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中沢けいコラム「豆の葉」
   
 

この頃少しヘンよ

2006年08月04日(金)

 2日前 TBSのニュース23を見ていて、サッカーの解説に、息子と娘が怒りだしてしまった。ジーコに対する尊敬も感謝の念もないというのがその理由。

 ワールドカップ直後に川口会長の「オシム」失言もなんだかヘンな感じがしたけれども、ああでもしなくちゃマスメディアの関心をつなぎとめておけなかったのかなと思ったことを思い出す。

 3日前 「亀田兄弟って嫌い」っていう娘の発言。ボクシングに興味がない娘にしてはへんな発言だなと首をかしげる。
 ボクシングの試合結果にTBSに抗議が殺到。これはたまたま偶然なんだと思うけど、またTBS。

 マナーが悪いって、そういう意味じゃ、野球の新庄もいたずらっ子みたいだけど、亀田という選手は新庄みたいな覇気が感じられなかった。身体から出てくるエネルギーが違う。ちょっとびびった感じがした。疑惑判定の試合後に見たからそう思うのかもしれない。ただし娘の発言は試合前のもの。

 ボクシングとは全然関係ないけれども、サッカー協会の新役員名簿を見ていたら、70代、60代、40代で、50代がすっぽり抜けていた。前々から気付いていたことだけど、こうもあらかさまに50代が抜けるとため息が出る。それと、スポーツ界のへんてこり現象がどのように繋がっているのか、うまく説明できないけど、漠然と「やっぱりなあ」とため息がでる。

 テレビはあきらかにネットの打撃をこうむっている。広告収入にたよってきて、視聴率を稼ぐよりほかの手を知らないというところがある。なんか観念的にテレビの創成期にあった視聴率獲とくの伝説をなぞっているのが、スポーツのヘンテコリン現象と繋がっている気がしてならない。

空襲と空爆

2006年08月03日(木)

 8月2日読売新聞夕刊は「東京駅復元 米が注文」の記事を一面に揚げています。「空襲によって部分的に焼失して丸の内駅(国の重要文化財)を、1914年(大正3年)当時の3階建て、丸いドーム型屋根の姿に復元する工事」をJR東日本が随意契約を行おうとしたところ、アメリカから競争入札にするようにという注文がついたという記事です。

 そのとなりには「イスラエル 期限切れ前 空爆再開」という見出し。こちらはレバノン攻撃を続けるイスラエル軍について報じた記事。

 つまり読売新聞8月2日夕刊の一面には「空襲」という文字と「空爆」という文字が並んでいるのです。
 「空爆」も「空襲」も飛行機を使って空から地上に爆撃を加えるという意味にほかなりません。
 内田百閧フ「東京焼尽」を先日、読み終えたばかりですが、そこには空襲で東京駅が燃えた日の記述もありました。空襲という言葉は、私などには女親の口からくりかえし聞かされて生々しい感触があります。
 「空爆」というのは、湾岸戦争の時、同時通訳が英語から日本語への訳として「空爆」という表現を使い始めたのではないでしょうか?ひどく違和感があり、それを聞くたびに、ひそかに「それは空爆ではなく空襲でしょう」と言い直していました。

 「空襲」が「空爆」に変わってしまう。そういう言葉の変化の間には、そこに「断絶」があることを感じざるおえません。もし「空襲」という言葉が耳に親しい単語であれば、当然、同時通訳も「空襲」という言葉が口をついて出てくるはずです。が、そういう言葉が耳から遠くなっていた表れとして「空爆」が出てきたのでしょう。

 「空襲」を使用した例では、95年の阪神大震災の時の新聞記事が印象に残っています。「神戸は空襲を受けたようだ」という文字が複数の新聞に踊っていました。この時点で、終戦から50年たっていたわけですから、現役の新聞記者で空襲を身をもって知っている人はいないはずです。私と同じくらいか、ちょっと年上くらいの記者が「耳で聞いた実感をともなった言葉」として「空襲」という比喩を思いついたのでしょう。それから16年あまり。光陰は矢の如しで、新聞の一面では「空襲」よりも「空爆」という言葉のほうが幅を利かせるようになってきています。「空爆」は「空漠」と同音なのがいやに気になってしかたがありません。

 今日、我が家い届いた本
 富岡幸一郎氏の「新大東亜戦争肯定論」
 タイトルは刺激的ですが、内容には頷けるところがたたあります。「肯定」というのは「受け止める」ということだと著者はあとがきに書いています。戦争否定の言論に対峙するための「肯定」であるとのことです。
 著者のライフワークともいうべき評論。
 東京人9月号 「占領下の東京」特集
 戦争でもな戦後の特集でもなく「占領下」というところが新機軸でしょう。今まで「戦争中」と「戦後」の間にある占領期を特集した雑誌はあまりみかけませんでした。

 私にはこの二冊は「空襲」と「空漠」の間を埋めるようとする何かの力を感じさせる表題でした。

娘と買い物に

2006年08月02日(水)

 封筒や便箋を鳩居堂に買いに行きたいし、修理いだしたミュールが出来上がっているって言うからとりに行きたいし、世界史年表と日本史年表を選んで買いたいし、とか、ああでもない、こうでもないと思っていたら、娘が帰ってきました。(最近、うちの子供たちは夜になっても帰ってこないこともあれば、へんてこりんな時間に帰ってきて「あれいたの!」なんて言うこともあり)買い物に行くなら一緒にいきたあって、それって財布を連れて歩くって意味でしょ。

 しかし、娘が言うには、一緒にいったほうがおもしろ服をみつけられるということで、親子でふらふら買い物に行きました。(なぜか、ここでおばあさんは川へ洗濯にという桃太郎の物語の言い回しが頭に浮かぶ)で、蒲団を買いました。ぼろぼろだったのです。敷布団が。近所の蒲団屋さんはみんな店をたたんでしまって、綿の打ち直しをしてもらえるお店が一軒も見当たらなくなってしまったのでした。仕方なくスーパーで敷布団を買いましたが、ぼろぼろとは言え、綿はどうしたらいいのかしら?どっかに蒲団屋さんはありませんかね?

 それから、娘が見つけたのは台所の水切り。新調しようということになって、気に入ったものを見つけました。これは娘が一緒じゃないと見つからなかったかもしれません。なぜって娘のほうがこうした物品を買う時、慎重だからです。彼女は気に入らないと買いません。私は妥協します。こういう家の備品を子どもが見つけてくれることに、なぜか大満足!肩の荷が下りるような気分の軽さを味わいました。で買わされちゃったんです。10000円もするジーンズ。やれやれ(なぜか、いつもめでたし、めでたしにならずに、やれやれで、この御伽噺の口調はお終いになる)

 戸外の闇の向こうから、川越街道のアスファルトをはがす工事の音が聞こえています。電線の地中化工事です。川越街道は、自衛隊の朝霞基地と練馬駐屯地があるので、アスファルトは50センチくらいの厚さで敷き詰められています。戦車が通ってもいいようにということみたいです。知らなかったのですが、戦車というのはキャタビラをはずしてタイヤを履かせることもできるのです。でも重いのには変わりがないので、道路は頑丈に作ってあるみたい。それと買い物がどう関係するかって言うと、まったく関係ありませんが、「やれやれ」っていう感じでアスファルトを引っぺがす音がなんとなくシンクロして、頭の中で響いています。

お母さんの買い物籠

2006年08月01日(火)

 買い物籠ってみなくなりました。どこでもレジ袋が当たり前で、手ぶらで、いや財布だけ持って買い物に行って帰りはレジ袋を提げてくるというのがいつものスタイル。家には築地で買った買出し用の籠がありますが、もっぱら調味料入れになっています。これは大から小まであってかさねられるので便利だけど、これを下げて買出しということもありません。

 あとフランフランで買った紺色のキャンバス時の買い物袋がありますが、こっちはいつのまにかスーパーファミコンが収納されています。それに冷凍食品などを入れる保温用のコーティングがされた手提げ。これはどこかからのもらいものですが、夏の買い物でお魚や冷凍食品を買う場合はけっこう重宝しています。

 私が子どもの頃は、お母さんというとカーディガンにスカート。エプロンを締めて買い物籠を下げているという絵がかかれていました。お母さんに買い物籠はつきものだったんです。八百屋さんや魚屋さんでは品物を新聞紙にくるんでくれるし、お肉屋はちょっと上等で、お店の包み紙にくるんでくれました。それらを買い物籠に入れておうちに帰ってくるというのが一般的な買い物スタイル。

 いつも台所にあった買い物籠を思い出そうとしているのですが、素材や色、形は不確かな記憶しかないのに、それがひしゃげていたのは鮮明に覚えています。買い物籠も代替わりして、幾つかあったのですが、なぜか、どれも同じようにゆがんでひしゃげてました。85年頃まででしょうか?買い物籠を下げて買い物に行くことがあったのは。バブルが始まる前までは、スーパーもありましたけれども、個人商店の結構多くて、かたちだけでも買い物籠を下げている時がありました。もう20年も前の話ですから、今の20歳くらいの人は買い物籠なんて見たこともないという人もきっといるでしょう。

 すごく小さい時に買い物籠に入って遊んでいたら、「そんなところに入っていたら市場で売られちゃうよ」といわれました。

今年は冷夏なのかしら?

2006年07月31日(月)

 ようやく関東も梅雨があけました。梅雨前線が消滅してしまったそうです。西のほうは関東よりも早く梅雨があけたそうですから、お野菜がなんとなく安くなってきました。熊本の伊藤比呂美さんも雨から開放されたのでしょうか?伊藤さん?元気?

 梅雨があけたと言ってもなんとなく涼しい風が吹いています。天気予報によると、来週から猛烈に暑くなるということですが「ほんまかいな?」っていう気分です。こんなで頭はぼうっとしていて、今日は約束を完全にひとつ忘れてました。ごめんなさい。

 

とうとうまる坊主に

2006年07月29日(土)

 25日に書いた向こうの丘の雑木林と赤松の木ですが、途中まで刈り込むようだというのは私の希望的観測に過ぎませんでした。その日のうちにとうとう丸坊主になってしまいました。その写真をアップしたかったのですが、デジカメの調子が悪くて、アップできません。何が起きたのか解らないのですが、電源が入りっぱなしになってしまいます。それで、バッテリーの電気がどんどん、なくなってしまうという状態です。

 まあ、ともだちみたいな松の木がなくなって赤土が丸出しになっている崖なんて見たくもないでしょうから、写真をアップできなくってちょうどいいのかもしれません。そばを通りかかったら、大きな松の木の切り株がちらりと見えました。思っていたよりもずっと大きな切り株でした。ここに住んで25年くらいになります。50年くらいの年輪なのでしょうか?もっとありそうな気もします。でも、そばに行って確かめる気もしません。こんなふうに、消えてなくなるのを見たくなくて、目をつぶるようにして、見えなくなってしまった景色が東京近郊にはたくさんあるのでしょう。

 それにしても松の木はそれからどうなるのでしょうか?だたのごみになってしまうのかしら?前に陶芸をやっている人の話を聞いたところ、登り窯を炊くには赤松の薪がいいのだそうです。薪なんて勿体ないくらいの立派な松でちゃんと製材したら、良い板や柱が採れるでしょう。たぶん、そういうことはしないのだろうなあと思います。探す人は探しているのに、いらない人には処分するのにお金がかかるゴミになるという感じなのかなあと赤向けの崖をちらりちらりと眺めています。
 
 ことしの冬は寂しいだろうなあ…………。

丘の上の松の木

2006年07月25日(火)

 曇り空、霧雨、曇り空、雨、雨、雨、大雨。毎日、重ったるい曇り空が続いています。この雨降り続きのお天気の中で、家の向かいの丘の上で、なにやら工事が始まりました。昔は畑だった丘です。今の家に住み始めた頃、丘の上の畑に二宮金次郎が、あの薪を背負って本を読んでいる金次郎さんがぽつんとたっているのを見つけました。きくところによると、その畑はもともと小学校の校地だったそうです。

 畑はしばらくすると駐車場になりました。が、畑を取り囲む傾斜地は雑木林のままでした。雑木林の中に一本の赤松が幹を少しだけくねらせて立っていました。夏は緑に覆われて目立ちませんが、雑木林の木々が葉を落とす冬になると、暖かそうな幹の色と、常盤木と呼ばれるに相応しい緑の濃い色が目立ちました。
 私はこの松の木が好きでした。嫌なことがあった時にはただばんやりとこの松の木を眺めていると、気が落着いてきました。その大好きな松の木も霧雨の中で働く黄色い重機に切り倒されてしまいました。雑木林の樹木を伐採して、林の大きさを斜面の半分ほどにしている様子です。切り倒されなかった木の向こうに、赤松らしい幹が横たわっているのがちらりと見えました。
 見に行ってみようかとも思いましたが、なんだかそれも切なくなりそうで、遠く響いてくる工事の音だけ黙って聞いています。

 ここからは聞いた話になりますが、私のすむ集合住宅は谷底にたっています。いや、谷底というよりは河原にたっているといったほうがいい場所です。真ん中には川岸をコンクリートで固められた川が流れています。この川は昔は武蔵野を流れる野川のひとつだったそうです。野川というのは、ふだんは小さな流れなのですが、ひとたび雨が降ると河原いっぱいに流れ出す川のことをそういうのだそうです。ですから、広い河原があります。私の家はその河原に建てられています。緑の生い茂った河原に水があふれて流れる光景はさぞ見事だったろうと、聞いただけの話を想像してみることがあります。清らかな水には川魚もたくさん住んでいたそうです。

 松の木がなくなって、というよりも、松の木がいなくなって、さびしくなりました。もう、そろそろ、この昔は野川の流れる河原だった土地を離れて、どこかほかのところに行くほうがいい時期が来ているのかな、と小雨にもかかわらず働き続ける黄色い重機を見ながら考えこんでしまいました。

奥歯のカチカチ

2006年07月23日(日)

 右の奥歯を抜いたのは東京新聞に「楽隊のうさぎ」を連載していたときでした。あんまり痛くて、思い切って抜いてしまいました。それから、左の奥歯の下の歯がなぜかはれ上がったのは、いつだったか?評論家の秋山駿さんと恒例の温泉に行く会で、鬼怒川温泉に行った時ですから、かれこれ3年も前です。このときの痛みは強烈でした。が、あとから歯医者さんに聞くと、「死んでしまう人もいる」ような恐い状態だったそうで、ほんとにたまげました。

 この左奥歯下の歯の痛みに懲りて、こつこつと歯医者さんに通ったのですが「うさぎとトランペット」の連載が始まって、いつしか歯医者さんを忘れました。それより前に抜いた右の奥歯上の歯は歯抜けのまま。そうこうするうちに今度は左の奥歯の上の歯が痛み始めました。さあ、たいへん、こんどこそは、最初に抜いた右の奥歯上の歯もなんとかしなくては!と歯医者さんに通い始めたのが昨年の暮れ。ようやく、ようやく、7年ぶりに歯が全部、治りました。でも、ずっと抜けたままにした歯があったために上の前歯が、まるで「うさぎ」みたいにちょっと隙間が出来てしまいました。

 その隙間ができた前歯を歯が白くなるという歯磨き粉を買ってきて磨いています。ぴかぴかになるかしら?なぜかその歯磨き粉で歯を磨くたびに、東京會舘で遠藤周作さんと安岡章太郎さんが歯ブラシの話をしていた場面を思い出します。何の会合の時だったか?安岡さんも沿道さんもゆったりとソファに座って、その頃はまだ珍しかった電動歯ブラシの使い心地について、熱心に話していました。

 入れたばかりのブリッジはまだ口の中に納まらなくて、居心地が悪そうにしています。カチカチと文句を言っています。

志賀信夫さんからメール

2006年07月20日(木)

 ダンスが見たい 批評家推薦シリーズの志賀信夫さんから以下のようなメールを頂きました。このメールによると三日目の夜のステージもなかなかおもしろかった様子です。行けなくて残念。

「先日は本当にありがとうございます
 二日目、トーク本当にみんな面白かったとあとからも感想が来ました。

 あれでよくわかったという人、あれが印象に残り舞台を忘れた人までさまざまですが、初めて見た人以外にも好評でした。なおかつ二日目の打ち上げ、会場探しに走らせてしまってすみません。やはり打ち上げ会場確保は必要でした。

 三日目の森さんのソロもとっても面白かった。紋付きにゲタ、竹の筒を二つ竹馬のように操ったり、さらし首っぽいイメージを作ったりと多様。音楽がバルカンっぽい早い曲とバロック。
 三人のコラボは基本的に二日目の形だけど、阿部さん、福士さんが結構大胆にソロを主張して面白かった」

ダンスが見たい8 批評家推シリーズ

2006年07月19日(水)

 福士正一さん、森繁哉さん、阿部利勝さんの舞踏を二晩続けて見ました。最初の晩は阿部さんのソロと福士さん、阿部さんのデュエット。予定はでは森さんも加わるはずでしたが、都合がつかず、急遽、福士さん、阿部さんのデュエットになりました。

 阿部さんのソロでは「田植え機のダンス」がすごく魅力的でした。「一年の数日、働いてもらうために、借金をした」田植え機。田植えの様子を踊るのですが、たんに田植え機の動きを真似ているというのではなく、田植え機の動きが身体に乗り移っている感じです。お神楽に田植えの所作がありますが、阿部さんの舞踏は、現代版のお神楽みたいに、動きが明るくて軽やかです。
 身体付きも中心線がまっすぐに通るところに筋肉がしっかりと付いた感じで、現代的な身体性を感じさせます。ふつかめのアフタートークで話題になったのですが現代の農業では腰をかがめる作業というのはだんだん少なくなっているのだそうです。福士さんとのデェットの時にあったしこを踏む動作なども田植え機に通じる明るさと感じました。「明るい」というよりも「めでたい」といったほうが適切でしょう。「めでたい」身体の動きにはおかしみに通じながら神々しさもありました。土方巽の孫弟子にこんなにめでたい身体と動きと表情を持った人で出てくるというのは、私にとって大発見でした。
 
 福士さんとのデュエットでは、同じ舞踏でもこんなに異なる身体が出来上がるのかと見つめてしまいました。福士さんの舞踏はひとことで言えば「不気味」になります。でもこの「不気味」は単純な不気味さではありません。背中を思いっきりそらせた姿勢での動きは、足を消し忘れたために不自由な動きを強いられる幽霊を思わせます。もちろん、背中をそらせれば誰でもそういう感じが出るというわけではありません。荒川静香選手のイアンバウアーを見て幽霊を思う人はいないでしょう。福士さんの舞踏は身体をそらせることで雪国に住む霊(スピリット)を招きよせているかのようです。ですから、阿部さん、福士さんのデェットは「いる人」と「いない人」が組んで踊っているかのようでした。「いない人」という言い方をしたのは、不気味な幽霊みたいに見えるだけでなく踊っていると様々は霊(スピリット)が招きよせられてくるように感じられるからです。

 翌日は福士さんのソロ。前半は身体をそらせた不気味の舞踏から、中盤、何か無邪気なもの、生まれる前の赤ちゃんみたいの動きへ、進んで行き、舞台にあったオブジェ(春巻きの皮で作ったものだそうです)を観客席にばらまくところは、道路劇場で、思いがけない通行人を巻き込んでしまう場面を彷彿とさせました。福士さんの今にも手足がばらばらになってしまいそうな柔らかい身体の動きをいつ見ていても、不気味だけど触ってみたいくなります。いったいどうなっているんだろう?と子どもみたいな気持ちにさせられるのです。

 後半は森繁哉さんが加わり、3人での舞踏。森さんは腰の曲がったお婆さん。安倍さんは白いシャツのお父さん。福士さんは学生帽に半ズボンの子ども。森さんの腰の曲がったお婆さんの舞踏は、身体の底から動きたい、動きたいと突き上げてくるような衝動を感じさせるもので、独特の動きでありながら、お婆さんをリアルに観察している眼も感じさせるものでした。三人がひしひしとご飯を食べる場面では福士さんの帽子が飛ぶというハプニングもあって、開場から笑いが漏れていました。森さんが加わることで人間がひしめきあって生きている感じが、ものすごく濃密に伝ってくる舞台になっていました。3日目の森さんのソロも見たいかったのですが、残念ながら3日目はすでに予定が入っていて出かけられませんでした。

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