死別した夫との思い出の品を「がらくたばっかりよ」と女がはにかんで言う。「生きている相手に対して、感情を不変のまま保存することはできない」のはむしろ当たり前で、自分が一途に見えるのは、つまりは夫が死んでいるからなのだ、というわけである。
十五歳の美海は、女の話を聞きながら、柊子の「完璧な」恋愛について考えていた。柊子のした<ジャムの話>を想い出していた。ならば、柊子の原武男への強い思いは、死者に対するものに過ぎないのではないか、それは彼女の心が死んでいるということではないか。そんなふうに認識したかどうかは別にして、美海は自分と柊子の違いをはっきり自覚するようになる。さほど経験のない美海にとって、あるいはその自覚が「恋愛」の始まりだったのかもしれない。
四十五になる柊子は夫である原武男を愛していた。それが本当のものであることを確かめるために、そして、それを本当のものにするために彼女は他の男との情事を繰り返す。一見すると矛盾した行為のようだが、彼女の情事は本質的には「遠くへ」行くことに過ぎない。ただひとり、夫に向ける愛情を確信し、絶えず更新させられればよいのだ。持続のための断絶。柊子の場合、たまたまその手段が「情事」だった。
美海と柊子はリゾート地で出会った。母親と訪れていた柊子は、異国的な風貌の美少女にひきつけられる。それが美海である。見知ってからは美海もまた柊子に興味をもつ。けれども、東京に戻って再会した二人の関係は微妙だ。互いに引き合いながら、どこかよそよそしくもある。あくまでも個であろうとする彼女たちのすれ違いは、かえってリアルだ。
「果物は生のままの方が好きだ」と思う美海は、「ほっておけば傷んだり腐ったりする」からジャムにするという柊子に違和感をもった。しかし、それは生きているものを死なせることではなく、より深く生かす試みだったのだ。まして、ただジャムにすればいいのではない。完璧とはそうあろうとし続ける限り可能なものである。柊子の恋愛とは、いわば完璧なジャムを追求することなのだ。といって、美海が間違っているのでもない。死に隣接するその恋愛は、エロスの最後の徒花になるかもしれないからだ。
そんな美海と柊子の対照、生と死の入り組んだ交錯を描くこの小説は、愛することの魅力を存分に教えてくれるにちがいない。言うまでもなく、読むことの愉楽もまた。
すばる 2007年8月号 掲載
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