本書『夕波帖』は、小川国夫氏の八年ぶりの随筆集である。収録されている大半は、二〇〇〇年以降、各媒体に発表されたエッセイだ。読み進むうちに流れ込
む、ゆったりとした別の時間。私は次第にそこにいることの幸福を感じるようになった。何より自分が享け入れられているという安息があった。
本書は三部構成である。それぞれ「枝っ子は思う」「仰望」「身をサドルにまかせ」となっており、純粋な文学論といった趣のエッセイは数篇で、他は近親者や
作家たち、それから書物との交歓、旅に生きた若き日の思い出などが語られている。だが、そこに静かなまとまりを読むこともできる。冒頭の「耳を澄ます」一
篇が光源となって全体を照らし出しているからだ。そこで語られた言葉が、他の文章のうちでも時折ひたと読者を打つのである。そのたびに私はちょっと居住いを正さなければならなかった。
「耳を澄ます」で彼は一つのことしか言っていない。「私の願いはただ一つ、傾聴の世界を書きたいのです」。だが、これは老作家による単なる感覚主義の表明ではない。言うまでもなくオカルティズムなどではない。小説家としての、いや、人としての実存の重みにおいて語られた倫理の言葉なのである。
我々は他者の声を聴き取り、彼らと本当の意味で出逢うことの困難について考えねばならない。人と繋がろうとして、できるだけ意味を正確に伝えようとしても届かないことがある。相手が大声で主張すればするほど、素通りしてしまうことがある。また、内に抱える悲しみや苦しみが深ければ深いほど、人はそれを忘
れようとし、語らなくなるということもある。それでも、小川氏は、自分の聴きたいように聴くのではなく、「ありのまま」に聞こえてくる肉声を聴きたいという。
小川氏はかつて漂泊の人であった。故郷藤枝に帰ってから半世紀が経とうとしているが、けだしこの作家は異邦の客であり続けている。だから、彼はこういうことに敏感なのだ。彼は、出逢うために心耳をひらいて「待つ」という姿勢をとる。それからぢっと見つめる。そういった振る舞いは彼の中でもはや自然であるとさえ言える。それでもなお、聞こえてくる声は少ない。途切れ途切れの声であるかもしれない。もはや声ではなく響きや震えでしかないかもしれない。だが、 小川氏はそのような時も、音響的存在としての世界を丹念に描写しながら、待ち続ける。
「待つ」という行為には二面性がある。一見して受身ながら、来るべき何ものかを求めているという点では能動である。そこにはダイナミックな精神の運動がある。求めるものの来るべき可能性が小さいとき、背後に深い孤独を囲うとき、待つことは位相を越えて「祈り」に到達する。つまり、待つことの極北には祈りがある、ということだ。みずからを差し出してなされる祈り。小川国夫氏は「待ち望む人」「祈る人」である。そして、いわば「傾聴」とは、方法としての祈りな
のだ。
私は別に宗教談義をしているつもりはない。我々は日常、多くの人と顔をあわせるが、自分の声が届いている、相手の声が聞こえた、という実感を得ることは稀である。根源のところでは、人は人を求めているのに、ついに「出逢う」ことがないのだ。どこで我々はやり方を間違えたのだろうか。どこかに大事なものを置き忘れてきたのではないだろうか。少なくとも私はそのように感じることがある。 『夕波帖』には人や書物との出逢いが書かれていると私は言った。紀行もある意味では世界との出逢いである。私がこれらを読んでいて安息を得ることができたのは、もちろん小川氏の軽妙な語り口によるともいえるが、彼にそうした語りを促す、人や事物との柔らかなつながりは無視できない。そして、堂々巡りのようだが、そのつながりを引き寄せたのは小説家・小川国夫氏の佇まいなのである。この一冊で私はコミュニケーションの原初に立ち返るきっかけに触れた気がした。 そして、彼はいま新たな相貌を見せようとしている。死者たちの声を聴き取りたい。簡単な言葉ではない。なぜなら死者こそ絶対的な他者であり、もっとも聴取困難な非在の声を響かせるものだからだ。ここには歴史に対峙する使命に独自のやり方で全身をあずけようとする小説家の覚悟がある。耳を通じた、死者との抜き差しならぬ関係とは何か。読者は刮目して展開を待ちたい。
図書新聞 2007年2月10日(第2809号) 掲載
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