喉元を過ぎれば熱さをわすれる
2006年08月24日(木)
「羹に懲りて膾を吹く」のも「喉元過ぎれば熱さを忘れる」のも、同じようなものだと言えば、そう言えるのですが、なんだか、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」というのは、「恥だ!」という気がします。きっと子どもの時にそう言い聞かされたせいでしょう。「羹に懲りて膾を吹く」というのは滑稽な気もすれば、困ったなあと思うこともあるのですが「恥だ!」というふうには感じません。
日本の軍備についてや憲法九条の議論ができなかった背景には「羹に懲りて膾を吹く」ような社会的雰囲気がありました。それが崩れたのが湾岸戦争でした。が、それ以前にベルリンの壁の崩壊と東西冷戦の終結があり、その流れが影響していたことは間違いありません。後からみればベルリンの壁の崩壊は、日本の政治的タブーをも崩壊させたのだと言えるでしょう。
日本国内の雰囲気が大きく変わったなと感じたことが三度ありました。一度目は95年の阪神大震災とオウム真理教事件の時でした。村山政権時代です。もし首相が社会党でなかれば、阪神の震災の現場にもっと早く自衛隊が出ていたと思いますか?と何人かの人に質問をしたのですが、かんり左の考えの人でも答えは「イエス」でした。二度目は山一証券が廃業した97年。金融危機の年でした。橋本内閣だったと思います。そのあと、小渕内閣で、小渕首相が急死するというアクシデントもあり森内閣から小泉内閣へという流れになりました。2000年に小泉首相が圧倒的な支持を集めた時、やはりこれは大きく変わったなと思いました。
で、いつごろから「喉元過ぎれば熱さを忘れる」現象が起きたのか?ということなのですが、私の考えでは「羹に懲りて膾を吹く」よりも前なのではないかという気がこの頃しています。2002年のワールド・カップの時にプチ・ナショナリズムなんて言い方がありましたが、表面的にはそのあたりから、ナショナリズムの雰囲気が出てきたように見えますが、実際はそれよりもずっと前からではないかと思えるのです。最近、よく悪口を言われる「一国平和主義」とか「平和ボケ」と言われる時期に日本は特別だという感覚は強く出ていました。それが、なんと言ったらいいのか、今はもっと単純になって軽薄ナショナリズムというような雰囲気をかもし出すようになっているなと感じます。
「プチ」までは許せるけれど「軽薄」は許せないと、たまに思いながら、その境目はどこにあるのだろうと考え込んでしまします。
羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く
2006年08月21日(月)
1978年という年に大学に入りました。同じ年に群像新人賞を受賞しました。この年から文芸雑誌を原稿料を受け取る側から眺めるようになったのですが、江藤淳の無条件降伏及び戦後文学の関係する発言に本多秋吾、大江健三郎などの反論があり、論争になった年でした。 同じ年にA級戦犯が靖国神社に合祀されていたことが翌年わかりました。東京裁判のドキュメンタリー映画を試写で見たのは1983年だったと思います。娘が生まれたばかりで、試写を見るのは身体的にかなりしんどい作業でした。具体的に言うと、乳飲み子がいたので乳房が張ってしまっうという状態でした。
バルブ経済と後に呼ぶような好景気が兆しを見せ始めたのは1985年のプラザ合意あたりからです。1988年には昭和天皇の病状が悪化し、翌年に崩御します。バブル経済真っ只中で、天皇崩御に伴う臨時の休日にスキー場を超満員になったニュースの映像を覚えています。同じ年、韓国でオリンピックが開かれ、韓国が経済的なテイク・オフを果たしたことが、国際的に認められます。中国で六四天安門事件がおきたのは89年のことでした。同じ年の秋、ヨーロッパではベルリンの壁が崩壊しました。
こうして現在から振り返ってみると、日本国内ではさながら「羹に懲りて膾を吹く」という状態が出来上がっていたのです。極端な左翼の暴力的な運動はひとまず落着いていましたが、言論の世界は完全に左寄りになり、なんといったらいいのか?まあ、面倒なことは全部ばかにするか嘲笑するという雰囲気がありました。国外を見れば、中国は文化大革命から開放経済への道を進み始めて、大衆がそれまでと違った形の政治発言をするようになってきました。韓国でも80年に起きた光州事件の参加者の名誉回復が85年頃からなされるなどで、言論の自由化が進んできます。今の靖国神社の首相参拝を巡る問題はほとんどこのあたりで提起されているのです。
文学は読者の心情に訴えるという性格を持った表現芸術ですから「羹に懲りて膾を吹く」状態の方向に追従して行きます。私個人としては80年もしくは85年くらいに戦後という時代はほんとうに終わったのだと思っています。私の手元にある講談社の「戦後日本文学史・年表」では昭和53年(1978年)が最後の年になっています。最後の年には私の名前も入っているので、なんとなく複雑な気持ちでこれを眺めています。
「羹に懲りて膾を吹く」時代が終わって、冷静な議論ができればいいのですが、どうもそうではないらしいような雰囲気もあります。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」というような時代が、1990年8月に起きたイラクによるクェート侵略から始まる湾岸戦争あたりから始まります。ちょっと前に「豆の葉」に書いた「空漠」という言葉が発明されたのも、湾岸戦争の時でした。「空襲」という当たり前の言葉が、同時通訳の頭には浮かばないほどの状況があったのでした。
ぶつぶつ
2006年08月18日(金)
ネットの無責任な書き込みにいちいち反応していたらきりがないのは重々承知ですが、昨日、首相の靖国参拝関係の掲示板を見ていたら「靖国には、女に口を出させるな」なんて書いているばか者がいました。釣りかもしれませんけど思わず「なんたる無知」と憮然としてしまいました。たぶん30代か20代の人でしょう。あるいは10代かな。
40代だったら、たいていは靖国の母とか靖国の妻なんていう言葉を知っているはずです。そうそう島倉千代子の「東京だよ、おっかさん」もありましたけれど、ま、あれはちょっと違うか。戦争未亡人と戦争で頼りの息子を失った母親がいなかったら、靖国神社はアメリカ占領時代になくなっていたに違いないのです。私はそう思います。
友人が新潮8月号に書いた短編小説「ブルーバード」をすごく褒めてくれました。で、褒めてくれたのに文句を言うのは気がひけるけれども、その時「やぱっり30年代ブーム」って意識しているでしょう?と言われて、意地になって「そんなことない」って否定してしまいました。人が自分が生きてきた時代について語りたいと思うのは当たり前のことで、かつ大事なことなのにブームなんて言うのが気に入らなかったのです。
30年くらいの時間は、生きている人が過去を振り返るにはちょうど良い時間なのです。40年たつと往時茫々という具合になってしまいます。それで昭和30年代を今振り返っているのは、少し遅いのです。というよりももしそういうものを「昭和30年代ブーム」と言うのなら、実はもう30年前の昭和50年代後半にそれがありました。「じゃりん子チエ」とか「三丁目の夕日」なんて漫画が週刊アクションに連載されていた頃です。
その少し前には戦後を振り返るということが盛んにされた時期があって、この場合の戦後は昭和20年代でした。サンフランシスコ講和条約くらいまでです。写真集などが書店に出回っていて、売れ行きもよく、私は高校生でお金がなかったので目を皿のようにして立ち読みしました。学校の日本史は明治時代で止まっていたので、珍しかったのです。
だから今の「30年代ブーム」というのは、二度目なのです。で、これが二度目であるのには理由があると思います。一回目は古き良き時代を懐かしむためのブーム。取り戻した平和を愛しむような一回目です。敗戦後の興廃のあとに来たものを見る視線がそのにあったのでしょう。今は、現在から30年代の持っていた意味を問い直すようなブームだと見ています。同じ時代が二度回顧されるというのは、なかなか珍しい現象でしょう。そこには特異な時間間隔が動いています。
前述の靖国に関する無知蒙昧な発言などはこういうこうした特異な時間間隔が作りだした無知であるように思えます。蒙昧のほうはご本人の責任でしょうけれども。
ばかサヨ ばかウヨ
2006年08月17日(木)
ばかサヨとかばかウヨとかいう言葉が飛び交う議論を眺めてうんざりしています。なんのことを言っているのかは、だいたい見当がつくと思いますが、首相の靖国参拝をめぐる議論です。
子どもの時「ばかって言ったら、ばかって言った人がばかなんだよ」と教えっれて、「お前がばかって言ったから、お前のほうがばかなんだ」と言い、「お前だったばかって言ったじゃないか、ばあか」と言い返されて、「ばか、ばか、ばか」「かば、かば、かば」という応酬になったのを思いだします。
私は基本的には首相は靖国参拝すべきだと思っています。ただし、今のA級戦犯が合祀されている靖国神社に参拝すべきではありません。A級戦犯を合祀した靖国神社の歴史観は戦後に日本政府の歴史観とあまりにもかけ離れているからです。そんな政府の首相が来ると言ってもうれしくないだろうというほどかけ離れています。だから、ほんとうは靖国神社が首相に来てもらわなくてもいいと断るのが筋だと思ってます。
中国、韓国に言われたから靖国参拝をするのはけしからん式の世論調査をよく見ますが、この形の世論調査は中国、韓国の言い分をまったく無視してただ「文句を言っている」という事実だけをクローズアップしてしまいますし、へたをすると「弔いより商売だ」という俗論を定着させかねない危険を持っています。中国、韓国の言い分には戦後の外交の歴史が含まれているのです。 中曽根元首相が言うように、首相が靖国神社に参拝出来る状態を作りだすというのが、ほんとうに政府がやるべきことなのではないでしょうか?
「ばかサヨ」なんていう言葉を生み出した左翼はもともと唯物論に近い考え方が主流でしたから、人を「弔う」「追悼」するという点の理論には大きな弱点を持っています。「ばかウヨ」なんていわれる右翼は、心情的感情的要素が強くて「弔う」ことの背景にある論理を説明することが下手です。日本の戦後社会では理屈や理論は左翼が作り、心情や感情は右翼が代弁するという分業じみたところがありましたが、これがだんだん崩れてきたのが「ばかサヨ」「ばかウヨ」の応酬を生んでいるのでしょう。
右翼は戦後の社会が、精神を忘れたといって嘆き、左翼は戦前を引きずったままの社会制度が残っていると戦後の社会を攻撃しました。いずれも「戦後社会」を認めていないのです。あたり前の話ですが、戦争中は武官、つまり軍人の時代ですが、戦後は文官、外交官、通商関係者の時代だったのです。靖国へ首相参拝はそうした戦後の歴史に目を向けるきっかけにはなったのでしょうか?そうだと良いのですが、自民党の加藤紘一議員の自宅焼き討ちなどの事件は「ばかサヨ」「ばかウヨ」の応酬ではすまないいやな事件です。
こうした事件は被害者が同情をかう場合もありますが、今回はむしろ「無言のプレッシャー」を生み出す方向に作用しそうなところが恐いところです。もちろん、加藤紘一議員はこれまでと発言を変えないでしょう。しかし、それ以外のなんとなく加藤議員に賛成してみようかな程度の人々は薄気味悪さに発言を控えるようになるかもしれません。それが、この事件のもっともいやなとろこです。
しばらく忘れていた惨事
2006年08月14日(月)
たぶん先週だったかと思いますが日経新聞の夕刊コラムに白石公子さんが、朝、おきてパソコンが作動しなかったらどうしようかと書いてました。ここしばらくその種の惨事を忘れていたところ、本日、午前中から大騒ぎが発生。
お盆ということで珍しく(たぶんふだんしないことをしたせいでしょう)息子と娘がお仏壇にお線香をあげにきました。で、先月、鶴岡でいただいた華蝋燭をともそうということになって、朝顔の絵がかかれた蝋燭をともしたのです。そこまでは良かったのですが、次の瞬間、なぜかコーヒーがこぼれて(怪奇現象ではなく、私がカップに手をぶつけたのです)、キーボードはコーヒーに浸されてしまいました。
で、キーボードの入力ができなくなって、これはだめかもしれないと、群像編集部に電話。締め切りだったんです。で、電話に出たのが担当の須藤さんではなくて旧知の山口さんで、キーボードって濡れるとだめなんですってな話をして、山口さんの体験通りの症状が出ているいましたが、値段はそんなに高くないことがわかったので急遽、買いに行くことにしました。
で、これまた珍しく息子が買い物についてきてくれて、以前から欲しいと言っていてルーターなども買ったのが、これが二度目のトラブルの素。キーボードは動作が不安定だし、ときどきカソールが動かなくなっちゃうし、頼みの綱の息子は飲み会に行ってしまうしで、なんだかまだごちゃごちゃしています。
東京東部では大停電があったそうですが、ううん。うちはそれどころじゃない。焦ってます。で、トロンはちゃんと動きそうなんだけど、なんだか不安でいっそのこと原稿は手描きしちゃおうかなとか、ま、その印刷が生きているうちにすり出して、途中から手描きにかえるぞって構えだけは作っておきました。
というわけで群像の須藤さん。メールはちゃんと届いています。が、しかし、データではなくて手描き+ファックスの原稿が行くかもしれません。ああ、あとでメール書きます。それまでちゃんとPCが動いていてくれたらメール書きますが、ダメだったら明日電話します。すみません。ごめんなさい。
手が書く
2006年08月13日(日)
フードジャーナリスト、というよりもエッセイストと言ったほうがいいかもしれませんが、平松洋子さんにお目にかかった話は以前、ここに書きました。現在、発売中の「表現者」8月号にインタビューが掲載されています。平松さんとのお話の中で「手が書く」ということがでてきました。「手が書くのを頭が追いかけるくらいがちょうど良い」という話です。
手が書くというのは、平松さんのエッセイを読んでいるとお料理のレシピがしぜんに伝わってきて、お料理が出来てしまうということから出てきた話です。身体で覚えこんで納得したことを書くという意味です。例えば水餃子などは、納得が行くまで毎朝、自分で作った結果でエッセイを書いているから、読んだだけで、自然に餃子の皮つくりができるのです。この「手が書く」文章が美しいというのは昭和の文学が生み出した最大の美学だったと私は思います。
私小説がよく読まれ、またよく書かれたのは、頭で考えて書くのではなく、肉体に刻み込まれたものを「手が書き」それを「頭が追いかける」という作業を追及した結果だったと言えるでしょう。文語文から美文へそして口語文への流れの中で、文学は欧米の文学の模倣をしなければならなかった結果として、より身体化された言葉を求める流れが出てきたのでした。その良き結果が、平松洋子さんのエッセイに現れているということになります。
水餃子やキムチならそれで良いとして、これが人殺しになると、身体で納得して書くというのはたいへん無謀なことになります。小説家として言えば、一方では身体的な納得のある文章を求められながら、また一方ではとうてい個人としては体験しえない、あるいは体験してはならないテーマを描かなければならないというジレンマを昭和の終わりの作家は背負っていたという感慨を思えます。島田雅彦や松浦理英子さんの仕事には、扱うテーマは違ってもそうしたジレンマを感じさせられるものがたくさんあります。「手が書く」という美意識の限界点での悪戦苦闘はそこにはあるわけです。
現在、私小説の延長の仕事をしようとしている作家が何人かいますが、それらの人々は「手が書く」ということの延長で、文章の美意識を磨いているかというと、そうではないような気がしています。それよりはプライベートな感情を書くことに魅力を見ているのではないでしょうか?一口にプライベートな感情を書くと言ってもそのスタンスはいろいろであることは言うまでもありません。が、「手が書く」という美意識とはひとまず切り離されているということをここでは書きたかったのです。
来年、静岡新聞で、歴史小説を連載するために遠藤周作の作品を纏めてよんでいます。生前、遠藤さんは日本の文学が「手が書く」私小説に占領されていたことを嘆いていたと聞いています。広い意味での戦後の文学というものは、個々の作品としては読んでいても、全体の流れを自分なりの体系の中をおき直すことが出来ませんでしたが、「手が書く」という美意識の臨界点での戦いというイメージを持つと、何かが少し整理できるような光を見出しています。
デジカメ壊れちゃった。
2006年08月12日(土)
夜中に突然、デジカメのスイッチが入るという怪奇現象が数ヶ月前から続いていました。なぜデジカメのスイッチが入ってしまうのか、原因はわからないのですが、知らない間に電源が入ってしまうので、バッテリーの電気がすぐになくなってしまいます。
こんな怪奇現象で困っていたところ、なぜか、今度はスイッチが切れなくなってしまいました。「ON」でも「OFF」でもずっと電気が入りっぱなしの状態。こういうのってカメラ屋さんに持っていったら修理してもらえるのでしょうか?ともあれそういうわけで、写真がアップできなくなってしまいました。
そうそう、夜中にぼうっと犬ちゃん(06年1月の「豆の葉」参照)の顔が写ったことがありましたから、怪奇現象はもう8ヶ月も続いていたのです。もっと早くにカメラ屋さんに持って行けばよかったと後悔しきり。
歌舞伎座立ち見
2006年08月10日(木)
台風が太平洋の沿岸をなめるように進んで銚子沖に去った日の夕刻、歌舞伎座の立ち見に行ってきました。8月の歌舞伎座は三部制。勘三郎が出ていないのがちょっと寂しいのですが。歌舞伎の話ではなくて立ち見の話です。8月は海外からの観光客が多くて、立ち見もやっぱり外人さんだらけ。
一幕800円なんので、日本のお芝居をちょっとだけ見ようというにはちょうどいいのでしょう。私も時々、海外からのお客様を案内したりしますけど。それで、若いお嬢さんが20人も外国人を連れて、チケットを買う行列に並んでいました。立ち見は予約もできないし、チケットはひとり一枚しか買えないので、並ぶよりほかに方法がないのですね。で、この日は、いつも立ち見の行列ができる場所は、3階席のチケット引き換えのお客さんの行列ができていて、立ち見の行列は4階に通じる階段のほうに並んでいました。
で、私の前にはやはり金髪、茶髪、青い目の外国人のお兄ちゃんが4、5人並んでいたのですが、この人たちは巨大なピザを持参していました。いったいどこでアメリカンサイズのピザを買ったのだろう?しかも焼きたてでチーズがとろけているやつでした。で、立ち見のチケットが売り出されるのを待っている間に、この巨大ピザを食べていたんです。階段の踊り場なので雨にも濡れないし、下は絨毯だから旅行中の経費節約としてはなかなかです。なんだか感心するようなたっぷりでした。
こんな感じだから立ち見の4階席は、笑う場所が3階までの客席とは違うのです。で、驚いたのは上海にいるはずの中国人の知り合いにばったりであったところです。親戚の男の子を連れて東京に戻ってきたばかりということでした。歌舞伎座って、思わぬ人にばったり出くわす場所でもあります。
それで何を見たかというと、「里見八犬伝」です。かなり大急ぎの「里見八犬伝」でした。なにしろ短く切り詰めているから。
電車の中の広告
2006年08月08日(火)
電車の中の広告を見ていると世の中ずいぶん変わったなあと思います。私が大学を出る頃に、電車の広告で一番多かったのは結婚式場でした。団塊の世代が結婚適齢期にさしかかっていたからです。今は大学の広告。昔は予備校の広告は載っていましたが、大学の広告はありませんでした。それから債務整理などの弁護士事務所の広告。弁護士事務所は法律が改正されて、広告を出しても良いことになったのだそうです。結婚式場の広告はめっきりと減りました。
電車に結婚式場の広告がたくさん載っていた頃、結婚式って評判が悪かったんです。まずお料理がまずい。花嫁さんのお色直しが多すぎる。余興があまりにも素っ頓狂で演出過剰だなんていわれてました。たしかにドライアイスの煙がもくもく流れるなか、天井からゴンドラにのった新郎新婦登場なんて演出もありましたから、評判が悪くても当たり前でした。
先月末に横浜のニュー・グランド・ホテルに3日ほど滞在していた時、中庭で写真を撮影している花婿さん花嫁さんを見かけました。韓国ではさまざまなポーズの記念撮影をする花婿花嫁をみかけましたが、日本でもそれが流行りだしているというのでしょうか。結婚式を挙げる人が少なくなったので、そういうちょっとした手間のかけられるようになっているのかもしれません。 この頃、結婚式にお呼ばれすると、お料理がおいしくなっているのに感心します。バブル時代に上等なお料理の修業をした人が結婚式場に回ってきている感じがします。結婚式の悪口を聞かなくなりましたけど、それだけ洗練されてきたのですね。
さびしくなったのはお葬式。葬儀会場でのお葬式が当たり前になりました。自宅から出すお葬式というのはほとんどありません。なれた葬儀屋さんの手で、さっさと運ばれて所持万端滞りなく進んで行くというお葬式になりました。まあ、やたらにけんかが勃発して、買わなくてもいい恨みをかったり、古傷がうずきだすような騒動があっちでもこっちでも起きるというお葬儀にうんざりした結果が、葬儀場を使ったすっきりとしたお葬式を作り出したのかもしれません。
日大の卒業生の結婚式にお呼ばれしてきました。お婿さんもお嫁さんも幸せそうな結婚式でした。私の隣の席にいたお婿さんの友人が「ううん、結婚式ってちょっとびびりますね。こんなにたくさんの人の目を集めちゃうんだから」なんて言っていました。実は昔からなぜ男性は結婚式にびびってしまうのかが、私にはよく解らないのです。というか、びびることそのものに腹がたってしまうのですが、今度は、そう言っているのが元ゼミ生なので、腹が立つよりは、「どうして?」という疑問のほうが大きくなって、ちょっとだけびびるわけみたいなものが解りかけたような気がしました。まことに学生といものは、たとえ卒業しても教師をよく教育してくれるものです。あれが元学生じゃなくて、たんなる男友達だったらやっぱり今でも腹がたったに違いないのです。
皇太子殿下のお届けもの
2006年08月07日(月)
いつもの花屋さんへ行きました。先週、買った越後津南町の百合の花が全部咲いて、散ったので、新しいお花を買いに行ったのです。すると花屋さんの御夫婦が、なにやら、「へえ」とか「さあ、どうしようか」とか話をしていました。「なに?なに?なに?」と野次馬根性で事情を聞いてみると、皇太子殿下からのお届けものの注文がほかの花屋さんからまわってきたとのことでした。
お花は近くの花屋さんから届けてもらったほうがきれいなので、私たちも花束やバスケットなどを届ける時も花屋さんから花屋さんに連絡を入れてもらって届けることはよくあります。だから皇太子殿下も同じことをしても不思議ではありませんが、やっぱり、なんかどれどれ、どんなお花を届けるのかな?って気になります。
お届けものはどうやら新盆のお供えのお花のようです。白い菊を竹篭に縦50センチ横65センチにに挿して、中央に「皇太子殿下」という木札を建てるというのが図で示してある注文書を見せてもらいました。木札の サイズまで指定があったので、花屋さんは木を切ってトノコで磨きをかけてました。これで「皇太子殿下」の文字がしょぼかったら、情けないということで、お習字を習っている奥さんが文字を書くということでした。 「こんな字書いたことがないから、練習しなくちゃ」 ですって。
いろんなところにお届けものをするのに、違いがあってはまずいということなのでしょうか?頼むほうも頼まれるほうも「なに、なに、なに」です。 花屋さんは「これじゃあ、詰まんない」って言いながら指定どおりの花かごを作っていました。詰まんなくても、あっちのほうが大きかったとか、花の選び方がいいとか悪いとか、物議をかもすよりいいのでしょう。「有職故実」なんかもあるのかもしれません。
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