過去の出来事が奇妙な形で凝固し、その人の行動規範を作ってしまうことがある。『悪人』の登場人物・清水祐一はフェリー乗り場で母親に置き去りにされた経験をもつ。突然の「置き去り」の原因がわからない。自分が何か悪いことをしたから、母親に嫌われたのではないか…。少年は加害と被害の関係を反転させてみる。しかし、憶測は現実に追いつくことはない。この居心地の悪さが、彼の生を大きく左右する。
後年、母親の抱く罪悪感を知った祐一は、「欲しゅうもない金」を彼女から毟り取るようになる。加害と被害の反転が形にされたのである。それは善意ではない、単なる独りよがりかもしれない。彼はこの矛盾について他人の理解を求めなかった。だが、たとえそれが矛盾に満ちた行為であったにせよ、過去の関係を清算し、再び出会いたいという願いの現われでなかったと誰が言えよう。 清水祐一は「置き去られる人」である。懇意にしていたヘルス嬢にも、出会い系サイトで知り合った保険外交員の女にも彼は捨てられる。そして、その度に彼は「加害者」に転じようとするのだ。後者はこの小説の駆動軸である殺人事件となる。だが、激情と混乱のなかで祐一が殺害行為に及んだのは確かだとしても、被害と加害の反転という「不気味」な範型は、はっきりと顔を覗かせている。
そんな祐一が「一緒におって! 私だけ置いてかんで!」という女の叫びをいかに聞いたか。既に殺人事件は起きてしまっており、捜査の網は確実に狭まっている。彼は「置き去る人」になろうとしていた。女の首を絞める。逮捕後の供述では、自分は変質者であり、女は利用しただけだと答える。彼はやっと出会えた人にいま自分ができることを考えていた。「あの人は悪人やったんですよね?」ラストを締めくくる女の語りに浮かぶ疑問符は、みずからに向けた説得に近い。皮肉に結ばれた一本の線が悲しい。
ところで、忘れてならないのは、登場人物のほとんどが実は「置き去られるもの」だと言えることである。非人格の「悪人」がどこかにいるのではないか。この作品は「何か」から置き去りにされていく現代人の寂しさと苛立ちを、「皮膚に浮き出した血管のように」脈打たせている。吉田修一の目はひどく抽象的なものを追うが、小説家の本来の姿とはそういうものかもしれない。『悪人』はその命題をも問う力編となった。
すばる 2007年7月号 掲載
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