物語の間口が広い。これまで松浦理英子は密室を好んで描いてきたし、この小説でもその特質は後に遺憾なく発揮されることにはなるのだが、ちょっとした驚きがあった。読み始めるとすぐ、狗児市という架空の地方都市が舞台であることを知る。御手市、穴掘市に隣り合わせ、犬啼山、犬洗川、犬渡橋に犬戻橋といったスポットを擁した、土俗的あるいは、神話的な空間が、ホテルやデパートや住宅地といった近代的な要素を取り込んで街を形成しているのだ。こうした読者を魅了する設定に出会うと、地図を作ってみたくなる。もちろん、私は鈍さゆえか、正確な地図の作成を断念することになるのだが、存分にイメージを膨らませることはできた。そして、それがこの小説を方向づける布石でもあることに、いずれ私は注意を向けることになるのだった。
三年程前に狗児にやってきた八束房恵が、タウン誌「犬の眼」を惰性で作り続ける日常に倦怠を感じ始め、その匂いを嗅ぎつけるようにBar「天狼」店主、朱尾献が現れてから、物語はゆっくりと動き出す。房恵は子どもの頃から「犬になりたい」という願望を持ち続けている女性である。それはセクシュアリティの問題でもあって、人間の男にも女にも性的欲望や恋愛感情を持ちえず、人間と犬の間にのみ築かれる「特別な関係」にとめどなく憧れている。そんな房恵が、愛犬を何よりも大切にする玉石梓と運命的と言っていい出会いを果たすのだが、そこに居合わせるのも朱尾という謎の男だった。
程なく朱尾は房恵に、魂と引き換えに「もしも望みが一つだけ叶うとしたら、玉石さんの犬になることを選びますか?」と持ちかける。この魂の契約は成立する。房恵は念願かなって実際に犬となり、梓に飼われるわけだが、交わされた契約条件が最初から奇妙なものであることに気付く。一〇年か一五年の間、梓のもとで「幸せ」な犬の生涯をまっとうした場合にのみ、魂は譲渡される。ただし、飼い主の梓に「性的欲求」を覚えた時点で、房恵の犬としての寿命は尽きてしまう。その場合も魂は朱尾のものだ。もちろん、何を基準にして「幸せ」を測ることができるのか、「性的欲求」と深い愛情や思慕はどう区別されるのか、まったく客観的ではない朱尾の提示条件はいつでも自分に都合よく魂を貰い受けられるように仕組まれているとも読める。しかし、この不確実さを逆にみれば、契約が宙吊りになり、房恵のコントロール下に置かれる危険もあるわけだ。 後者をあらかじめ朱尾は考慮に入れている。だから朱尾の最終目的は房恵の魂などではない。房恵が犬ならば、朱尾は狼だ。店に掛けられた狼のマスクこそ朱尾の本体であり、朱尾はマスクに施されたガラス玉の眼を通して狗児の街を見てきたのである。印象的に描かれるこのガラス玉の眼には不思議な力が宿っている。物事の本質を見透かし、それを目に見えるように外部へと現象させる力だ。彼は、歪み固まる狗児の街の中心に鎮座した玉石家をその象徴的存在として標的に、おぞましい血族の秘密を暴き、それをきっかけにして野生の時間を奪い返そうと目論んでいるのである。房恵はそのパートナーに選ばれたのであり、あの曖昧な契約が交わされた瞬間から二人は共犯関係に入ったということになる。つまり、これは人間の作り出す、こわばった「近代」から、いつかあったはずの、もっと伸びやかな生を奪取しようと奮闘する狼と犬の物語だと言うこともできるのだ。 実際、この狼人間は、自身の眼の力を通して何度も房恵(フサ)を手助けしたり、慰め励ましたりすることになる。立ち現れてくるエピソードの数々は、この共犯関係を軸に展開していることが多い。房恵(フサ)の願望は、ただ現世において囚われの身として生きる梓に「犬」として関わり、互いに睦み合うことだけなのだが、朱尾が加担するのは、彼にとっても、それが取り戻したいものの一部、いやひょっとすると、それそのものかもしれないという考えが浮かぶからではないのか。狼にとって、犬は人間に依存する家畜で、蔑みの態度を示しはするが、やはりどこかで強い連帯感が生まれている。房恵(フサ)にしても「夜になると梓と籠もる六畳ほどの寝室は古代の洞窟のように感じられた」といった幻想を見るほどに、朱尾に近づいている。 狼人間が惹かれてやまない、犬になる前の房恵、梓の愛犬フサとなった後の<房恵>の思いのたけ、そして梓との関係を示した部分を引いてみる。
「犬になればわたしは自分が犬に与えてもらった喜びを梓に与えることができる。それがどんなに素晴らしいものか、わたしにはわかる。犬になって人間では辿り着くことのできない梓の心の深みに飛び込んで行きたい。会話や性行為に頼るのではなく、犬と人間に特有の、気持ちと気持ちをじかに重ねるような交わりを、梓としたい。想像しただけで房恵の胸は昂奮に打ち震えた」 「梓とフサはお互いの伝える思いに反応し合い、触れ合いをどんどん濃密にしている。触れ合いそのものは簡単な動作だけれども、お互いに相手をたいせつだと、なくてはならないものだと言い交わしているかのような一生懸命さが、フサにはあるし梓の様子からも感じられる。込められる思いが強いせいか、触れ合いからこれまでにない感覚も生まれている。人間だった頃は、犬と人間の交わりはごく単純に楽しいものとしか思っていなかったフサは、梓との交わりがこんなにも深まったことに驚いていた」
「わたしにはわかる」といったひどく主観的で確信に満ちた表現、「飛び込んで行きたい」「梓としたい」のようなまっすぐな願望、欲求を打ち明ける言い方、「たいせつだ」「なくてはならないものだ」「一生懸命さ」と並ぶ殊更に単純な言葉たち、これらひとつひとつは、揺籃する「思い」を伝えるには物足りないようにも見える。しかし、このテキストの中に置き直してみると、異様なほどの強度をもって一気に輝き始めるのだ。身体=記憶の奥底に眠っている、他者との触れ合いの原初的なかたち、根源的な幸福感を探り当てる。その生な感覚をこちらの意識へ流し込むように語る。そのための結びの表現は消え去るくらい簡単な方がいい。普通の人が何気なく使っているような、平凡な言葉のほうがいい。そういうことなのだ。
『犬身』は、明らかに闘争の物語である。排除すべき敵がいて、蹴散らすべき悪がある。にもかかわらず、決定的なところで陰惨にも窮屈にもならず、むしろ温かな気持ちを湧き出させるのは、こうしたやさしい言葉が、読者を飽きさせないエピソードとともに随所に織り込まれて細部が構築されているからだ。「柔らかくて激しい小説」などという言い回しは少し変かも知れない。しかし、そういう表現が可能だと思えるほど、この小説は豊かな広がりを持っている。これが設定された「間口の広さ」に対応していることは、もはや言うまでもなかろう。松浦理英子はもしかすると、また大きな一段をのぼったのかもしれない。 図書新聞 2008年1月1日(第2852号)掲載
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