長崎新聞
以上、共同通信社より配信され、掲載(2008年3月)
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