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11人目のレリギオ


神谷光信著『須賀敦子と9人のレリギオ――カトリシズムと昭和の精神史』
(日外アソシエーツ刊)書評

 

  「カトリシズム」「精神史」とくると、何となく取っ付きにくい印象を覚えるだろうか、しかし、神谷光信氏の文章はきわめて平明なものになっている。紹介考察の対象には、これまでほとんど光を当てられたことのない人物に関するものも含まれていて、それ自体、非常に意義深いものであることは言うを待たない。だが、それよりも、読み進めるうちに感じられた各章のばらつきが、最終章の「岩下壮一―対決的カトリシズム」に入るとすっと解消して全体の視界が開き、それが冒頭に置かれた須賀敦子論をもより鮮明にする仕掛けになっていることが面白い。これは緻密な計算によるものというより、神谷氏の資質がそうさせたのだろう。だいたい「精神史」というのは複雑に入り組んでいるもので、時に断絶さえ含んでわかりにくい記述を余儀なくされる厄介な代物だが、神谷氏の身体に沁みこんだ何かがこれを乗り越えさせたように思われる。

 ジャーナリズムにおける取り上げられ方とも相俟って、カトリシズムがわが国において好奇の目に晒されてきた歴史を苦々しげに振り返りながら、神谷氏はその本質について、プロテスタンティズムの「聖書中心主義」と比較して次のように書いている。

「一方のカトリシズムが、聖書のみを必ずしも重視するわけではないことを、われわれは改めて想起すべきである。カトリシズムにおいて何よりも大切なのは、リトルギア(典礼)である。それは象徴がリアリティを持ち、地上と天上が、現実と夢想が、ダイナミックに響き合う空間である」

 プロテスタンティズムの「聖書中心主義」が導き出すものは「個人」であり「個性」である。テキストの自由解釈を許されたとき、独自性の追求が引き寄せられ、人々の理解は主知的なものに傾く。これに対して、カトリシズムの場合は、その選択によって「リトルギア(典礼)による身体的理解」がまず要請され、不変の教理のもと、人はいたずらな「個人」の顕現よりも己の役割(使命)を受け入れることになる。そして、みずからに課された役割を果たす過程において、他者とのより深い場所での「つながり」を獲得することができるのだ。

 本書に敬意をもって召還された知識人は、さまざまな形でその「つながり」を模索した人ばかりである。想像力の飛翔によって「難民問題」などに実践的に取り組んだ犬養道子、「他者の悲しみへの共感」を歌に詠みつづけ、人々とのつながりを静かに意志する皇后陛下、「己の学識を社会に積極的に提供すること」をみずからの使命と確信して活動する科学史家・村上陽一郎、こうした人々の足跡を追うことで、カトリシズムの精神の形が次第に明らかになってゆく。神谷氏が「稀有の文学者」と呼ぶ須賀敦子に対しては、その可能性に思い入れるあまり舌鋒も鋭くなるが、常に「証言者」「翻訳者」として無名性に徹した仕事をし、「小さな者たちの共同体」を夢想した彼女への賞賛には愛を感じるし、神谷氏の理想とする文学の、あるいは人生と生活の原像を見出すこともできる。

 そしてもちろん、こうした人々の背後にあった、日本というトポスにおけるカトリックの受容の問題と格闘した思想家の姿を描くことも忘れられてはいない。昭和、あるいは20世紀のカトリシズムを考えるときに「第二ヴァチカン公会議」の開催は看過できないが、その大波を受け止めながら道を切り開こうとした、たとえば井上洋治、小野寺功らの業績について、批判を交えつつ語っていくくだりもスリリングである。先にも述べたように内村鑑三と同じ時代を生き、日本近代におけるカトリシズムの象徴的存在となった「岩下壮一」の段になって、彼らの仕事と生き方がどういうものであったかが再び照らし出され、カトリシズムによって開かれる地平を知らされることになる読者は、神谷氏が「はじめに」で言うように、自然と「思索をそれぞれに深め」ることになるだろう。

 なるほど、神谷氏はどちらかといえば学究肌の書き手である。しかし、その論理な徹底や精緻な調査のあり方もさることながら、むしろこの本そのものがある種の「身体的理解」を通した「つながり」を促してくるように思えるのはどういうわけか、もっと本質的なところを知りたい。実は、私はたった一度だが横浜で神谷氏に会ったことがある。失礼を承知で言えば、明らかにこの国の人の顔をしているのに、どこか異邦のにおいをまとっておられると感じたのだった。碧色の眼? いや、そんなことはないはずだが、そのときの不思議な印象がまたこの本によってよみがえったことを率直に記しておきたい。

図書新聞 2008年2月23日(第2859号)掲載



神谷光信

『須賀敦子と9人のレリギオ―カトリシズムと昭和の精神史』

日外アソシエーツ、3,800円

ISBN-10:4816920706

ISBN-13:978-4816920707


   
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