金原ひとみの最新刊『星へ落ちる』は、五つのパートに分かれ、複数の人物がそれぞれの立場からひとつの出来事を語って展開していく。「私」と「僕」は出版社に勤めるという「彼」を奪い合うことになり、「私」に捨てられた「俺」は悶々ともがき続ける。この「私」「僕」「俺」の三人が語り手だ。このような趣向の作品には「立体的な」という評価が付き物である。語り手が入れ替われば、視点の交錯によって物語は分厚くなる。そうして、作品全体が立体化するのだ。だが、この小説はそのような意図を持たない、むしろこの種の趣向を逆手にとって、手垢のついた評価を頑なに拒んでいるように見える。
タイトルにあやかって言えば、中心である太陽の位置にいるのは「彼」である。通例なら、この「彼」のことが好きな「私」と「僕」の双方から語られることで、性格や境遇に陰影をまとう人物として「彼」の印象は強くなるはずだ。ところが、「彼」はどこまでも優柔不断で凡庸なだけである。惑星を従える恒星の輝きは影を許さないのか。そうではない。「彼」はいわば空白の中心なのである。だからこそ「私」と「僕」は嫉妬と猜疑心のスピンによってみずからを追い詰めていくわけだが、一方、「私」を忘れることができない「俺」にも同じエネルギーが宿る。彼らは思いを寄せる相手に合わせて自己の輪郭を象ろうとしつつ、自転ならぬ凄まじい空転ぶりを共有してしまう。似た者同士の語り手たちは落ちて炎上し、どろどろになって溶解し、または弾き出されて、ついに「系」を構成することのない幻の銀河が出現する。ここには立体性も多層性も削ぎ落とされた、荒涼たる「無」関係だけがごろりと転がっているのだ。
顧みれば、私たちの人生は結構いい加減だ。物事を信じる信じないは、都合よく切り替えているし、そうした平衡感覚が「健康」を保証する。だが、金原ひとみの描く主人公たちはそんな器用さをはなから持ち合わせていない。人間界のあらゆる事象に対する不信任で貫かれた彼らは常に身体ひとつでいま、ここにあり、存在を繋ぎとめてくれる何かを求め、渇いているのだ。それはもはや「信仰」であると言ってよい。本書の最終章で、無機質なパソコンゲームをやりながら「私なんてこの世にいないような気持ちになれるのがいい」と繰り返す「私」は、ただ捨て鉢になっているわけではなく、遠くにある何ものかをつかもうと必死に手を伸ばしている。
すばる 2008年1月号 掲載
|