長谷川郁夫氏の前著『美酒と革嚢』は、「力作評伝」などという言い回しでは捉え切れぬ異形の書物であった。
第一書房店主・長谷川巳之吉に対する氏の感情は振幅が激しく、相当の愛着を湛えながらも冷徹な分析を怠ることはなかった。また、その矛先は、常に己自身に向かっているように見えた。厚みのある地の文と巧みな引用は当時の世相を活写するものであったが、それをただ過去として描くのではなく、いつしか現代の文藝をめぐる状況に重ねていた。読者は、文脈から引き剥がされまいと躍起にさせられる。運動体となって読むことの愉楽を改めて知らしめるに十分である。
それに比べて、『藝文往来』はとても静謐な印象を与える一冊になっている。造本に関していえば、分厚い前著はハードで四角張り、机の上に置くとでんとした重みとともにモノとしての存在感を主張する。『藝文往来』はそうではない。小振りで柔らかな素材の本体を、後を引くような手触りのやや厚い紙が守るように包み、さらにパラフィン紙がかけられ、丁寧に箱に収まっている。存在がどこまでも控えめで優しい。
そっと開けばそこにはまず目次。五十の短い随想のほとんどに、文藝の世界で重要な足跡を残してきた人々の名が付されている。秋山駿、小川国夫、高橋英夫、田村隆一、中村稔、中野孝次、堀口大學、水上勉、吉田健一など。氏は、三十年余り小沢書店の社主として、こうした人々とともに書物を造ってきた。顔と顔、膝と膝をつき合わせての真摯な交際。そこには楽しく暖かいだけではない、時に苦く辛い生の感情が縺れている。それがそのまま文学の生成の場だった。氏は「懐かしい」と思わず書き記している。かつて、そうした時間と場所が確かにあったのだと、どこを読んでも流れるように伝わってくる。
しかし、『美酒と革嚢』の冒頭で「だが、なぜいま」と問うた精神はここにも息づいているのではないか。氏のこころの振り子が揺れているのをやはり感じるのである。窪田般彌氏についての文章にこんな箇所があった。
『老梅に寄せて』は未読だが、フランス現代詩の訳にも破れかぶれの「カラシ」をきかせて欲しかった。名訳一歩手前だね、ミニヨンでなら憎まれ口をたたいたことだろう。懐かしいとは記すまい。そんなやんちゃ振りに、(気恥ずかしい言い方だが)私の青春は賭けられていたのだった。(「言葉の気韻――窪田般彌」)
懐かしいとは記すまい、この一句を見落とすわけにはいかない。ここには長谷川郁夫氏のもうひとつの本音が隠されている。でなければ、小川国夫氏について「次なる飛躍に備えているのではないか」と記すこともなく、高橋英夫氏の仕事に関して「言葉の力、文学的想像力の恢復を賭けた、最後の夢なのではないか」と語ることもないはずである。そして、「あとがき」でも、一方で「後ろ向きの気分に囚われる」としながら、次のようなリルケの詩句を書き付けてもいるのだ。
思い出に記念の石碑(いしぶみ)をたてるな
ただ年毎に薔薇を咲かせよ
確かに氏の目線は「過去」の方角に向けられているのだろう。己の文学の初心を見失った、原風景を確かめられもせぬ、そもそも忘れたことすら忘れている、そんな後世に氏は背を向けている。だが、そのわずかに震える背中を、氏はあえて隠そうとはしていない。「私が求めているのは、ほんとうに”本”なのだろうか」と呟きながら神田の古本屋街を歩き回る氏の靴底は、現在にするどく反応するのだ。今は最悪だ、昔が懐かしい。そういう物言いの輪郭が次第にぼやけだす。それはそれで本音だが、絶望を知る者は旋回する。何事も終らなければ始まることもない。言うのはたやすいが、その立ち位置に身をおける書き手は限られているのである。
そりゃ、長らく出版の現場にいたんだから、と氏は一笑に付されるだろうが、氏の「現在時」に対する感度は異常なほど高いのだ。一見静的に思える『藝文往来』にもまた、ダイナミックなこころの動きが感じられる。本書は単なる交遊録でも回顧録でもなかった。過去と現在を絶えず往還するたゆとうような筆遣い。読みながら感じる軽いめまいの原因はそんなところにあるのではないか、と私は思っている。
図書新聞 2007年5月19日(第2821号)掲載
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