なぜ私は「私」でなければならなかったのか、なぜ私はここでいまこうしているのか、といった誰もが抱きうる自分だけの謎がある。世界は複数の次元によっ
て構成されているはずのものだったのに、いつの間にかそうした世界は解体してしまった。たったひとつの身も蓋もない現実が露頭することによって、それはひ
どく貧弱で窮屈なものになったらしいのだ。選択不可能なこの現実について、「なぜ」と問うてしまうのはある世代の、回避できない病なのかもしれない。適当
に「らしく」振舞ってみせることが難しい。みずからの生に依拠すべき原点が見当たらないからだ。観念的な「答え」なら既に用意されているのかもしれない。
だが、そんなものがいまさら何の役に立つというのか。角田光代という小説家はそのような困難の中に立っている。
角田の描く主人公たちは自分の抱える空洞や絶望を持て余し、少なからず「いま/ここ」にいることに苛立っている。あらかじめ与えられた関係ではない別の
関係性の中に居場所を求めたり、唐突に放浪の旅に出てしまったりするのはそのためだ。『幸福な遊戯』では「同居人同士の不純異性行為禁止」を条件にして男
ふたり女ひとりの奇妙な共同生活が始まるし、『空中庭園』に登場する京橋家は、母親の絵里子が高校生活のすべてをつぎ込んで作り上げた「完全なる計画」の
もとに成り立っている。また『東京ゲストハウス』のアキオはのっぺりとした日常を「なあんか退屈」と感じてアジア放浪に出てしまうし、『エコノミカルパレ
ス』の主人公も「ここにいることがどうしても耐え難いこと」に思えて、恋人とやはりアジアに赴いた過去を持つ。彼らの思いは決して軽くない。
「帰るところは家しかなく、帰れば母親といるしかなかった。このまま家を出る術が見つからなかったらどうしようと考えると死にたくなったが、母親を生かしておいて自分が死ぬのは許せなかった」(『空中庭園』)
「そのとき感じた退屈は、退屈と名づけられるようななまやさしいものではなく、もっと圧倒的な圧力をもった、たちうちのできない、得体の知れない巨大なものに思えた」(『東京ゲストハウス』)
彼らはぎりぎりの切迫感の中で異世界を熱望し、「いま/ここ」からの脱出を試みるのである。しかし、試みは成功したとは言い難い。彼らは結局、この現実に
戻ってこざるをえないのを知ってしまうのだ。その呪縛から逃れられるのは一時に過ぎない。「ほかのすごく大事なことを選べるようになると、選べなかったこ
となんかどうでもよくなっちゃうの」(『キッドナップ・ツアー』)というように主体的選択が局面的に重きを為すことがある。「いま/ここ」に在ることを半
ば無理矢理に納得して生きることがある種の明るさを醸し出すこともある。だが、言うなれば、それは私たちの精一杯の虚勢なのではないか。その切なすぎる虚
勢を張り上げながら、なおもしくじりつづけるのが角田光代の小説的営為であり、また、かけがえのない魅力なのだ。
「おとうさん、なんであたしたちはなんにも選ぶことができないんだろう。父の言葉にうなずきながら葵は心のなかで叫ぶように言った。何かを選んだつもりになってもただ空をつかんでいるだけ。自分の思う方向に、自分の足を踏み出すこともできない」(『対岸の彼女』)
主人公たちはまるで魂を共有するかのように生き、声にならない叫びを上げながら、挫折の中であがきつづけている。
『八日目の蝉』に登場するふたりの女も、やはりその魂を受け継ぐ者であることは間違いない。この作品は、子ども(秋山恵理菜)を誘拐して薫と名づけ逃走
する野々宮希和子の四年間の道行きと、その事件から二〇年後、連れ戻された実家で暮らしてきた薫/恵理菜の現在を描いている。コミュニケーションのとれな
い母との確執を過去に持つ希和子は、中絶の経験を機に激しい空虚感を意識し始める。秋山(薫の父)との関係に疲れ、その妻からの嫌がらせも伴って、彼女は
精神の平衡を崩していた。一方、薫は「誘拐犯に育てられた子」として世間の好奇の眼に晒されながら、辛うじて保たれていた「家族」のなかに居場所を見出せ
ずに生活している。そのせいか、彼女は周囲の人間関係にうまく馴染めず、自分の存在を見失いかけていた。希和子はみずからを「がらんどう」と呼び、薫は自
分の姿を思い浮かべて「のっぺらぼう」だと形容している。
しかし、彼女たちの生のあり方は、これまでの主人公達のそれとはどこか位相が異なっているのも確かだ。希和子は子どもを連れ出したが、それは自由意志に
よる選択などではなく、ましてあらかじめ立てられた計画に基づくものでもなかった。彼女は言葉にできない衝動のようなものに突き動かされてそうするのであ
る。誘拐犯となった瞬間から彼女にはもはや帰るところはない。各所を転々としながら西へ、ここからあてどない逃避行が始まる。彼女には現在だけが唯一の拠
り所で、今日一日、明日一日、薫と名づけたその子と離れたくない一念で過ごすようになる。それ以外のものは何も要らない、この逃避行はそういう性質のもの
であった。希和子の行動は薫との物語を「いま/ここ」で紡ぎ始める。
薫はアルバイト先で知り合った男の子どもを妊娠し、希和子と同じ道を辿ることを拒否したいとい
うただそれだけの思いから出産を選択する。こうした薫の前に現れたのが、千草と名乗る女である。彼女は幼年時代を宗教的コミューンで過ごした自分の過去が
いったい何だったのかを知るために調査をしていて、逃避行中そこに身を隠していたことのある薫にも聴き取りにきたのだという。この出会いで、硬直した薫に
変化が訪れる。千草はまるで巫女のように薫と過去の記憶を媒介し、優しい力で薫を促すのだった。薫は千草の書いた記録を読み、やがて千草に随行してかつて
の地を再び訪れることを承諾する。
「もしかしたら、と私は思う。
千草に、私が覚えているかすかなことを私自身の言葉で語って聞かせたら、自分の顔が見えてくるだろうか。記事や本で後付けしたのではない私自身の過去の時
間が見えてくるだろうか。丸く切り取られた写真ではないあの人の顔も、思い出せるのだろうか。」
これまでも角田光代は、扉をたたき続けてきたのだった。しかし、外に向かうどの扉も結局、「世界」を再構成するきっかけを与えてくれなかった。どれを選ん でも、どんなに遠くに行っても何もつかむことができなかったのである。なぜなら、そのきっかけは扉の外ではなく、内にあったからだ。薫は改めて子どもを産む、母になるという「選択」をすることになるのだが、それはもはやあの脱出願望などとは無縁である。自分自身に向き合い、享け入れた末の自然であった。逃 げることなく「いま/ここ」を掘り起こし、紡ぎ直すのは痛みを伴うにちがいない。人は見たくないものを見、聞きたくないものを聞くだろう。だが、薫は、 「内なるもの」との直面を経ることなしには為しえない出産という未知の体験に何かを見出そうとしている。
「何がさみしいの、産むのが?」
「そうよ、自分の体のなかにだれか入っとることなんか、そうそうないもん、出ていかれるのはさみしかったよ。あの時、うち、このまま一生この子がどこにもいかずに、おなかに入ってたらええのに、と思うた。」(『ロック母』)
子どもは母体の単なる一部ではない。母体にとって、むしろそれは未分化の全体であり、かつ、他なる「だれか」なのである。「さみしい」のは、自分と肉の
つながりを持った「だれか」と別れるからでもあるが、自分自身の中身がそっくりそのままどこかへ行ってしまうような実感を伴うからだ。つまり、「私」が剥
がれ落ちるのである。ここで希和子の「がらんどう」を思い起こしてもいい。しかし、それは反転させれば、「私」自身の産み直しとも言えるものである。産む
人は、さみしさや痛みと引き換えに、もう一度「私」を語り直す権利を与えられるのだ。「私」を通して現れる「世界」、「世界」に生かされる「私」が、出産
という肉の体験において産み直されるのではないか、母になるというのはそういうことではないか、と私は考えてみる。
希和子は産みたかった。それは叶わぬことになったが、母と子の関係というかたちの「私」の物語 を「いま/ここ」の瞬間を生き抜くことで紡ぎたかったのである。薫はその願いを引き継いで産むのだ。再び、母体と出産の神秘ということに思いが至る。薫の
「選択」は、主体的選択というものを超えている。「だれか」が内側から腹を蹴る。希和子の意思がひそかに宿り、千草の導きがあり、様々なトポスも力を貸しているだろう。本当の「選択」とは、このように多くのものを背負ったものであった。薫は、希和子とかつて渡った瀬戸内の海に揺られながら、すべてを理解す
る。
「憎みたくなんか、なかったんだ。私は今はじめてそう思う。本当に、私は、何をも憎みたくなんかなかったんだ。あの女も、父も母も、自分自身の過去も。憎むことは私を楽にはしたが、狭く窮屈な場所に閉じ込めた。憎めば憎むほど、その場所はどんどん私を圧迫した」
狭く窮屈な場所。冷たく硬い現実。薫は窒息しそうになりながら、求めていたのだった。新たな「世界」の奇跡的な誕生の予感がする。その背後には、原初の
イメージと重なる凪いだ海が、「茶化すみたいに、なぐさめるみたいに、認めるみたいに、許すみたいに」きらめいていた。その光が薫や希和子だけではなく、
読者である私たちをも照らし出すものであって欲しいという、小説家の厳しく優しいまなざしがあるように感じた。
図書新聞 2007年5月19日(第2821号)掲載
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