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中沢けいコラム「豆の葉」
   
 

人が減って動物が増える

2006年09月10日(日)

 政府の統計では昨年はじめて日本の人口は減少に転じたのだそうです。旅行をしていると人の住む家が増えたなあと思います。人口が増えただけではなくて、以前よりも生活が豊かになり、良い家に住むようになったことも原因しているのでしょう。これから人口が減って行くと日本の景色というのはどう変わって行くのでしょうか?

 盛岡の駅前の高層マンションが出来ていました。そのマンションの記事が今朝の読売新聞に載っていました。以前、青森で駅前の高層マンションが出来たときに聞いて話では、雪国の駅前マンションは高齢の人に人気があるのだそうです。なにより、真冬の雪下ろしが必要ないというところが魅力で、これまでの家を手放して入居する人が多いのだそうです。

 人は減っても、動物は増えているそうで、今年はまた熊があっちこっちで出そうですが、鎌倉では台湾リス、ハクビシン、それにアライグマが増えているという話を聞きました。私の知人は夜、池に写った月を見ようと、池の中を覗き込んだところ、アライグマが飛び出してきたそうです。池の金魚や鯉をとって食べるのだということでした。「月とすっぽん」じゃなくて「月夜のアライグマ」なんて。鹿が増えたとか、猪が増えたなんて話も聞きます。

 地方都市で駅周辺のマンションに人がかたまって住むようになると無人になるところが当然あるわけで、そこには動物がぞくぞくと集まってくるようになるのでしょうか?私のお婆さんになる頃は、家の周囲で猪に追いかけられたり、たぬきに騙されたり、アライグマに襲撃されたりするようになっているのかしら?

龍泉洞

2006年09月10日(日)

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 龍泉洞へは4年生の卒業合宿で行ってきました。ゼミ生から龍泉洞の写真をもらいました。私のカメラは壊れてしまって、まだ修理してません。3年も使われてはマーカーはわりに合わないそうですから、新たらしいカメラを買わなくちゃいけないかもしれません。

 鍾乳洞の不思議な感じというのはなかなか写真ではうまく撮影できないのですが、実際に龍泉洞へ行ったことがある人は、あのコバルトブルーの水が流れる鍾乳洞を思い出していただけるのではないでしょうか?

熊汁一杯1200円

2006年09月09日(土)

 「熊汁一杯1200円。売り切れました」という張り紙を岩手の岩泉、龍泉洞の前の食堂で見つけました。龍泉洞を訪れたのは二度目です。最初は二十年ほど前でした。その頃は熊汁を売っていた食堂はなかったように記憶しています。

 20年前、花巻温泉のさらにおくにある台温泉に泊まりました。台温泉は坂道に並んだ温泉で、台温泉の入り口にあったコーヒー屋さんで「龍泉洞はすごいよ!」と聞いて、出かけていったのです。鍾乳洞の中をコバルトブルーの水がごうごうと流れていました。

 龍泉洞の中には地底湖があります。覗き込むと吸い込まれそうな地底湖で、その湖を結ぶ川が縦横に流れているのです。20年前に行った時よりも、洞内の木道が広がっていました。そのぶん、流れる水が見える部分が減っているのが、少し残念でした。その昔は木道もなくて川に小船を浮かべて、洞内を巡っていたそうです。

 熊汁の張り紙のあった食堂で雉のそばを食べました。鶏ではなくて雉の肉が入ったお蕎麦です。雉の肉は鶏肉よりも脂が少なく身がしまっていました。ここに熊の毛皮がありました。熊の毛に触ったのは初めてですが、人間の髪の毛の感触にそっくりでした。で、背中の毛は柔らかく、腕の毛は固いということをお店の人に教えてもらいました。確かに腕の毛はごわごわしているのです。人間でも頭の毛のほうが柔らかくて腕の毛は固い男の人がいますが、熊もそんな感じ。こんな剛毛の腕で抱きしめられたらたまんないなあって、ああ、恐い。

 龍泉洞までは盛岡からバスで行きました。途中で稔り始めた蕎麦の畑を見かけました。コスモスの花がたくさん咲いていました。熊の食堂(いや、そんな名前ではありませんが)の人に聞いたら、今年はお天気がおかしくてコスモスは早くに咲き出したそうです。梅雨が長かったので、畑の夏の作物が実らないうちに、コスモスが咲き出してしまったという話でした。

 盛岡で光源社によってきました。塗りのおわんが欲しかったのですが、それはまた今度にして、白磁の湯のみを買ってきました。轆轤引きで、地が優しく厚い湯のみです。しばらくはこれがお気に入りになりそうです。

 それにしても熊汁ってどんな味なのでしょうか?今年は天候がおかしかったので、また里にたくさんの熊が下りてきそうです。そろそろ、熊に襲われたとか、熊と格闘したなんてニュースが流れる季節になりました。

安倍川の流れと大崩

2006年09月06日(水)

 静岡に行ってきました。静岡新聞との打ち合わせと連載小説の挿絵を描いてくださる宮本恭彦さんとの打ち合わせです。

 安倍川を見てきました。東海道は海岸線を走る街道ですから、川はどこもみんな河口が近くて、大きく広いです。安倍川もまたしかり。大きな堤防を持ち、河原には玉石が積み重なり、とうとうと流れています。で、その河原を見下ろすように富士山が浮かび、富士山の南側には日本平が濃い緑色で寝そべっています。雄大な眺めですね。この安倍川の岸で家康によって切支丹が処刑されたということです。

 安倍川から大崩へ。大崩は難所だと聞いていましたが、聞きしに勝るところでした。どころでも車でいける時代ですから、徒歩の時代の難所も行ってみるとさほどではないとこともよくあるのですが、大崩は恐い、恐い。静岡と焼津の間の山が大きく海に張り出しています。張り出した山が急峻な崖になって海に落ちているのです。しかも、その崖はもろい岩で出来ています。もちろん歩いても頭上からいつ岩が落ちてくるか解らないし、足を滑らせれば白い波が泡立つ海の中へ転落する危険もあります。が、曲がりくねって車道を車で走るのもスピードがあるので、歩く以上のスリルがあるかもしれません。陽が暮れてからは決して通りたくない道ですね。今はトンネルをくぐれるようになっています。そうだ、もうずいぶん昔ですが、東名の日本坂トンネルで大規模な事故があって大勢の死者が出ましたが、あの日本坂トンネルが走っているのが、この大崩のあるところです。

伊藤さん、ご無事で

2006年09月05日(火)

 伊藤さん、ご無事でなによりです。私は夏風邪を引いて、風邪を引いたまま合宿に行って雨に濡れて、またまた風邪がひどくなってなんて感じで、ご返事が遅くなりまして。ごめんなさい。

 息子は顔面麻痺にかかりました。なんでもヘルペスなんだそうです。帯状疱疹ではなくて、麻痺って症状が出ることがあるそうです。幸い、順調に快復しています。テレビで麻生太郎外務大臣の顔を見て「きっと顔面麻痺の後遺症だ」って家族で話してします。

 娘は沖縄へ。泳ぎに行ってます。お土産にベランダで履くサンダルとゴーヤを買ってきてくれるそうです。何にも言って来てないので、きっと無事なのでしょう。

 あ、そうそうハリケーンから台風に変わった台風12号が、帰化台風って言うんだそうですが、日本の太平洋岸をかすめてとおりすぎそうになっています。

店子の伊藤でございます

2006年09月01日(金)

どっどどどうどどどうどどどうの日でございます。ごぶさたいたしました。カリフォルニアです。やっとネット環境がもとにもどりました。で、また依存してるので早晩封印をするかもしれませんが。キーボードをぬらした話(何回もやりました。その時点で新しいのを買いに行く、これがひけつです)怪気炎の話(周囲のおばさんたち、N沢さん、H田さん、E元さん、I藤さん、たいてい怪気炎を上げてますよ)お掃除貯金の話(しめきり前はぐっちゃぐちゃで、そのままです)手で書くという話(あたくしも手で書くしか能が無いひとりです。。。。)も身につまされて読みました。熊本は忙しかったです。気候と家族にシテヤラレました(これも死語?)仕事というかおつきあいで、「星の王子様」と「草枕」読んだのがすごく新鮮でした。もうすぐ熊本近代文学館では漱石展があります(と馬場さんからの伝言です)こんど大きな内藤濯展もあります。

怪気炎

2006年08月30日(水)

 先日、車でラジオを聞いていたら「私が体験したシゴの世界」という投書を紹介していました。テレビドラマ「Xファイル」の効果音を使っていたので、てっきり「死後」の世界だと思っていたのですが、なんだかへんな感じで、うまく意味がつかめませんでした。2、3本の投書を聞くうちに「死後」ではなくて「死語」の世界だと気付きました。日常的に使う語彙が減ってしまったために、いろんな人がいろんな場面で「死語」の世界に遭遇しているのですね。

 自動車教習所の教官が「あさっての方向を見ていちゃだめだ」と教習生に注意したら「あさってってどの方角ですか?」と真顔で尋ねられたなんて話が投書の中にはありました。そうそう、そう言いました。大事な時によそみをしたり、ぼんやりしていると「何、あさっての方向を見ているんだ!」なんて叱られましたっけ。

 それで怪気炎です。昨日、人から頂戴した本を読んでいたら「怪気炎」が出てきました。おや、まあ、懐かしい。しばらく自分でも怪気炎なんて言葉は使っていませんでしたし、人の口から怪気炎なんて言葉が発せられるのも聞いていませんでした。あっちこっちで怪気炎を揚げている人はいるんですけどね。ネットの掲示板なんて怪気炎だらけで、時には掲示板への書き込みが殺到するだけでなく、関係方面をメールの嵐が襲う「炎上」なんて現象もこの頃はあるそうです。「炎上」があるなら怪気炎も死語にしなくてもよさそうなものですけど。

 時代が変わって自然に死語になってしまう表現があるのは仕方がないことですが、最近の「死語」の世界はちょっとそうした自然の流れとは違うような気がします。「死語」を少し現世に呼び戻してやらないと生活が不便で仕方がない気が私はします。

日大院生フィールドワーク

2006年08月29日(火)

 またまた例によって日大院生のフィールドワークです。毎年、夏休みはものすごいお天気でふうふう言ってしまうのですが、今年は天の助け。涼しくてお散歩びよりでした。もう何年か続いているので、誰がいた時にどこへ行ったか忘れてしまってます。もっとも今年は昨年、台風で流れた時のコースなので余計にわけわからんってことになりました。

 まず、山の上ホテルロビー集合。例によって例の如しでのんびり出発。この段階で、土地の高低差が解らないというので、ニコライ堂に行く予定を変更して山の上ホテルの裏の錦華公園にでました。崖になっているのです。この崖はJRの線路の方向へ続いています。で、これがもとの神田山の名残。途中でカトリック神田教会を見学したかったのですが、月曜日でお堂は閉まってました。神田教会からJRの線路際に出て、水道橋へ。水道橋からJRに乗り、電車の車内から土地の高低差と川筋の蛇行に注意を払い、御茶ノ水で中央線に乗り換え、東京駅にでました。東京駅ではまっすぐに皇居のほうを見て神田山の切り崩して埋めた日比谷入江の見当をつけました。

 それから丸の内中通りを有楽町まで歩き、有楽町のガードをくぐって晴海通りへ。晴海通りをまっすぐに築地本願寺まで歩く予定がなぜか「ライオン」でビールを飲もうと言い出した学生がいて、銀座四丁目で、銀座通りを新橋方向へ。「ライオン」でビールを一杯飲んでいるうちに、ここまで来たら、新橋に出て浜離宮に行ったほうが早いぞってなことになって、築地本願寺はパス。

 新橋で、旧新橋駅の遺構を見て、日本テレビで岡本太郎の壁画を見る。でカレッタ汐留に昇って、隅田川河口と房総半島、三浦半島などを見渡しから浜離宮へ。
 浜離宮の汐入の池に浮かんだ建物と、その背後の高層ビル群は近頃は絵葉書などにも出てくる景色になっていますが、これを皆で見て「へえ」と記念撮影。「でも、高層ビルと江戸時代の離宮の間の景色ってみんなきえちゃってますよねえ」という感想にもっともとうなずきながら、水上バスの乗り場へ。

 今年は勝鬨橋からずっと続く隅田川の橋をしっかり見物して浅草へ。まあ、そういうコースでした。風水では北に玄武、東に青龍、南に朱雀、西に白狐それぞれを配置して都市を作るのだそうです。玄武の守る北は山があり、青龍の守る東は川が流れ、朱雀が位置する南は池もしくは海、西の白狐は道があるという地形が都市つくりには向いているのだそうです。江戸の場合は玄武は富士。青龍は隅田川。朱雀は東京湾。白狐は東海道になるのだそうです。で、まあ、その都市構造の中核になったいる地形に注意を払いながら、歩くという遠足でした。

 アテネフランセなどがある御茶ノ水と水道橋の間の崖は学生時代からお馴染みの場所ですが、これが400年も前に神田山を切り崩した跡かと思うと「なるほどなあ」ってなんだか納得しました。東京の地図って、神田も駿河台も日比谷も全部、市街地として表示されていて土地の高低差や傾斜はほとんど描かれてませんが、注意して歩くと400年前の地形ってちゃんと残っているのですね。建築物が高層化する前に描かれた文学作品にはこうした高低差は傾斜(坂道の描写や高台からの眺め、崖下の住み心地)などがちゃんと描かれています。実際に地形に注意して歩くと、そういう描かれているものが実感的に読めてくるところがこのフィールド・ワークの面白さです。

おそうじ貯金

2006年08月27日(日)

 2000年の秋。ちょうど「楽隊のうさぎ」の連載を終わったとき、何とか部屋を片付けたいと思いました。大学の授業を8コマやりながらの連載は正直言ってしんどかったのです。そのしわよせはむちゃくちゃな部屋となって残りました。が、2000年秋にちょっとした騒動が勃発。休暇のつもりの半年が吹っ飛んでしまいました。で、部屋をすっきりと片付けられないまま「うさぎとトランペット」の連載に突入。

 「楽隊のうさぎ」はなぜか朝日新聞連載と勘違いされていることが多いのですが、関東では東京新聞連載でした。きっと吹奏楽コンクールを主催しているのが朝日新聞だからでしょう。で、「うさぎとトランペット」は2003年4月から公明新聞連載だったのですから、その間が約2年あるのですが、とても部屋の中を片付けるなんて気力はなし。2004年3月に連載を終えて、やや焦りました。なにしろ、部屋の中に置いたものがやたらになくなるのです。散らかりすぎていた何がなんだか解らないという状態。04年から05年は、応急的な片付けに終始しました。

 今年になってからようやく片付けの効果というか抜本的な片付けで少しずつできてきました。世間にはゴミ屋敷なるものがたくさんあるのですが、ある年数が経過してしまうと、片付けるということがひどく無意味になってしまうことがあるようです。片付けるというよりも放り出すといったほうがいい状態になってしまうみたい。

 で、結論を言うと、今年の夏休みになって、ようやく片付けて効果が少しづつ、現れてきました。私はこれをお掃除貯金効果と呼んでいます。お掃除貯金効果が現れると、だんだんと利子のような具合に加速も出てくるので、少し楽になります。さて、今年の年末までにどのくらいのお掃除貯金効果が現れているのか?来年の5月にはまた静岡新聞の連載が始まるので、今年、いささか作ったお掃除貯金効果はふっとんでしまうかもしれません。なんて思ったらいやになってしまうので、それか考えないことにします。

 昔から不思議なのですが、なんで締め切りが近づくと家のなかがめちゃくめちゃになってしまうのでしょうか?自分で散らかしているとは思えない乱雑な状態になります。家族がいなくて独身の時は、締め切り→大掃除→締め切り→大掃除のくり返しでした。残りが少なくなった夏休み。なんとかお掃除貯金を増やしたいものです。

神田山に日比谷入江

2006年08月26日(土)

 先日、山の上ホテルで待ち合わせをしまいた。夏休みらしく、ふだんは見かけない雰囲気の宿泊客の人がロビーにいました。60代の女性のグループ。地方から東京見物でしょうか?で、その中に一人の携帯電話が鳴りました。どうも、グループの誰かが迷っているらしいのです。
「え、坂を上って突き当たりのところだよ」
 そう答えていますが、山の上ホテルは坂を登る道ばかりではありませんから、この説明ではちょっと無理な気がしました。
「山の上なんかじゃないよ。山なんかないから」
 この場合、山の定義にもよるのですが、山の上ホテルは地形的には文字どおり山の上です。ただ、周囲のビルが高いので山に見せませんが。
「階段を登るのか?降りるのか?って、階段なんかないって」
 ははん、どうも電話のお相手は女坂か男坂のあたりにいるらしいのです。しかし、階段と聞いて、電話の女性は何か建物を連想してしまったみたいでした。で、同じグループの人がみかねて迎えに行きました。

 私は昔からこの山の上ホテルのある地形が不思議だったのです。なぜ、御茶ノ水の駅から見える神田川の流れだけが渓谷の表情をしているのでしょうか?崖の上になぜ御茶の水を汲み出す井戸があるのか?江戸の初期の地形を調べてようやく納得が行きました。

 あのあたりいったいは神田山だったのです。ですから神田明神も神田山の中腹の神社ということになります。神田川は神田山の中を切り裂くように流れていたというわけで、今のJR御茶ノ水駅のホームからの眺めが渓谷風なのでした。で、神田山を切り崩して埋め立てたのが、日比谷入り江。日比谷は遠浅の入り江だったのです。

 神田山の下はもう海辺で、井戸を掘っても水は塩辛いものだったそうです。塩辛い水はお茶には使えませんから神田山の井戸でお茶に使う水を汲んでいたというわけです。御茶ノ水の駅の前の交番のわきにお茶の水の跡が今でもあります。

 切り崩した神田山の名残が駿河台で、これが山の上ホテルの建っている場所です。駿河台の名称は駿河から来た徳側家康の家来が屋敷を構えたのでそういう名称がついたそうです。

 この工事をやったのが家康、秀忠、家光の徳川三代の時代。それからもう400年もたつのですが、あのあたりの奇妙な地形には、神田山や日比谷入江があった頃の名残がまだちゃんと残っているのですね。豊臣秀吉に元からの領地を取り上げられて、関東に入るように言われた家康は、いったいどんな気持ちで神田山や日比谷入江を眺めていたのでしょうか?お城を中心に「の」の字に江戸の町を作って行くことを考えたのは家康だそうです。「の」の字の渦巻きですから、無限に大きくなる可能性があるわけです。秀吉が朝鮮を攻めて、さらに中国までもという無限の夢を見ていたい頃に家康は「の」の字に発展する町を夢想していたわけです。
 
 来年、静岡新聞で文禄慶長の役から家康がなくなる頃までの描く時代小説を連載します。その下準備なのですが、調べてみると目の前にいろんなものが開けてきておもしろいです。神田山や日比谷入江がある眺めというのは横浜の金沢八景の眺めからおおよそ推察することができます。幼稚園まで金沢八景で暮らしていましたが、大々的な埋め立て工事などが始まる前の景色をよく記憶してます。なるほど、東京湾沿岸というのは、おおよそ似たような眺めを持っていたわけだなあと思いました。
日比谷のひびは海苔の養殖するための網の「ひび」を意味しているそうです。金沢八景の平潟湾でも海苔を養殖していましたから、「ひび」を張った粗朶が海に並ぶのは懐かしい光景です。

 私の母方の実家には慶長年間から始まるバインダー式の位牌があります。金沢八景に一族が住みついたのは、慶長の頃のようです。父方は祖父の時、三河から東京の出てきたのですが、家の紋に「本田立葵」を使っていますから、何か徳川さんと縁があったのかもしれません。
あるいは徳川家康が関東に入った頃に、三河と三浦に離れ離れになったものが、300年たって知らずに隣同士に並んだなんてことがあるのかもしれません。母の実家と父の実家は隣どうしなのです。

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